63 卓球センター
―――その頃、日置は。
「うん、そうなんだよ」
日置は小島と電話で話していた。
そして『よちよち』のコーチを引き受けたことを、話し終えたところだった。
「いや、今日、内匠頭から聞きましたけど、私も心配してたんです」
「僕もね、練習のことは様子を見るつもりで伺ったんだけど、なんか、成り行き上、そうなってね」
「でも先生、大丈夫なんですか?」
「なにが?」
「お年寄り相手にコーチやなんて・・」
「全然平気だよ」
「あまり無理せんといてくださいね」
「ありがとう。でもこれで森上の練習もできるし、やれやれだよ」
「なんやったら、私も行きましょか?」
「なに言ってるの。きみには桂山での練習があるでしょ」
「まあ・・そうですけど」
「社会人の予選はいつなの?」
「社会人」とは、全日本社会人卓球大会のことである。
この大会は、シングル、ダブルス、ミックスの三種目である。
「九月に入ってからです」
「そうなんだ。ミックスは誰と組むの?」
「桂山の男子とですけど、まだ決まってないんです」
「そうなんだ」
「男子の方が人数少ないですし、私はカットマンですし、あぶれるかも」
桂山の男子チームには、カットマンがいなかった。
「男子って、何人だっけ」
「六人です」
「そうなんだ」
「先生は、出ない・・ですよね・・」
「あはは、なんで僕が」
「だって、先生も社会人ですし・・」
「僕にはそんな余裕ないよ」
「ですよね・・」
「きみが組むなら、秀幸だよ」
「一回くらい・・先生と組みたいなぁ・・って」
「あのね、試合と恋人とは別。それわかってる?」
「はい・・」
「僕が組むんだったら為所さんだよ」
「ですよね・・」
「わがまま言わないの。じゃ、そろそろ切るね」
「はい、おやすみなさい」
「ああっ、そうだ」
日置は何かを思い出したようにそう言った。
「どうしたんですか」
「お盆休みってあるよね」
「はい」
「その時、僕の実家へ一緒に行ってくれないかな」
「え・・先生の実家ですか・・」
「母がね、きみを連れて来いってうるさくて」
母親の佳代子は、何度も日置に電話をかけ、小島を連れてくるよう、さんざん言い渡していた。
「はい、是非、伺います」
「うん、そうしてくれると嬉しいよ」
小島は緊張する思いがしたが、実家へ赴くということは、結婚を視野に入れている日置の気持ちが嬉しかった。
「じゃ、そろそろ切るね」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ、彩ちゃん」
そして日置は受話器を置いた。
日置と小島は電話を切る時、どっちから切るんだと互いを気遣っていたが、いつしか日置から切るようになっていた。
これもごく自然にそうなっていた。
二人が結ばれて以降、互いは階段を一つ上がっていたのだ。
その後、日置は、午後から学校の小屋で阿部と四時間練習した後、『よちよち』へ出向き、五時から年寄り組のコーチと森上とのマンツーをやり熟していた。
阿部は基本練習の後、フットワーク、ツッツキからフォアと回り込んで打つ練習、日置のドライブを受ける練習、カット打ちからスマッシュ、サーブから三球目、レシーブから四球目、多球打ちにロビング等々、細かく時間配分されたメニューを熟していた。
これでもまだ、基本練習だ。
阿部の素質は、いわゆる「普通」で、これらの技術を習得するには、まだまだ時間を要した。
とにかく毎日の反復練習が欠かせないのだ。
一方で森上は、日置の教える内容を、まるでスポンジが水を吸うが如く、どんどん習得していった。
けれども難点があった。
そう、異質ラバーの対策が全くできずにいたのだ。
これは阿部も同じだが、阿部の場合は卓球センターへ連れて行くことで、問題はある程度解決する。
けれども森上は、そうはいかない。
日置は悩んだが、まずは『よちよち』の小屋で、できるだけのことをしようと、自分を納得させていた。
『よちよち』の中島と柳田は、日置がコーチしてくれることで、以前は週に三日来ればいいところを、毎日出て来ていた。
そのうち、日置の噂を聞いた地元のおばさん連中は、興味深そうに小屋を訪れることもしばしばだった。
その中には、パン屋でアルバイトをする今井と、森上家の隣人である、田中もいた。
こうして「賑わい」を見せる頃には、季節は八月を迎えていた―――
「阿部さん」
小屋に到着した日置は、中へ入って阿部を呼んだ。
「はい」
阿部はサーブ練習をしていた。
「今日は、今から卓球センターへ行くからね」
「そうなんですか」
「たくさんの人たちがいるから、いい練習になるよ」
「わかりました!」
阿部は急いで球拾いをした後、卓球部のジャージを着て小屋から出た。
「じゃ、行こうか」
「はいっ」
そして二人は卓球センターへ向かった。
「先生」
阿部は歩きながら話しかけた。
「なに?」
「よちよちのコーチ、どうですか」
「ああ、まあ、上手くいってるよ」
その実、日置はおばさん連中に「キャーキャー」と言われるのに頭を痛めていた。
けれども森上のためだと、我慢をしていた。
「恵美ちゃん、どうですか」
「頑張ってるよ~」
森上に関しては、日置は嬉しそうだった。
「なんか私ら、同じ部やのに、会えへんて、変ですよね」
阿部はそう言いながら笑った。
「確かにそうだよね」
「今は夏休みですし、まったく会ってないですからね」
「まあ、こんな形もいいんじゃない?」
日置は苦笑した。
「こないだね・・」
そこで阿部は、妙に深刻な表情になった。
