59 森上の練習相手
やがて期末テストも終わり、学校は夏休みに入ろうとしていた。
この間、阿部は日置との特訓を重ね、ようやくフォア打ち、ショート、ツッツキ、カット打ちという最低限の基礎は身に着けていた。
ちなみにカットは日置が行っていた。
森上は月曜から金曜までの朝練を続け、家に帰ると慶太郎を連れて『よちよち卓球クラブ』で練習をしていた。
浅野も出来るだけ朝練に顔を出し、森上はイボのボールにも対処できるようになっていた。
それでも阿部も森上も、まだ何も始まっていないのだ。
そう、肝心の応用はこれからだった―――
終業式を終えた後、日置は二人を職員室に呼び出していた。
「それで、明日から夏休みなんだけど、森上さんは出て来れる日とかある?」
「慶太郎もぉ、夏休みなんでぇ、私はずっと家におらんとあきませぇん」
「そうだよね・・阿部さんは?」
「私はいつでも出て来られます」
「そっか。じゃ、阿部さん、一日中っていうのも大変だし、集中力が持続しないと練習の意味がなくなるから、午後から夕方まででいいかな」
「はい、もちろんです」
「問題は、森上さんだよね・・」
夏休みというのは、練習時間がたっぷりと取れる期間である。
どこの学校の選手も、驚くほど夏休みに成長する。
日置は、どうしたものかと頭を抱えた。
「朝練はできるよね?」
「それなんですけどぉ・・」
森上は、なんとも言いにくそうにした。
「なに?」
「お母さんがぁ・・夏休みの間は、早朝からスーパーへ行くことになってぇ・・」
「え・・」
「それでぇ、私が朝練に行ったらぁ、その間、慶太郎は一人になるんですぅ」
「そうなんだ・・」
日置は思った。
せめて朝練を続けられれば、けして十分とは言えないまでも、やらないよりは、はるかにマシだ。
その朝練でさえできなくなると、たとえ『よちよち』で練習したとしても、それは「練習」ではない。
年寄り相手のラリーは、むしろ森上が相手になってやるようなものだ。
森上は『よちよち』では、おそらくフルパワーでやってるはずがない。
相手が打ち返せないからだ。
ラリーを続けるためには、森上はセーブしているはずだ、と。
「なんかぁ、お母さんはぁ、少しでも稼いで、そのお金を慶太郎の塾代にしようと思てんるんですぅ」
「そうなんだね・・」
「ええ学校行かせてぇ、ええとこ就職させたいみたいですぅ」
「うん、わかった」
「なんかぁ・・すみませぇん」
「じゃ、夏休みは森上さんの練習は無理ってことで、阿部さんはできる、と」
「はい」
「森上さん」
「はいぃ」
「よちよち卓球クラブで、ボールを打つことだけは出来るよね」
「はいぃ」
「うん、じゃ、それは続けてね」
「わかりましたぁ」
日置は、自分が『よちよち』に出向きたいと思った。
けれどもそんな図々しいことなど、できるはずもない、と。
あくまでも『よちよち』は、あの人たちのための練習場なのだ、と。
そして森上は学校を後にし、阿部と日置は昼食を摂った後、小屋へ向かった。
―――ここは『よちよち卓球クラブ』。
家に帰った森上は、夕方になって慶太郎を連れて、小屋の中にいた。
慶太郎もすっかり中島と柳田といったおばさんたちにも慣れ、練習の邪魔をすることがなかった。
今も小屋の隅で、早速夏休みの宿題に取り組んでいた。
「けいちゃん、えらいね~」
中島も柳田も、慶太郎のことを「けいちゃん」と呼ぶようになっていた。
「僕な~勉強して、ええ学校に行くねん~」
「そうかそうか~」
「ほな、ご褒美あげよ」
柳田は、ポケットからチョコレートを取り出した。
「わあ~マーブルチョコや~」
「ええやろ~」
「ありがとう~」
慶太郎は嬉しそうに笑った。
「けいちゃん、ほんまお利口さんやな~」
中島はそう言いながら、慶太郎の頭を撫でた。
森上は、「すみませぇん」と言いながら、小屋の住人である秋川と打っていた。
すると慶太郎は、嬉しそうにマーブルチョコを森上に見せた。
「あっ、そういや明日な」
秋川が森上に話しかけた。
「はいぃ・・?」
「後藤はんの知り合いの知り合いで、えらい強い人がいてるんやけどな」
「そうですかぁ」
「その人、ここに来てくれることになったんや」
「よかったですねぇ」
「きみ、なにを他人事みたいに言うてんねや」
「え・・」
そう、秋川は、森上が学校で練習できないことを、秋川なりに気にかけていたのだ。
自分たちでは森上の相手にもならないと考えていた秋川は、ある人物を紹介してもらったというわけだ。
秋川は、森上が来た当初は迷惑がっていたが、よちよちのエースである後藤が森上に目をかけているということと、森上の謙虚な姿勢と慶太郎が意外にも利口な子とわかって、いつしか二人を快く受け入れるようになっていた。
「きみのために来てもらうんやで」
「そうなんですかぁ・・なんかぁ、すみませぇん」
「わしもな、直接その人のこと知らんのやけどな、えらい強いらしいわ」
「そうですかぁ、ありがとうございますぅ」
