47 浅野の怒り
それから小島はせっせと料理を作り、出来上がったものからラップをかけていた。
小島は幸せだった。
日置の風邪は心配だったが、幸いにも良くなっている。
風邪を理由に料理を作る口実ができ、いわば堂々と作れるわけだ。
小島はまるで新妻のごとく、心は浮かれていた。
「先生」
日置はベッドで横になっていた。
そこへ小島が声をかけに行った。
「なに?」
「料理、出来ましたけど、保存用に作りましたので、後日食べてください」
「そうなんだ。ほんとにありがとう」
「冷蔵庫のリンゴも剥いときましたからね」
「ああ・・そうなんだ」
日置は少し胸が痛んだ。
「じゃ、私はこれで帰ります」
「そっか・・」
「先生、淋しいんでしょ」
小島はいたずらな笑みを浮かべた。
「いや・・今日一日、みんなに迷惑かけたな、と思ってね」
「そんなん気にせんでええですって。先生かて人間なんですから、風邪もひきますって」
「人間って、なんだよ」
「あはは、先生って、すぐにむくれますよね」
「彩ちゃん・・」
そこで日置は両手を広げて、小島を招いた。
小島は膝を畳につけて、日置の胸に顔を埋めた。
「気を付けて帰るんだよ」
日置は小島の頭を優しく撫でた。
「はい」
「パン屋さんの制服姿、とてもかわいかったよ」
「そうですか・・」
「ほんとのことを言うとね、ドキッとしたんだよ」
「え・・」
「彩ちゃん・・かわいいな・・って」
「もう~先生~、わかってること言わんでも~」
そこで小島は日置から離れようとしたが、日置は許さなかった。
そして小島の顔を両手で持って、自分の顔を近づけた。
「彩ちゃん・・好きだよ」
そして二人はキスを交わした。
「あ・・ごめん。風邪、移っちゃうね」
「先生の風邪やったら、なんぼでも移してほしいです」
ルルルル・・
そこで電話が鳴った。
「誰だ・・」
日置はベッドから起き上がり、電話台へ移動した。
そして受話器を取った。
「もしもし、日置ですが」
「あ・・先生」
相手は浅野だった。
「浅野さん、どうしたの?」
「おお~~内匠頭ですか~」
小島は日置の横に立った。
「え・・彩華、いてるんですか」
「うん、いるよ。食事を作りに来てくれたの」
「へぇ・・」
浅野は、よくも平然とそんなことが言えるもんだ、と呆れた。
「浅野さん?」
「ちょっと彩華と代わってもらえません?」
「ああ・・うん」
日置は浅野の様子が変だと思いつつも、小島に受話器を差し出した。
「代わってほしいって」
「え・・そうなんですか」
そして小島は受話器を受け取った。
「もしもし、私やけど」
「彩華・・」
「なによ、どしたんよ」
「今から会える?」
「え・・」
「ちょっと話があってな」
「そう・・なんや・・」
「ほな、私、なんばへ出るから高島屋の前な」
「ああ、うん、わかった」
「ガチャン」
「えっ」
思わず小島は受話器を見ていた。
「どうしたの?」
「なんか、今から話があるて・・」
「そうなんだ」
「なんか・・内匠頭、変やったな・・」
「僕もそう思ったよ」
「電話も、いきなり切るし・・」
「なにかあれば、僕にも話してね」
「はい・・」
「絶対に、隠し事はなしだよ、いいね」
「はい、わかりました」
そして小島は日置の部屋を後にして、高島屋へ向かった。
内匠頭・・なんなんや・・
もしかして・・怒ってた・・?