「うん」
「恵美ちゃんから電話があって・・」
「どうかしたの?」
「恵美ちゃん・・泣いてたんです」
「えっ・・どうして?」
日置は唖然とした。
そしてとても嫌な予感がした。
「しかも・・公衆電話やったんです・・」
「森上さん、どうして泣いてたの?」
「なんか・・家で揉めたみたいで・・」
「え・・」
「恵美ちゃん、もっと練習したいって言うたらしいんですけど」
その実、森上はあの後も「学校で練習したい」と両親に頼んでいた。
なぜなら、せっかく日置がよちよちへ出向いても、おばさん連中にまとわりつかれ、そのことを森上は気の毒に思っていたのだ。
「それで・・弟の慶太郎くんが、僕がおるからあかんねや~と、泣いたらしいんです」
「・・・」
「恵美ちゃん、自分のせいで慶太郎にかわいそうな思いをさせた、言うて・・」
「そうなんだ・・」
「言わんといてと言われたんですけど・・なんか恵美ちゃん、家の中で居心地が悪いんちゃうかな、と思て・・」
「そっか・・」
日置は思った。
よかれと思って自分は『よちよち』へ出向いているが、それが反って森上に負担をかけているのではないか、と。
森上自身も『よちよち』の練習では、時間が足りないと思っているはずだ。
森上の言う「もっと練習したい」とは、学校での練習のことであろう、と。
なんとか策がないものか、もう一度両親と話をしてみよう、と。
やがてセンターへ到着した日置と阿部は、ロビーに足を踏み入れた。
「樋口さん、こんにちは」
日置は受付の男性に挨拶をした。
「おお、日置くん。久しぶりやな」
「はい、ご無沙汰してます」
「おっ、その子は教え子なんやな」
樋口は阿部を見てそう言った。
「阿部です。よろしくお願いします」
「今な、満員やけど、もうちょっとしたら何台か空くから待っといてや」
「はい」
そして日置と阿部はベンチに座って待つことにした。
しばらくすると、一人の男性がヒューヒューと口笛を吹きながらロビーに現れた。
「うわあ・・一杯やな・・」
男性は中を覗いて、残念そうに呟いた。
男性は、日置と同年代くらいに見えた。
「順番待ちか・・」
男性は日置らを見てそう言った。
「混んでますよね」
日置は苦笑した。
「夏休みですからね」
男性も苦笑した。
「桐花学園・・ですか」
男性は阿部のジャージを見てそう言った。
「はい」
「桐花いうたら、森上というすごい選手がいてますよね」
「森上をご存じなんですか」
「はい」
男性はニッコリと笑った。
「一年生大会でね、森上さんを見て驚きました」
「そうでしたか」
「僕、蒼樺高校で卓球部の監督やってます、有本と申します」
日置は、蒼樺・・と、一瞬、八代との話を思い出した。
日置は立ち上がって「桐花学園の監督で、日置と申します」と丁寧に頭を下げた。
「監督いうても、部員がいてないんですけどね」
有本は苦笑した。
「そうなんですか」
「もうずっと、いてません」
「・・・」
「僕は卓球が好きで、一応、部員は募集してますし、いつでも門戸を開けてるんですけど、まあ~人気ないですわ」
「そうですか・・」
「今年はなんとか、と思てたんですが、未だゼロです」
「うちも、二人だけですよ」
「二人。上等やないですか。いてるだけでも幸せですよ」
有本は、桐花がインターハイへ行ったことも、日置のことも全く知らなかった。
何年も部員がいない有本にとって、試合場に赴くことはなかったからである。
けれども今年は、なんとなく気が向いて、一年生大会をふらりと観に行ったというわけだ。
しばらくすると「空いたで」と樋口が日置に声をかけた。
「有本さん、よかったら一緒に打ちませんか」
「ええ~いいんですか」
「むしろ、お願いしたいくらいです」
そう、日置は出来るだけたくさんの人と阿部を打たせたかった。
そして三人は中へ入った。
「有本さん、タイプは?」
日置が訊いた。
「僕、裏と一枚のカットマンなんですよ」
「おお、そうでしたか」
日置は願ってもない相手だと思った。
「阿部さん、打ってもらいなさい」
「はい」
「この子、まだ基本しか出来ないんですけど、よろしくお願いします」
「いえいえ、なにを仰る。僕は相手がいてるだけでありがたいです」
そして二人はまずフォア打ちを始めた。
すると意外や意外、有本は日置の想像以上に上手かったのだ。
おお・・これはいい・・これはいいぞ!
日置レベルなら、フォア打ちを見ただけで有本の実力を量れる。
フォア打ちを十分ほどやった後に「カット、お願いできますか」と日置が頼んだ。
「はい」
「阿部さん、ミスしないようにね」
「はいっ」
そしてカットとカット打ちのラリーが始まった。
有本のカットはしなやかで、しかも同じところへ確実にボールを送り続けていた。
うおお~~!すごいじゃないですか、有本さん!
秀幸には及ばないまでも・・昔、かなりやってた人だ・・
これはいい!
こうして日置は、偶然にせよ願ってもない相手に恵まれたことで、今後の期待に胸を膨らませていた―――
その頃、慶太郎は、あっちゃんこと、堂前篤裕と公園で遊んでいた。
「慶太郎ぉ~」
森上が呼んだ。
「なに~」
慶太郎は鉄棒で、グルグルと回転していた。
「ちょっとお姉ちゃん、夕飯の支度してくるからぁ~ここで遊んどきやぁ~」
「わかった~」
慶太郎は鉄棒から下り、「あっちゃん~あっち行こ~」と、ジャングルジムへ移動した。
そして森上は自宅へ向かった。
その時、公園の外では、一人の男性が慶太郎と篤裕をじっと見つめていたのであった。




