64 不審な男
―――「篤裕~!」
篤裕の母親、久絵が、遠くから篤裕を呼んだ。
「なに~!」
「出かけるから、帰っておいで~!」
「どこ行くん~!」
「お父さんがね~、ご飯食べに連れてってくれるて~!」
「わああ~そうなんや~!」
「ほらほら、はよ~!」
「けいちゃん、僕、帰るわ~」
篤裕は、砂場の砂をパタパタと払った。
「ええな~ご飯かぁ~」
慶太郎は、トンネルを作っていた。
「また明日な~」
「うん~またな~」
そして篤裕は久絵の元へ走って行った。
「けいちゃん~!ごめんね~!」
久絵がそう言った。
慶太郎は立ち上がって、バイバイと手を振った。
そして慶太郎はまた座って、続きを作り始めた。
その時、公園の外で慶太郎を見ていた男性が、ゆっくりと慶太郎に近づいて行った。
公園には、他に誰もいなかった。
「ぼく」
男性はニッコリと優しく微笑み、慶太郎に声をかけた。
「なに~」
慶太郎は座ったまま男性を見上げた。
「なに作ってるん?」
男性は砂場のヘリで中腰になった。
「トンネルやねん~」
「へぇーうまいな」
「難しいねんで~」
「そうなんや」
「すぐに崩れるねん~」
「おっちゃんも手伝ったろか?」
「ほんま~」
慶太郎は、優しそうな男性を見て、全く警戒心を抱いてなかった。
そして男性はトンネルを作り始めた。
男性の大きな手は、砂を固めて盛り上げ、下の部分を手で掘っていった。
「わあ~おっちゃんすごいな~」
「そうか。ほら、ぼくもここに手を入れて掘ってみ」
「わかった~」
慶太郎は男性に言われるがまま、どんどん穴を掘っていった。
「おお、うまいな」
男性は小さく拍手をした。
慶太郎は男性を見て、嬉しそうに笑った。
「ぼく、一人なんか?」
「そうやねん~あっちゃんご飯食べに行くて~」
「そうなんや」
慶太郎は『天才バカボン』のテーマ曲を歌い始めた。
「それ、バカボンの歌やな」
「そうやねん~」
「おっちゃんも知ってるで」
「そうなんや~」
そして二人は一緒に歌い始めた。
慶太郎は、恵子に『バカボン』を観ることを咎められていた。
ましてや一緒に歌うなど、なかったことだった。
「他にも知ってる歌、あるか?」
「ある~。えっとな~タイムボカン!」
「おお~おっちゃん、それも知ってるで」
「えええ~~ほんまなん~」
「よーし、ほなら、一緒に歌おか」
そして二人は、また一緒に歌った。
慶太郎は嬉しそうに、「ボカーン!」というフレーズを強調して歌った。
「おっちゃんの家な、漫画のレコード、ようさんあるし、お菓子もいっぱいあるねんで」
男性は歌い終えてそう言った。
「ええ~ほんまなん~」
「行くか?」
慶太郎は、レコードのことはわからなかったが、お菓子という言葉に気持ちがなびいた。
「ほんなら~お姉ちゃんに言うて来る~」
「お姉ちゃんにはな、おっちゃんから言うてあるねんで」
「ええ~」
「さっき、言うて来たんや」
「そうなんや~ほんなら行く~」
慶太郎はそう言って立ち上がった。
そして男性は、慶太郎の半ズボンの砂を優しく落としてやった。
「あそこで手、洗おか」
男性は水道を指した。
「わかった~」
そして二人は水道で手を洗い、男性はハンカチで慶太郎の手を拭いてやった。
「ぼく、名前はなんていうんや」
「森上慶太郎~」
男性は、また優しく微笑んだ。
「よし、ほな行こか」
男性は慶太郎の手を握り、公園の外へ出た。
しばらく歩くと、白い乗用車が停められてあった。
「これな、おっちゃんの車や」
「わあ~僕んとこ、車なんてないねん~」
慶太郎は、珍しそうに車を眺めていた。
「かっこええか?」
「うん~かっこええ~」
「よし、ほなら乗したろ」
そして男性は助手席のドアを開け、慶太郎を乗せようとした時だった。
「あらま、けいちゃんやないの」
そこに田中が通りかかった。
「おばちゃん~」
「どこ行くん?」
田中は怪訝な表情で男性を見た。
「こんにちは。私は慶太郎くんの叔父です」
「ああ・・叔父さんなんですか」
「夏休みでしょ。それで慶太郎くんを迎えに来たんですよ」
「へぇ・・」
それでも田中は、どこかしら不信感を抱いていた。
慶太郎は、二人の会話など聞いてなかったし、聞いていたとしても意味などわかるはずもなかった。
「道路が混むとあきませんので」
