67 たぶらかす
―――そして次の日の夜、日置は森上家へ出向いた。
「こんばんは」
日置は玄関の前でそう言った。
するとしばらくして、恵子がゆっくりとドアを開けて出てきた。
恵子は来訪者が日置だとわかっていた。
そして恵子は、とても嫌そうな表情を見せた。
「慶太郎くんは、元気になりましたか」
「まあ・・おかげさまで」
「そうですか。それはよかったです」
「先生、なんの用ですか」
「はい、ぜひ、お話がしたくてですね・・」
「卓球のことですか」
「はい」
「それやったら、昨日、言うた通りです」
「いえ・・あの、もう一度、お話させて頂けませんか」
「先生」
そこに慶三が現れた。
「どうも、こんばんは。お忙しいところ、すみません」
「恵子、上がってもらいなさい」
慶三は、日置が来た意味を理解していた。
「だから、私は言うたやん!」
「ええから。先生、どうぞ」
慶三は入るように促した。
「では、お言葉に甘えてお邪魔致します」
日置が恵子の前を通る時、恵子は日置を睨んでいた。
そして日置は奥の六畳間に案内されて座った。
「先生ぇ・・」
森上は日置を見て、情けない表情を見せた。
「突然、ごめんね」
慶太郎は、部屋の隅でもう寝ていた。
「先生、狭い所ですけど、すんません」
慶三はそう言いながら、日置の正面に座った。
「いいえ、とんでもないです」
「それで、話て、恵美子のことですよね」
「はい」
そこに、恵子がお茶を運んで日置の前に湯飲みを差し出した。
「恐れ入ります・・」
日置は軽く頭を下げた。
そして恵子は慶三の隣に座った。
「私は続けさせませんからね」
恵子が言った。
「昨日のことは、慶太郎くんの命にかかわることで、ご両親のお気持ちは察するに余りあると承知しております」
三人は日置の言葉を黙って聞いていた。
「そして、二度とあってはならないことだとも承知しております。でも・・娘さんに卓球を辞めさせるというのは・・考え直して頂けないでしょうか」
「先生」
恵子が冷たく呼んだ。
「はい」
「なんかあった時、先生はどう責任を取ってくれはるんですか」
「・・・」
「なんかあってからでは遅いんです」
「よちよちのみなさんも、慶太郎くんのこと、よく見てくださってます」
「だから!それは知ってますって。万が一ということがあるでしょ!私はそれを言うてんるんです」
「仰る通りです・・仰る通りですが・・」
「なんですか!」
「恵子」
慶三がたしなめた。
すると恵子は口を噤んだ。
「あの、先生」
「はい」
「昨日も、こいつらと話したんですけどね、どうしても恵子はあかんて、譲りませんのや・・」
「そうですか・・」
「先生が毎日、ここへ通うて、よちよちの人をコーチしてはるんも、恵美子のためですよね」
「はい・・」
「恵美子を教えるために、あんな・・年寄りのコーチまで引き受けはって・・」
「・・・」
「いや、先生は、ほんまにようしてくれてはると思てます。正直、頭が下がります」
「いえ、そんな・・」
「せやけど・・わしも本音を言えば・・やっぱり恵子と同じ思いなんですわ・・」
「そう・・ですか・・」
日置は思った。
恵子は大反対だが、せめて慶三は賛成してくれるのでは、と。
そこに一縷の望みを賭けていたが、たった今、崩れてしまった、と。
「森上さん」
日置が恵美子を呼んだ。
「はいぃ・・」
「きみは、どうなの?」
「先生!恵美子にそんなん訊かんといてくださいよ!」
「まあまあ」
怒る恵子を、慶三は肩を叩いてたしなめた。
「お母さん、森上の気持ちを、森上自身はどう思っているのかを聞かせてください」
「必要ありません!」
「恵子!それくらいええやないか」
「あんた、恵美子の気持ちを聞いて、どうなると言うんよ!続けたいて言うに決まってるやないの!」
「それはそやけどやな・・」
