408 和子の試練
―――増江ベンチでは。
「明美ーー」
トーマスが呼んだ。
「はい」
「なにも言うことはありませーん」
「はい」
白坂は少し笑った。
「それにしても、予想を上回る初心者だよね」
時雨も和子の実力に呆れていた。
「ほんとだよね」
椅子に座っている相馬が答えた。
「それと桐花の家族って、なんか個性的だよね」
藤波は亜希子とトミのことを言った。
「それそれ。あのおばあさん、すごいよね」
時雨が笑った。
「白坂ちゃん」
景浦が呼んだ。
白坂は景浦に目を向けた。
「わかってると思うけど、あんな子相手に1点もやっちゃダメだよ」
「うん」
白坂は厳しい表情で頷いた。
―――コートでは。
和子はコートの前に立って考えた。
点を取りに行く・・
取りに行くんじゃ・・
でも・・
どうすりゃええんなら・・
先生が言いよった・・
先手を取れ・・と・・
先手・・先手・・
「構えなくていいの?」
ボールを持った白坂はサーブの構えに入っていた。
「え・・」
和子は半ば呆然としながら白坂を見た。
「サーブ、出すんだけど」
白坂は笑っていた。
「あっ・・はい・・」
和子は慌ててレシーブの構えに入った。
ど・・どうしよう・・
まだ考えがまとまらいな和子に対して、白坂は間を置かずにサーブを出した。
景浦に「1点も取らせたらダメだ」と言われた白坂のサーブは、今まで以上に厳しいものだった。
バックコースでバウンドしたボールは、左に大きくカーブした。
うわっ・・
このサーブ・・なんなら・・
ものすごい変化しとる・・
なんとかラケットを出した和子だったが、回転に負けたボールは大きくオーバーミスをした。
あ・・ああ・・
和子は呆然とボールの行方を見ていた。
「よし」
白坂は小さい声を発した。
「ど・・どんまい」
和子も何とかそう口にした。
そうじゃ・・
どんまいじゃけに・・
えっと・・
先手・・先手・・
先手いうたら・・
レシーブから攻撃に行く・・
そうじゃが・・
これじゃけに・・
「郡司さん!1本だよ!」
日置が手を叩きながら声を挙げた。
「そうそう、1本、まず1本や!」
「強気やで!」
「こっからやでぇ~~!」
「郡司ーーー!いいか!ナイフが刺さっても倒れなけりゃ命は続くんでぇ!」
和子は日置と彼女らの声に振り向いて「うん」と力強く頷いた。
そしてサーブの構えに入った白坂は、ボールをポーンと高く上げた。
そう、投げ上げサーブである。
するとどうだ。
ボールが落ちてくると同時に、白坂はその場に座るような格好になり、体は台に隠れて顔だけ見えている状態だ。
な・・なんなら・・
和子は不気味に感じたが、ボールの行方を目で追った。
すると白坂はボールがラケットに当たった瞬間、複雑な回転をかけた。
いうなれば『王子サーブ』と似た格好だ。
『王子サーブ』とは、作馬六郎氏という実在の人物が編み出した、とんでもない変化球サーブである。
ここは・・
先手を取るんじゃけに・・
バックコースでバウンドしたボールに、和子は打ちに行くべく回り込んだ。
すると白坂はニヤリと笑った。
ボールは和子の動きをあざ笑うかのように、なんとフォア側に曲がったのだ。
なっ・・
慌てた和子は懸命に戻ろうとしたが、なんとも不格好な空振りに終わった。
「なんやねん、あれ」
「しっかりしろーー!」
「あれを打ちに行くか?」
「なにやってんだーー!」
このように館内では和子に批判の声が浴びせられた。
当然、その声は和子の耳にも届いた。
あ・・
あがなサーブやこ・・
取れんし・・打てんが・・
和子は呆然と観客席を見上げていた。
「郡司さん!」
日置が呼ぶと和子は情けない表情でベンチを見た。
「投げ上げサーブは無理に打たなくていい。しっかりボールを見て丁寧に返せばいい」
日置は仕方なく消極的なアドバイスをした。
なぜなら、相手コートに返さないと話にならないからである。
「は・・はい・・」
和子は頼りなく頷いた。
きっと・・
次も・・その次も・・今のサーブを出すはずじゃ・・
丁寧に・・返す・・んか・・?