私・・なんかしたかな・・
いや・・心当たりがない・・
小島は不安を抱えながら、黙々と歩いた。
そして小島は高島屋の前で浅野の到着を待った。
すると二十分ほどが過ぎた頃、浅野が現れた。
「おう、内匠頭」
小島はそう言いながら手を振った。
けれども浅野の表情は強張っているではないか。
え・・一体・・なんやねん・・
「ごめん、待った?」
「いや・・そんなに・・」
「ほな、喫茶店でも行こか」
「ちょっと、内匠頭。どしたんや」
「どしたってな・・あんたはなんも知らんと・・」
「え・・」
「まあええ。立ち話ではできひん話や」
そして二人は駅前の喫茶店に入った。
「彩華、晩御飯、食べたんか」
席について浅野が訊いた。
「いや・・まだやけど・・」
「どうする?なんか食べるか」
「ああ・・ほなら・・」
小島はそう言いながら、メニューを開いた。
彩華・・
今から話すこと・・
死ぬほど辛いかもしれんけど・・
このままいうんは・・絶対にアカンのや・・
浅野の胸は苦しくなったが、言うべきは言わねばと覚悟を決めた。
やがて二人は、ピラフとナポリタンスパゲティを注文した。
「で、話して、なんやの」
「あのな、彩華」
「うん」
「驚くかもしれんけど、私の言うこと、よう聞いてな」
「うん・・」
「先生な、二股かけてるで」
「へ・・?」
小島は当然、すぐには理解できなかった。
「二股て・・また勘違いしてるんとちゃうの」
「今回は勘違いやない。私ははっきり見たし、はっきりこの耳で聞いたんや」
「なにをよ」
「早苗さんて、おったやろ」
「え・・ああ、先生の昔の彼女な」
「その早苗さんと先生、ずっと付き合うてたんや」
「え・・」
「先生、救急車で運ばれたん知ってるやろ」
「うん・・」
「迎えに行ったんが早苗さんや」
「・・・」
「いや、今朝な、練習中に大久保さんが電話に行きはって、そのまま戻って来んと、体育館へ行きはったんや。それで私、どうも様子がおかしいと思て体育館へ行ったんや。そこで初めて先生の緊急事態を知って、森上さんと阿部さんのことは大久保さんに任せて、私は先生のマンションへ行ったんや。ちゃんと寝てるかと心配してな」
「うん・・」
「そしたら、なんと先生と早苗さんが二人で帰って来たんよ。しかも・・先生・・」
浅野はそこまで言って、次の言葉を飲み込んだ。
そう、「肩を抱いていた」とは、やはり口にできなかった。
「しかも、なによ・・」
「いや、それでな、早苗さんは先生を寝かせた後、買い物に行ったんよ。んで、私は後をつけたんや」
「・・・」
「ほんで私は、直接、早苗さんに話を聞いたんや。先生と付き合ってるんかて」
「・・・」
「ほなら早苗さん、付き合ってるって」
「そ・・そうなんや・・」
「別れたんとちゃいますの、て訊いたら、フラれたけど、その後もたびたび連絡があったらしく、なんか・・そのままズルズルということらしい」
「・・・」
「ほんで、今日も先生から電話があって、迎えに行ったってさ」
「でも・・早苗さんて、東京ちゃうの・・」
「なんかしらんけど、昨日から叔母の見舞いに来てたんやて。その時、宿泊先を教えとったらしいで。それで先生は電話をしたんやと」
「・・・」
「なあ彩華」
「・・ん」
「あんた料理作ったらしいけど、そこにおかゆとかなかったか?」
「え・・あったけど・・」
「それ、早苗さんが作ったんやで」
「う・・嘘やん・・」
「スーパーで独り言呟いとったわ。風邪にはおかゆよね~とかさ。なにがおかゆやねんっ」
小島は思った。
おかゆのことを訊くと、日置は「おばあちゃんが心配して」と言った。
あれは嘘だったのか、と。
嘘をつくと言うことは、早苗とのことが事実だからじゃないのか、と。
「リンゴも買うたりしてさ」
「え・・」
「ヨーグルトとかリンゴも買うとったわ」
「そのリンゴ・・私剥いてあげた・・」
「まったく!先生、なにやっとんねん!」
「その話・・ほんまなんや・・」
「ほんまや。私は実際に見たし聞いたんや。誤解なんてあり得へんで」
「先生な・・」
「うん」
「おかゆ・・作ったんですか・・て訊いたら、おばあちゃんが・・て」
「なんやそれ!まさに隠してるやん!」
「なんで・・私と付き合ったんやろ・・」
二人はとっくに運ばれて来た料理にも、まだ手をつけずにいた。
「結局、自分がモテるんをええことに、彩華をたぶらかしてたんや」
「私とは・・遊びってこと・・?」
「それしかないやろ」
「なんで・・なんでなん・・信じられへん・・」
「彩華、この際やからはっきり言うけど、先生とは別れるべきや」
「えっ・・」
「あんなん、おっさんやんか!彩華はもっと若い人がええ」
「せやけど・・先生・・私らをずっと鍛えてくれて・・私も内匠頭も先生の人間性知ってるやん・・」
「あのな、監督とか教師とかと、恋愛云々はちゃうと思うで」
「・・・」
「別人格や」
「別れる言うたって・・私・・無理やん・・」
「あかん!ええか彩華」
「なに・・」
「もう先生とは連絡を取ったらあかん。電話がかかって来ても無視しいや」
「え・・」
「ちょっとは思い知らせたらなあかん。それで、先生がなんも動かんかったら、彩華のことは遊びやったって証拠や」
「そ・・そんな・・」
「私が先生に話するんもありやけど、こんだけ証拠が挙がってるねんで。ほんまのこと言うかいな」
「・・・」
「ええか、彩華。こないだみたいに取り乱したらあかんで。それをやったらあんたの負けやで」
「負け・・」
「だから、ここは冷静に。ええな。絶対に振り回されたらあかん」
「・・・」
「そのうち、私が目にもの言わせたる。ただで済むと思うなよ、おっさん」
浅野は小島を弄ぶ日置に、一泡吹かせてやるつもりでいた。
当初、浅野は冷静に、と自分を保とうとしたが、小島に料理を作らせたことや、おかゆを西藤が作ったなどと見え透いた嘘をついたことが許せなかった。
しかも、全幅の信頼を置いていた日置であるがゆえ、まんまと裏切られた浅野の怒りは増幅していたのだった。




