56 朱花の話
個室は十畳ほどの広さに、朱色でベルベット地の長いソファが端に置かれ、三台のテーブルを挟んで個人用の四角い椅子が五脚並べられてあった。
ドアの正面には、カラオケ用のマイクと歌詞本が小さなテーブルに置かれてあった。
そして天井からは、ミラーボールが吊り下がっていた。
やがてアルコールとおつまみ類が運ばれ、若くて綺麗な女性が四人入って来た。
その内、三人は、まだ二十代前半と思われる、いわゆる「ピチピチギャル」だった。
けれども高級クラブとあって、とても上品な女性らだった。
もう一人は、和服を身にまとい、いかにも「ママ」といった上品さを備えた艶やかな女性だった。
彼女らは、それぞれ一人ずつ、男性陣の前に座った。
日置の前に座ったのは、和服の女性だった。
「いらっしゃいませ。初めまして、朱花と申します」
朱花は、ビール瓶をしなやかな手で優しく持ち「どうぞ」と日置に向けた。
日置は一瞬、朱花という名前を聞いて戸惑いを見せたが、「どうも」と言いながらグラスを手に持った。
「ようお越しくださいました。こちらは初めてですか」
「はい」
「そうですか。どうぞごゆっくりと楽しんくださいね」
「ありがとうございます」
「ほな、私も頂いてよろしいですか」
朱花はビールを注ぎ終えて、グラスを手にした。
「ああ・・はい」
日置はビールを注いだ。
「あまり緊張せんといてくださいね」
日置は、この手の店は初めてだった。
朱花は、優しく微笑んだ。
「僕ね、こんな店、初めてなんですよ」
「それやったら、よけいごと、楽しんで頂かんとあきませんね」
「そうですね・・」
日置は、早く帰りたいと思った。
「カラオケもおますんで、どうぞ歌ってくださいね」
「いや・・僕は歌は苦手です」
「お客さん、ご出身は関東ですか」
朱花は、日置のイントネーションのことを言った。
「ああ・・はい、東京です」
「まあ~そうですか。お上品でよろしいですわぁ」
「そうかな・・」
「さあさあ、もっと飲んでくださいね」
朱花は、次から次へとビールを注いだ。
やがて、大久保らはカラオケを歌い出し、宴は盛り上がりを見せていた。
この頃には日置もほどよく酔い、歌に合わせて手拍子していた。
けれども「熟練」の朱花は、日置にどこかしら陰のようなものを感じ取っていた。
「朱花さんって、どんな字を書くんですか」
「えぇ、朱色のしゅに、お花のはなです」
「そうですか」
「あら・・あやかという名前に、気になる方でもいらっしゃるんですね」
「いえ、そんなことありません」
朱花は、日置の心の内をすぐに読み取った。
そこで朱花は、日置の隣へ席を移動した。
「お客さん・・よかったらお名前聞かせてくれますか」
「日置です」
「まあ~日置さん。ええお名前ですね」
「そうかな・・」
「日置さんは、とても真面目な方とお見受けします」
「そんなことないですよ」
「ほら、もっとリラックスなさってください」
「楽しんでますよ」
「ちょっと~慎吾ちゃん~、なにをくすぶってんのよ~」
そこに大久保がやって来た。
「くすぶってなんか、ないよ」
「っんもう~朱花ママ、この真面目男を、どないかしたって~」
「あはは、大久保さんは、いつも元気一杯で、こちらが活力を頂くんですよ」
「そうですか」
「慎吾ちゃん~もっと飲み~」
そこで大久保は、水割りを作ろうとした。
「ああ、大久保さん、私がしますよって」
「いやいや、うーんと濃いの、作ったげるぅ~」
「虎太郎・・僕のことはいいから、歌っておいでよ」
それでも大久保は、水割りを作って日置に出した。
「ほれ、お飲み~」
「うん・・」
日置は仕方なく水割りを口にした。
「ぐへっ・・ちょっと、濃すぎるよ、これ」
日置は思わずグラスをテーブルに置いた。
