62 森上の苦悩
そして試合が始まったが、戦況は言うに及ばず、日置が一方的に圧倒していた―――
日置のカッコよさに、中島と柳田は心の中で「きゃああああ~~」と叫んでいた。
秋川と水沢は、瀬戸の、あまりの不甲斐なさに「なにやっとんねん、勝ってくれな・・わしらどないしたらええねん」と思っていた。
日置は最初、どうしようかと悩んだが、こんな無意味な試合は一分でも早く終わらせたかったため、一切手を抜くことはなかった。
カウントは既に10-0と、瀬戸はまだ1点も取ることができないでいた。
そこに慶太郎を連れて森上が戻って来た。
森上は、中で試合をしている日置を見て、思わず扉を開ける手が止まった。
先生や・・
なんでここに・・
というか・・なんで試合なんか・・
「お姉ちゃん~入らへんの~」
慶太郎が森上を見上げた。
「いや・・入るけどぉ」
「あ~、あの男の人~前に家に来た人やな~」
「うん~お姉ちゃんの先生やでぇ」
どちらかというと、「鈍感」な森上にも、この場の雰囲気が良くないのを感じ取っていた。
秋川と水沢は、オロオロしているようにも見えるし、いつも「うるさい」中島と柳田が、何も言わずに黙っているからだ。
森上は、しばらく静観しようと、小屋には入らなかった。
いや、入れなかった。
「お姉ちゃん~なにしてんの~」
「うん~待ってなぁ」
「ほなら僕~あっちゃんとこ行って来る~」
あっちゃんとは、慶太郎の同級生だ。
家も近所で、二人は仲が良かった。
「そうかぁ。もうすぐ晩御飯やからぁ、はよ帰っておいでやぁ」
「わかった~」
そして慶太郎は走って行った。
瀬戸はカウントが15-0になったところで「もうええわ」と試合を止めた。
日置は何も言わずに黙っていた。
「瀬戸さん・・?」
秋川は、窺うように呼んだ。
「僕はもうコーチ辞めるわ」
「え・・そんな・・」
「この先生に教えてもろたらええんちゃいますか」
「瀬戸さん、それはないんとちゃいますの」
中島が言った。
「そうですよ。んで、まだ試合は終わってないし」
柳田もそう言った。
「まだ終わってないて、僕が0点で負けるん見たいんですか」
「先生、どうしはります?」
中島は日置に訊いた。
「瀬戸さん」
日置が呼んだ。
瀬戸は黙って日置を見た。
「コーチは辞めないと、約束されましたよね」
「きみな、ようそんなこと言えるな」
「なにがですか」
「逆の立場やってみぃ」
「だから僕は、試合はしないと申しました」
「あれか、結局、僕をからこうてたわけか」
「まさか、そんなはずありませんよ」
「よーうここまで、メンツを潰してくれたもんや。逆に気持ちええほどや」
「・・・」
「普通はな、僕がコーチやいうてるもんに、花を持たせるやろ」
「そうですか・・」
「僕ならそうするな。あれやな、学校の先生いうんは、社会勉強してへんから、斟酌することを知らんのや」
日置は思わずカッとなったが、森上のために我慢をした。
「僕の勉強不足でした。それでは僕はこれで失礼します」
日置は丁寧に頭を下げて、ラケットをバッグに仕舞った。
「ちょっと瀬戸さん!」
中島が怒鳴った。
「なんですか」
「今の言いぶり、酷いんとちゃいますか」
瀬戸はソッポを向いた。
「そやで。先生、試合はせぇへん言うてはったのに、瀬戸さんが「逃げるんか」て挑発しましたやん」
柳田も怒っていた。
「ボロ負けしたんは、先生の方が強かっただけですやん。斟酌とか、なに言うてますの」
「もう私ら、瀬戸さんにコーチしてもらわんでもええですけど」
中島と柳田は、そうまで言った。
なんか・・
とんでもないことになってる・・
どうしたらええねや・・
「あのぅ・・」
そこで森上が扉を開けて入った。
「あ、森上さん。弟さんは大丈夫なの?」
日置が訊いた。
「はいぃ、大丈夫ですぅ」
「そっか。よかった」
「あのぅ・・先生ぇ」
「なに?」
「なんでここにぃ・・」
「ああ・・きみがお世話になってるからね。それでお礼に伺ったの」
「そうですかぁ・・」
「ほな!僕は今日限り、コーチを辞めますんで」
瀬戸は、森上に向けて言い放っていた。
そう、お前の先生は世間知らずだと言わんばかりに。
「瀬戸さん・・それほんまですか」
秋川が訊いた。
「ほんまです」
「そうでっか・・」
「なあ、秋川さん」
水沢が呼んだ。
「なんや」
「もう、ええんちゃいますか」
「え・・」
「辞めるいうもんは、辞めてもろたらどないですか」
「そ・・そやかて・・」
「いやもう、はっきり言いますけどな、わしら瀬戸さんに気を使い過ぎてましたで」
「・・・」
「っんな、勝てへんからいうて、途中で投げ出すやなんて、情けないですわ」