男性は慌てて慶太郎を助手席へ座らせた。
田中は慶太郎を見た。
すると慶太郎は、とても嬉しそうにしているではないか。
そしてニコニコと笑いながら、車内を見回しているではないか。
田中は、男性が誘拐犯だと一瞬疑ったが、慶太郎の様子と、もし男性が本当に叔父であれば、誘拐犯などと訊くのは失礼になると思い、何も言わずに黙っていた。
「ほな、失礼します」
男性はそう言いながら、運転席に座ってドアを閉めた。
慶太郎は、「バイバイ~」と田中に手を振っていた。
そして車はこの場を後にした。
そうか・・叔父さんなんやな・・
田中は、走り去っていく車を眺めながら、自分にそう納得させ、自宅へと向かった―――
それから十分ほどが過ぎた頃、森上は田中と入れ替わるように公園へ向かった。
ほどなくして公園に着いた森上は、慶太郎の姿が見当たらないことに驚いた。
「慶太郎~~慶太郎~~」
森上は公園内の、あちこちを走って探した。
ええ・・どこ行ったんや・・
「慶太郎~~!」
森上の声は次第に大きくなっていた。
もしかして・・あっちゃんとこかも・・
そして森上は、堂前家に向かった。
堂前家は、森上家から、徒歩五分ほどの位置に居を構えていた。
堂前家は比較的裕福で、家も二階建ての一軒家だった。
森上はインターホンを鳴らしたが、一向に誰も出てこない。
あれ・・おかしいな・・
森上は何度もインターホンを鳴らした。
「ああ、堂前さん?」
そこに隣人の主婦が玄関から出てきた。
「はいぃ」
「さっきな、ご飯食べに行くいうて、出掛けたで」
「えっ・・」
「あっちゃんな、嬉しそうにして、なんばへ行くねん~いうてな」
「あのぅ・・あっちゃんだけですかぁ」
「え・・」
「もう一人、子供がいてませんでしたかぁ」
「ご家族での食事やからね、奥さんとあっちゃんだけやったで」
「そ・・そうですかぁ・・」
「どないしたん?」
「あのぅ・・あっちゃんと同じくらいの子、見ませんでしたかぁ」
「ああ、いつも遊んでるあの子か?」
主婦は慶太郎のことをいった。
「はいぃ・・」
「いや、見てへんよ」
「そ・・そうですかぁ・・」
そして主婦は、「今からスーパーへ行くねん」と言いながら、森上の前から立ち去った。
慶太郎・・どこ行ったんや・・
ど・・どうしょう・・
そして森上は、再び公園に戻った。
やっぱりいてへん・・
嘘やん・・
どこや・・慶太郎・・どこ行ったんや・・
そして森上は『よちよち』ではないかと、そっちに向かった。
やがて『よちよち』の入口に立った森上は中を覗いたが、まだ誰もいなかった。
ましてや、慶太郎の姿など、どこにもなかった。
その後、森上は商店街の隅から隅まで捜して歩いた。
けれどもどこにも慶太郎の姿はなかった。
あの子・・自分がいてるからあんかねや・・て言うてたな・・
ま・・まさか・・そんなこと・・
森上は、慶太郎が家出をしたのではないかと思った。
そして、「もっと練習したい」といった言葉を、死ぬほど後悔していた。
慶太郎・・慶太郎・・
お姉ちゃん・・もう練習できひんでもええ・・
お願いやから・・戻って来て・・
森上はそう思いながら、トボトボと自宅へ向かった。
「ああ、恵美ちゃん」
森上が玄関を開けようとすると、慌てて田中が声をかけて来た。
森上は、黙って田中を見た。
「けいちゃんて・・叔父さんの家に行った・・?」
「え・・」
「いや・・叔父さんが夏休みやからいうて、けいちゃんを迎えに来とったんやけど・・」
田中は願った。
「そうや」と言うてくれ、と。
「叔父さん・・?」
田中は森上の返答で、不安が頭をよぎった。
「叔父さん、迎えに来たんやろ?な、そうなんやろ?」
田中は念を押すように言った。
「そんなん・・聞いてませんけどぉ」
田中は愕然とした。
そして、なぜ止めなかったのかと、身が震えた。
「た・・大変やわ・・これは大変や・・」
「どうしたんですかぁ」
「けいちゃんな・・男の人の車に乗って・・」
「・・・」
「ゆ・・誘拐された・・」
森上は失神しそうになり、その場にへたり込んだ。
「しっ・・しっかり・・しっかりしぃや!」
「慶太郎・・」
森上は茫然としたまま、動けなかった。
そして田中は、恵子が勤めるスーパーまで走って行ったのだった。