「ええやないの~、慎吾ちゃんは~これくらいでちょうどええのよ~」
その実、大久保は、小島や浅野のことを話すつもりはなかった。
けれども小島と浅野の「事情」には、日置が関わっていると確信していた。
それが、悪い方向に進んでいるであろうことも。
そこで大久保は、真面目な日置に、普段と違う「世界」で気持ちを解させようとしたのだ。
いわば、苦肉の策である。
「それじゃ、日置さん。私がお歌いしますので、聴いててくださいね」
「おおお~~ママ~」
大久保は拍手していた。
「はい」
日置はそれだけ言った。
そして他の者も朱花がマイクを手にしたところで「ママ~~」とやんやの拍手を送っていた。
やがてイントロが流れ、朱花は歌い始めた。
「逢ぁえ~なくぅなってぇ~初めて知ったぁぁ・・海より深い~恋~ごぉこおろ・・」
朱花は松尾和子という歌手の『再会』という曲を、色気たっぷりに歌った。
「こんなにぃ~あなたを~・・愛してるなんてぇぇ・・ああ・・あああ・・かもめにもぉ~わかりはしないぃ・・」
「きゃ~~朱花ママ~素敵~」
女性らは拍手をしながら声援を送っていた。
「朱花ママ~」
安住もそう言った。
「わしもう・・とろけそうですけぇ~」
高岡は、大人の女性にメロメロだった。
日置は「あやか」という名前が飛び交う中、じっと朱花を見ていた。
「仲良くふたりぃ~・・泳いだ海へぇぇ・・ひぃとりで今日はぁぁ~きた~わぁたぁしい・・再び~逢える日ぃぃ・・指折り数えるぅぅ・・ああ・・あああ・・指先にぃ~・・夕日がぁ沈むぅぅ・・」
歌い終えて朱花は、軽くお辞儀をした。
そこで拍手喝采が起こった。
日置もパチパチと拍手をしていた。
「おそまつさまでした」
朱花は日置の隣に座った。
「お上手ですね」
「恐れ入ります」
その実、日置は「再び逢える日、指折り数える」という歌詞と、小島を重ねていた。
「朱花さんは、おいくつですか」
「あら~、女性に年をお訊きになりますか」
朱花はいたずらな笑みを浮かべた。
「あ・・いや、すみません」
「あはは、ええんですよ。私は今年で三十三です」
「そうですか。とてもお若く見えますよ」
「あら~、日置さん、お上手ですね。日置さんはおいくつですの」
「今年で三十になります」
「まあ~、近かったんですね」
「水割り、お願いできますか」
「はいはい」
そして朱花は水割りを作った。
「朱花さん」
「はい」
朱花はトングで氷をグラスに入れていた。
「朱花さんが十八の頃、好きな男性はいましたか」
「えぇ~、それはもう、大好きな人がいました。どうぞ」
朱花はグラスを日置に差し出した。
「さっきの歌も、その方を想って歌いました」
「ということは、恋は成就しなかったってことですか」
「ええ・・そうです」
「お相手の方は?」
「ずいぶん年上の方でして・・」
「え・・」
「いえ、この世界にいますとね、若かった私は年上の男性、つまり大人の男性に魅力を感じましてね」
「そうですか・・」
「その方には、決まった方がいらっしゃって・・私は諦めて身を引いたんです」
「・・・」
「でも・・今考えますと・・後悔ばかりで・・」
「・・・」
「日置さんにも、想い人がいらっしゃるようにお見受けしますが」
「ああ・・まあ・・」
「でも・・あまり上手くいってらっしゃらないのでは・・?」
「はい・・」
「野暮なこととは承知していますが、その方のこと、好きでらっしゃるなら、手放さないことですよ」
「・・・」
「お付き合いしてますと、色々ございますね。一時の感情に流されたり・・複雑に糸が絡み合うように、すれ違いがあったり」
「・・・」
「とにかく、好きなら、その方を手放さないこと。諍いは時間が経てば解決しますが、手放したらもう、元には戻りません」
