65 誘拐事件
―――その頃、車中では。
「おっちゃんの家て~どこなん~」
慶太郎は、助手席から外を眺めていた。
「もうすぐやで」
「うわあ~ようさん車が走ってるな~」
「そやろ」
「ああ~あっちに高速道路がある~」
慶太郎は珍しい光景に、身を乗り出さんばかりだ。
「ちゃんと座っとかな、危ないで」
車にはエアコンなどついておらず、窓は全開にされていた。
それでも慶太郎は、男性の言うことを聞かず、顔や手を出していた。
「危ないから座っとけ!」
男性は突然怒鳴り声を挙げた。
慶太郎は男性の変貌ぶりに、黙ったまま男性を見た。
「な、危ないやろ」
男性は慶太郎をチラリと見た。
「う・・うん・・」
慶太郎は小さくなって頷いた。
「慶太郎くんて、どんなお菓子が好きなんや?」
「・・・」
「どんなお菓子が好きなんや」
「チ・・チョコレート・・」
「そうか。チョコレートが好きなんか」
「・・・」
「他には?」
「・・・」
「他には!」
慶太郎の体は思わずビクッとした。
「他には」
「えっと・・あ・・あめちゃん・・」
「そうか。あめちゃんが好きなんやな」
「おっちゃん・・」
「なんや」
「もう・・帰りたい・・」
「なに言うてんねや。おっちゃんの家でレコード聴くんやろ」
「・・・」
「うっ・・ううう・・」
そこで慶太郎は泣き出した。
「ほらほら、泣かんでもええ」
「帰りたい・・帰りたい~~うわ~~ん」
「よしよし、お菓子、いっぱい食べさしたるから、泣かんでもええ」
男性は、窓を閉めようと思っても無理だった。
窓を閉めるには、車を停車させ、助手席のレバーを回さなければならないからだ。
そのことに男性は焦っていた。
そこで車は赤信号で停車した。
男性は、今だとばかりに必死に助手席のレバーに手を伸ばした。
隣の車線に、トラックが停車した。
運転手は、ふと慶太郎が泣いているのを見下ろした。
あれ・・あの子、森上さんの弟とちゃうんか・・
そう、運転手は相沢だった。
男性は汗をタラタラ流しながら、レバーを回していた。
やがて窓は締められたが、慶太郎は窓を叩いて泣き叫んでいた。
ちょっと待てよ・・
この暑いのに窓を閉めるて・・おかいしいやないか・・
ほんであの子・・泣いとるやないか・・
「おい、浩介」
相沢は、助手席に座る後輩の浩介を呼んだ。
「はい」
「ちょっと予定変更や」
「え?」
「得意先、行くん、後回しや」
「どこ行くんですか」
「責任はわしが取る」
そして相沢は、男性の車の後をつけた。
やがて車は幹線道路から外れ、閑静な住宅地へ入って行った。
「相沢さん、どこ行くんですか。ここ住宅地ですよ」
「ええから」
「ああ~お得意さんとの約束・・とっくに過ぎてる・・」
浩介は時計を見ながら心配をした。
そして相沢は、トラックで追いかけるのを無理だと判断し、「降りるぞ」と言った。
相沢と浩介はトラックから降りて、走って車を追いかけた。
「ちょっと、相沢さん、なにしてるんですか」
「あの車、怪しいんや」
「え・・」
「ええから、黙って着いて来い」
幸いにも車は、ほどなくしてある家の前で停車した。
そして運転席から男性が降り、助手席へ回って慶太郎に何かをしていた。
「あの車ですか」
浩介が訊いた。
「車に知ってる子が乗っとるんやけど、どうも怪しいんや」
「え・・」
「えらい泣き叫んどったんや」
「親に怒られたんとちゃいますか」
「いや、あの子の家はここやない」
「そうなんですか」
そして男性は慶太郎を降ろそうとした。
すると慶太郎には猿ぐつわが嵌められていた。
男性は、辺りをキョロキョロと見回しながら、慶太郎をヒョイと抱き上げた。
「猿ぐつわや・・」
相沢は愕然としていた。
「げ・・」
浩介も同じだった。
「これは誘拐やな」
「みたいですね・・」
「よし、行くぞ」
相沢がそう言うと、二人は家まで走った。
そして男性が、まさに玄関のドアを開けようとした時だった。
「ちょっと待て!」
相沢が叫んだ。