瀬戸はバツが悪そうに水沢を見た。
「しかも、自分からやろうて言い出したんやないですか」
その実、秋川も辟易とする気持ちだった。
「わかりました!ほな、みなさんこれで失礼します」
瀬戸は、ラケットを乱暴にバッグに仕舞い、小屋を後にした。
この場に残った者たちは、しばらく黙ったままだった。
「なんか・・先生、すんません」
秋川が詫びた。
「いえ・・僕の方こそ・・なんと申し上げればいいのか・・」
「先生、気にすることなんかないですよ」
中島が言った。
「そうそう。あんなコーチ、こっちから願い下げですわ」
柳田が言った。
「けいちゃんは?」
中島が森上に訊いた。
「ああ・・友達のとこへ行きましたぁ」
「そうなんや。ほな、先生と打ったら?」
「え・・」
「学校で練習できひんのやし、こうして先生、来てくれはったんやからな」
「ああ・・」
「ああっ!そうやん!」
柳田が突然叫んだ。
「なによ」
「先生にコーチになってもろたらええんちゃうの」
「いやっ、柳田さん、ええこと言うやないの~!」
「なあなあ、先生、どうです?」
「え・・ぼ・・僕が、よちよちさんのコーチに?」
「そうですよ~~!ほなら、森上さんの練習もできますやんか~」
日置は思った。
自分がここへ出向けば、森上を教えられる。
それは当初、自分が望んでいたことだ、と。
「なあなあ、秋川さん、それでええんちゃいますの」
中島が訊いた。
「ああ・・いや、先生にも都合があるやろし・・」
秋川は、日置ほどの実力者にコーチになってもらうなど、気が引けていた。
「ないない~先生かて、夏休みですやん。ね?先生」
僕にも・・都合はあるんだけど・・
日置は思わず苦笑した。
「先生、どうですか」
水沢が訊いた。
「ああ・・僕は、みなさんさえよければ」
「ほら~~~!やっぱりそうやん~~」
「きゃ~~~!」
中島と柳田は、願ってもない展開に大喜びしていた。
「ほな、先生」
秋川が呼んだ。
「はい」
「先生の都合のええときでよろしいでっさかい、ここへ出向いてくれはりますか」
「わかりました」
こうして日置は、よちよちのコーチを引き受けることとなった。
但し、条件を付けた。
森上を相手する時には、台を一台にすること。
使用時間は、最低でも一時間は欲しい、と。
この条件を秋川らは、全面的に受け入れたのだった―――
この日の夜、森上は机に向かって夏休みの宿題をしていた。
けれども一向に捗らない。
なぜなら、日置はああまで侮辱されてでも、そしてよちよちのコーチを引き受けたのも、全部自分のためなのだ、と。
それに浅野が朝練に付き合ってくれたのも、相沢と八代がよちよちに来てくれたもの、全部自分が練習できないせいである、と。
「なあ、お父さぁん」
森上は背を向けたまま、慶三を呼んだ。
「なんや」
慶三は寝ころびながら、テレビを観ていた。
「私なぁ・・みんなに迷惑かけて・・」
「なんや、どないしたんや」
そこで慶三は起き上がった。
「私ぃ、練習できひんやん・・」
「ああ・・」
「慶太郎・・見んといかんしぃ」
「お姉ちゃん~なに~」
慶太郎は宿題をしながら、話を聞いていた。
「慶太郎、お前はええねや」
慶三はそう言って、慶太郎の頭を撫でた。
「恵美子、どないしたんや」
そこに、台所から部屋に戻った恵子が訊いた。
「私ぃ――」
森上は椅子から下りて、慶三と恵子の前に座り、現状を説明した。
「そやかて、それはしゃあないやん・・」
恵子が言った。
「学校で練習できさえすればぁ・・先生かて、わざわざここへ来んでもええしぃ・・」
「ほな、慶太郎、どないすんのよ」
「うん・・」
「恵美子、うちの事情を先生は承知したうえで、あんたに続けさせてるんやろ」
「そうなんやけどぉ・・」
「慶太郎は、まだ六歳よ。放っておけるはずがないやろ」
「僕が~どないしたん~」
「あんたはええのよ」
恵子は慶太郎の頭を撫でた。
「そやかて・・私ぃ・・先生や先輩や・・よちよちの人にも申し訳なくてぇ」
「そらそうやけど」
「それにぃ・・私ぃ、もっと練習したいねん・・」
「だから、それは無理やて言うてるやろ」
「僕がいてたら、お姉ちゃん、練習できひんの~」
「そんなことないんよ」
恵子は慶太郎を心配した。
「よし、慶太郎、お父さんと風呂入ろ」
慶三は慶太郎を抱っこして、浴室へ行った。
「ちょっと、恵美子」
「なにぃ」
「慶太郎の前で、あんなん言うの止めて」
「・・・」
「あの子、まだ小さいけど、話は聞いてるんやからね」
「わかったぁ・・」
けれどもこの後、とんでもない事件が起ころうとは、まだ誰も知る由がなかったのである。