「そうですね・・」
日置は朱花の言葉が胸に刺さった。
そう、手放したら元には戻らないんだ、と。
「僕の好きな人ね、彩華っていうんです」
「あら~なんて偶然。そうでしたか」
「彩に、華麗の、かと書きます」
「まあ~素敵ですね」
「その子、十八なんです」
「あらっ・・まあ~そうでしたか」
「僕と一回りも違うんです」
「日置さん」
「はい?」
「年なんて関係ないですよ」
「ええ、まあ」
「ああ・・なるほど、わかりましたわ」
「え・・」
「日置さん、彩華さんのこと、幼いって思ってらっしゃるでしょ」
「まあ・・そういう面もありますかね」
「女を見くびってはいけませんよ」
「え・・」
「女はですね、恋をして成長するんです。その成長段階で手放してしまうと、きっと後悔なさいますよ」
「・・・」
「その彩華さん・・日置さんが驚くほどのいい女になりますよ。その時に、戻って来てと懇願しても後の祭り。よろしいですね?」
「あはは、はい。重々承知しました」
日置は、参ったとばかりに笑った。
その後、日置は自分は教師だということ、卓球部の監督であること、今もインターハイを目指していることなど話した。
「なるほど、それでジャージなんですね」
「すみません。店と不釣り合いですね」
「なにを仰いますか。服装など関係ないですよ。こうしてみなさん楽しく飲んで下さって、こちらとしましては、大変ありがたいお客さまです」
「そうですか」
「いくら高いスーツを身に纏ってらしても、下品な方は山ほどいます」
「そうですか」
「ええ」
「僕、一曲歌おうかな」
「まあまあ~、ぜひ、お聴かせください」
そして日置が歌うと知った大久保らは、やんやの声援を送った。
「朱花さん」
「はい?」
「僕と歌ってください」
「ええっ・・私ですか」
「はい」
そして日置がリクエストしたのは『東京ナイトクラブ』というデュエット曲だった。
やがてイントロが流れ始めると、日置は照れながらマイクを手にした。
「なーぜ泣くのーまつげが濡れてるー」
日置の歌は、まるで棒読みだ。
朱花は優しく微笑んで「好きになったの~もっと抱いてぇ」と色気たっぷりに歌った。
「泣かずに踊ろよ、もう夜も遅い」
「わ~たしがぁ・・す~きだと~好きだと言ってぇ」
「フロアは青くほの暗いー」
「と~てぇもぉ~す~てきなぁ~」
「東京~ナイトクラブ~」
「きゃ~~朱花ママ~」
「いいぞ~~日置さん!」
「ひゃあ~~わしもう・・びっくりじゃけぇ~」
「お待ち~~!」
そこで大久保は、二人の元へ行き、急いで朱花のマイクを引き取った。
「ママ~交代よ~」
「あはは、どうぞ」
そう言って朱花は大久保に譲った。
そして二番が始まった。
「もう~私ぃ~ほしくはないのねぇ~」
大久保は、日置を見つめながら歌った。
「と・・とてもかわいい・・会いたかった・・」
日置も大久保を見ていたが、日置は、もはや歌ってなかった。
「慎吾は気まぐれその時だけね~」
「う・・うるさい・・男と・・言われたくない・・」
「どなたの好み~このジャージぃ~」
「妬くのは・・およしよ・・」
「東京~ナイトクラブ~」
そして二人はラストまで歌い終えた。
いや・・日置は語り終えた。
この場は爆笑に包まれ、やがて日置らは店を後にした。
「虎太郎」
歩きながら日置が呼んだ。
「なに~」
「とても楽しかったよ。誘ってくれてありがとう」
「っんもう~そんなんええのよ~。また行こね~」
「わ・・わしも、連れてってくだせぇ」
高岡が言った。
「あはは、くだせぇって、あんたは渡世人か!」
大久保は高岡の頭をパーンと叩いた。
「いやあ~楽しかったですけぇ」
「そやな~また四人で行こか~」
そして彼らは三々五々、自宅へと向かったのであった。