驚いた男性は、少しだけ振り向き、慌てて中へ入り鍵を閉めた。
「しもた!」
相沢はドアノブをガチャガチャと捻った。
「おい!出て来い!」
男性は、慶太郎をすぐにローブで縛り上げて、和室に放り込んだ。
「警察やな」
相沢が浩介に言った。
「ほなら、僕、電話してきます!」
「待て!」
中から男性の声がした。
「警察に言うたら、子供は殺すぞ」
「なっ・・なんやと・・」
「ええか、子供は殺す」
「浩介・・ちょっと待て・・」
相沢が引き止めた。
「せやけど・・このままやったら・・」
「わかった!言わへん。言わへんから、子供を返してくれ」
「お前らに関係ない。立ち去れ」
「・・・」
「相沢さん・・どうするんですか・・」
浩介は小声で囁いた。
相沢は、早まったと思った。
もっと様子を見て、犯人に知られないよう警察に届けるべきだったと―――
一方で、田中から報せを受けた恵子は、すぐに自宅へ戻った。
その際、田中も部屋に上がった。
「恵美子!」
森上は、呆然と部屋で座っていた。
「あんた、なにしてたんよ!」
「まあまあ、奥さん、ここは落ち着いて」
「田中さん、車のナンバー、覚えてる?」
「いや・・見てないねん・・」
「男の特徴は!」
「小太りで・・背も低くて・・なんか気持ち悪い感じやったわ・・」
「け・・警察・・警察に電話・・」
恵子の手は震えて、ダイヤルの穴に指が入らなかった。
「ちょっと待って」
田中が止めた。
「なによ!」
「警察に報せたら・・けいちゃん・・」
田中は「殺される」と言いそうになったが、呑み込んだ。
「せやかて、警察に報せんかったら、どないしたらええんよ!」
「誘拐やん・・身代金とか、要求してくるんとちゃうやろか・・」
「そんなお金なんか、どこにもあらへんわよ!」
そこで恵子は泣き崩れた。
「とりあえず、旦那さんに報せんと」
「慶太郎~~!わああああ~~!」
田中は恵子の様子を見て無理だと判断し、自分が慶三に電話をかけることにした。
報せを受けた慶三は愕然としたが、「すぐに帰る!」と言って工場を後にした。
その頃、日置は練習のため『よちよち』に出向いていた。
「先生~、今日は私からね~」
「いや~~私よ~~」
「昨日、あんたやったやん。私、私よ~」
「田中さん、来てないな」
この時点で、女性部員は五人に増えていた。
「それじゃ、ジャンケンで決めてください」
日置がそう言うと「はぁ~~い!」と、おばさん連中はジャンケンを始めた。
この様子を、秋川と水沢は呆れて見ていた。
そして日置を気の毒に思っていた。
森上さん・・どうしたのかな・・
日置は小屋の外を見ていた。
「先生、毎日、すんまへんなあ」
秋川が言った。
「いいえ、とんでもないです」
「それにしても、森上さん来ぇへんな」
「どうしたんですかね」
「いつもやったら、とっくに来てるはずやのなになぁ」
日置もそう思っていた。
森上は日置が来る前に、必ず先に来ていたからだ。
「先生~、順番、決まりました~」
中島がそう言った。
「あ・・はい、じゃ、始めましょうか」
「お願いします~~」
そして台には、日置と中島が着いた。
「じゃ、フォア打ちから行きますね」
「はぁ~~い」
中島もそうだが、おばさんたちの基礎など、まったくなってなかった。
いわゆる「ピンポン」ばかりやっていたおばさんたちを「改造」するのは、並大抵ではなかった。
そこで日置は中島の後ろへ回り、「いいですか」と中島の右手を持った。
「きゃあ~~」
他の者たちは、それだけで叫び声を挙げていた。
「いつも言ってますけど、こう、こうやって振ってください」
「はぁ~~い」
「そして左手は、ここね」
日置は中島の左手も持った。
「きゃあ~~~」
また叫び声が上がった。
「じゃ、素振りやってみてください」
日置は中島から離れてそう言った。
まったく・・この人たち上達する気があるのかな・・
それにしても・・森上はどうしたんだろう・・
日置はまた入口を見ていたのだった。