「ほなら、聞く意味なんかないやないの!」
「お母さぁん・・」
森上が口を開いた。
「恵美子!あんたは黙っとき!」
「私ぃ・・もうええ・・」
「え・・」
「もう卓球、辞めるぅ・・」
「ちょ・・森上さん、それ本心なの?」
日置は慌てて訊き返した。
「先生!本人が辞める言うてますやん。それでええんとちゃいますの!」
「森上さん!ほんとに辞めるの?」
日置は恵子を無視して訊いた。
「先生ぇ・・すみませぇん」
「う・・嘘だよね・・嘘だよね」
「もう・・家族で揉めるん・・嫌なんですぅ・・」
日置は愕然とした。
けれども、森上家の事情を押してまで続けさせることになんの意味があるのかとも思った。
それは自分の気持ちを森上に押し付けているだけだ、と。
強い選手に育てて三神に勝って、インターハイで優勝させるという、自分のエゴじゃないのか、と。
一方でこうも思った。
森上は、一年生大会には出たものの、まだなにも身に着けていなくて出たに等しい。
つまり、本気で負ける悔しさや勝つ喜びをまだ経験していない。
ライバルもいない。
即ち、「やり甲斐」を見出すまでに至ってない森上は、辞めることにも躊躇しない。
だから森上は「あっさり」と辞めると口にしたのだ、と。
日置は言いたかった。
きみは、これからなんだ。
これから多くを経験すると、岩にしがみついてでも「続けたい」と懇願するに違いないんだ、と。
それをわかってくれ、わかってほしい、と。
けれども日置は口にできなかった。
親にすれば、卓球と命を秤にかけることすら、論外であろうと。
「そうなんだね・・うん、わかった」
日置はそう答えた。
「お父さん、お母さん、無理な話を聞いてくださり、申し訳ありませんでした。でも森上さん自身が辞めるというのを引き止めるつもりはありません」
「ほんまに、すんまへん・・」
慶三は日置を気の毒に思っていたが、恵子は、答えが出たのならさっさと帰ってくれ、と言わんばかりに日置を見ていた。
「先生、もう二度と、恵美子をたぶらかすようなこと、言わんといてくださいよ」
「おい、恵子!それはあまりに失礼やぞ!」
恵子はソッポを向いた。
「先生、こいつ、まだ気が立ってまして、堪忍してください」
「いえ・・気にしてません・・」
そして日置は「お邪魔しました」と言って立ち上がり、足早に玄関へ向かった。
日置の後を慶三が続いた。
「お父さん」
日置は靴を履いて慶三に向かい合った。
「はい」
「僕はいつでも森上を待ってますので、それだけ伝えてください」
「はい・・わかりました・・」
「では、失礼します」
日置は頭を下げて、外に出た。
「ふぅ~」
日置は息を吐きながら、夜空を見上げた。
たぶらかしてる・・か・・
さすがの日置も、恵子の言葉にショックを受けていた。
そして、慶三にはああ言ったものの、もう森上のことは諦めようと思っていた―――
それから日置は、小島の家に電話をかけた。
「もしもし、小島です」
出たのは小島本人だった。
「あ、僕」
「先生、外からですか」
公衆電話からだと、受話器を取った時に「プー」という音が鳴るのでわかるのだ。
「うん・・」
「先生、どうかしたんですか」
「いや・・彩ちゃんの声が聴きたくなって」
「え・・」
「なんだよ、えって」
「いや・・先生、なんかあったんとちゃいますか。昨日のことですか!」
小島は誘拐事件のことを、日置から聞いて知っていた。
「ねぇ・・彩ちゃん」
「はい」
「今から・・会えないかな・・」
「会えます!行きますから、どこですか!」
「少しだけでいいんだ・・」
「ええですから、どこへ行けばええですか!」
「じゃ・・なんばへ出るね」
「わかりました!高島屋の前ですね!」
「うん・・ごめんね」
「ほな、切ります!」
そして電話は切れた。
彩ちゃん・・いい子だな・・
日置はゆっくりと受話器を置いた。