―――そして翌日の夕方。
「こんにちは~」
よちよちの小屋に、男性二人が入って来た。
「おお、よう来てくれはりました」
秋川は、立ち上がって一礼した。
「よーう、兄ちゃん、久しぶりやなー」
後藤がそう言った。
「後藤さん、お久しぶりです」
「相沢くん、八代くん、よう来てくれた」
相沢とは、かつて日置が卓球台欲しさに、相沢の所属する『たまたまおっさん』というチームに臨時で参加し、試合に出たことがあった。
日置と相沢は、卓球センターで知り合った友人であり、相沢が日置に「参加してくれ」と頼んで出てもらった。
相沢は日置より五つ上で、トラックの運転手をしている。
秋川は後藤に「誰か強い人いてないんか」と相談したところ、後藤の知り合いである『っんなアホな』というチームの一人に声をかけた。
その人物は『ミツダクラブ』の三津田と知り合いで、その三津田は相沢と同級生だった。
三津田は相沢と八代に声をかけ、二人は出向いたというわけだ。
ちなみに八代は、日置と同級生であり親友だった。
八代は『ミツダクラブ』に所属している。
「お邪魔します」
八代が一礼した。
「八代くんも久しぶりやなあ~」
「はい、お久しぶりです」
後藤はかつて、日置とも対戦していたが、八代とも対戦していた。
慶太郎は、見知らぬ男性二人に「この人ら誰なん・・」と森上の後ろに隠れて訊いた。
「強い人らなんやでぇ・・」
森上は小声で答えた。
「森上さん」
秋川が呼んだ。
「はいぃ」
森上が秋川と後藤の元へ行こうとすると、「けいちゃん、おいで」と中島が慶太郎を引き受けた。
「こちらが、相沢さんと八代さんや」
「はじめましてぇ・・森上ですぅ」
「相沢です」
「八代です」
「きみ、背ぇたっかいなああ」
相沢が言った。
「はいぃ」
「何センチあるの?」
八代が訊いた。
「170ですぅ・・」
「へぇー高いね~」
「はいぃ」
この時点で相沢も八代も、まさか森上が日置の教え子だとは知らなかったのである。
そこで後藤は「ほな、わしはこれで帰るわ」と言った。
その実、後藤には予定が入っていて、相沢と八代を秋川に引き合わせるため、来ただけだった。
「後藤はん、おおきにな」
「ほな、この子のこと、よろしく頼みましたで」
後藤は、相沢と八代にそう言って小屋を後にした。
「ほな、相沢さん、八代さん、早速ですまんけど、相手してやってくれますか」
秋川が言った。
「わかりました。ほな、先にわしと打とか」
相沢は森上に言った。
「はいぃ、よろしくお願いしますぅ」
そして二人は台に着いた。
「フォア打ちから行こか」
「はいぃ」
そして相沢はサーブを出した。
森上は、よちよちでの「癖」で、力を抑えて打ち返した。
誰の目から見ても、普通のラリーだ。
けれども相沢も八代も「うまいな」と思った。
そう、打ち方がしっかりしてて完璧だからである。
「きみ、あんまり練習してないって聞いたけど、うまいな」
「そうですかぁ」
「めっちゃしっかりしとるで」
「そうですかぁ」
「きみ、何年生や?」
「高校一年ですぅ」
「ああ、ほな、中学からやっとったんやな」
「ああ・・ちょっとだけやってましたぁ」
「そうか。ほな、オールはいけるんやな」
オールとは、オールラウンドのことをいい、試合のような実戦形式の練習方法である。
「オールて・・なんですかぁ」
「え・・オールラウンド、知らんのか」
「はいぃ・・すみませぇん」
「そっか・・ほな、ショートできるか?」
「できますぅ」
そして相沢はバックコースに立ち、森上はショートで返した。
え・・この子、めっちゃうまいがな・・
ほんまはオールできるんとちゃうんか・・
相沢も驚いたが、八代も同じだった。
この子・・確実なところに返球してる・・
全然、ブレてない・・
中学の時・・相当やってたな・・
「相沢さん」
八代が声をかけた。
「なんや」
「オールやってみたらどうですかね」
「ああ・・確かに」
「ねぇ、きみ」
八代が森上を呼んだ。
「はいぃ」
「試合はやったことあるの?」
「ああ・・はいぃ」
「オールってそのことだよ」
「そうなんですねぇ」
「試合じゃないから点数は入れないけど、形は試合と同じだよ」
「そうですかぁ」
そして二人はオールラウンドを行うことにした。
「どんなサーブでもええで」
相沢が言った。
「はいぃ」
まだ下回転と横回転と斜めしか出せない森上は、下回転のサーブを出した。
バックに入ったボールを相沢は、とりあえずツッツキで返した。
しかもフォアコースの、打ちやすいところへだ。
そこで森上はドライブを放った。
けれどもこれも、力を抑えてのドライブだった。
驚いたのが相沢と八代だ。
なんだ・・このドライブは・・と。
相沢は思わずそのボールを見送っていた。
「ちょ・・きみ、ほんまに練習できてないんか?」
「はいぃ」
「今のドライブ・・すご過ぎるで・・」
「すみませぇん」
森上は力を抑えて打ったのだが、思わず詫びていた。