いや・・
違う・・
先手を取らにゃいけんのじゃけに・・
丁寧に返せたとしても・・
必ず打たれる・・
それは・・先手じゃないけに・・
和子は日置のアドバイスを受け入れなかった。
そう、点を取るためには打ちに行くしかない、と。
この時点でカウントは12―0と、また差が開いた。
打てるものなら・・打ってみな・・
ニヤリと口元が緩んだ白坂は、和子を見ながらサーブの構えに入った。
わ・・笑ろとる・・
やっぱり・・同じサーブを出すつもんなんじゃが・・
負けん・・
負けんけに・・
そして和子もレシーブの構えに入った。
すると案の定、白坂はさっきと同じサーブを出した。
きっ・・来たっ・・
フォアコースでバウンドしたボールを、和子は凝視した。
ど・・どっちに曲がるんじゃ・・
回転を見破ることなど到底無理な和子は、根拠のない勘で右に曲がると決めた。
そして一か八かで思い切り打ちに行った。
するとボールは和子の勘を裏切るかのように、体に食い込んできた。
うっ・・逆じゃ・・
慌てた和子は打つことなどできず、それでも何とか返球しようとラケットを出した。
ツッツキで返したものの、斜め回転だったサーブに対してのレシーブは高く返った。
ああ・・打たれる・・
和子はその場で動くことができず、白坂は情け容赦ないスマッシュを打ち込んだ。
パシーン!
コートに叩きつけられたスピードの乗ったスマッシュは、和子の顔面を直撃した。
うっ・・
下に落ちたボールを和子は呆然と見ていた。
「大丈夫?」
白坂が訊いた。
「え・・」
和子はぼんやりと白坂を見た。
「いや・・大丈夫・・?」
「あ・・はい・・」
私は・・なにをやっとるんじゃ・・
しっかりせんと・・
焦った和子は何気なく主審を見た。
すると主審は少し軽蔑したような表情で和子を見ていた。
な・・なんなら・・
和子は主審から目をそらし、副審を見た。
すると副審も同じような表情をしていたのだ。
それもそのはず、この主審と副審はインターハイ出場こそ逃したものの、香川でベスト4に入った強豪校の選手だからである。
主審も副審も思っていた。
なぜ、こんな素人がインターハイの決勝戦に出てるんだ、と。
自分なら、もう少しマシな試合ができるはずだ、と。
ちなみに審判は各試合ごとに交代する。
よって、阿部対相馬戦の審判を務めたのは香川では下位の選手であり、だからこそ頼りなかったのだ。
「もう棄権しろーーー!」
突然、観客席からうんざりしたような声が挙がった。
そう、これが試合か?決勝戦なのか、とばかりに。
「そうだ、そうだ!」
声に触発された他席の者たちも同調し始めた。
次第に声は広がりを見せ、館内ではブーイングがこだましていた。
これらの声に和子は思った。
き・・棄権・・
そ・・そうか・・
ほなけんど・・
体調は悪うないのに・・棄権やこ・・
き・・棄権やこ・・
で・・でも・・
棄権すれば・・
棄権したら・・そこで解放される・・
楽になれる・・
和子は徐々に棄権したいという気持ちに襲われていた。
そこで和子はベンチに目を向けた。
「タイム取ろうか」
日置はブーイングなど気にするな、とばかりに優しい口調でそう言った。
和子は頼りなく頷き、タイムを取ってベンチに下がり日置の前に立った。
「館内の声は気にしなくていい」
日置は和子の肩に手を置いた。
「そうだぜ。郡司よ、おめーのやりたいようにやりゃあいいんでぇ」
「言いたい奴には言わせとけばええんやで」
「そうそう、気にしたらあかん」
「マイペースやでぇ」
彼女らが励ます中、和子は「あの・・」と頼りなく口を開いた。
日置も彼女らも次の言葉を待った。
「あの・・えっと・・」
口籠っていると日置が「どうしたの?」と訊いた。
「その・・棄権・・」
「え?」
「棄権・・やこ・・ダメですよね・・」
和子は思わず下を向いた。
「おいおい、郡司。おめーなに言ってんだ」
まさかとも思える言葉に驚いたのは中川だけではない。
阿部も森上も重富も複雑な表情で和子を見ていた。
「おめー、棄権ってマジで言ってんのかよ」
和子は下を向いたままだ。
「0点でもいいっつってんだろがよ」
「・・・」
「おめー、この決勝戦に出られるのって、全国でたった10人だぜ?10人!」
「・・・」
「おめーはその中の一人だ。それわかってんのかよ!」
「中川さん」
日置はそう言ったまま、和子を見ていた。
そして「郡司さん」と優しく呼んだ。
「棄権したいの?」
「え・・」
和子は顔を上げた。
「棄権したい?」
「うっ・・そうじゃけんど・・うっ・・でも棄権やこ・・」
和子は涙を流した。
「あのね」
日置は優しく微笑んだ。
「棄権したいならそれでも構わない」
「おい、先生!なに言ってんだ!」
中川は血相を変えて食って掛かった。
「ちょっと黙ってて」
日置はきつい口調で中川を制した。
「おいおい、先生なに言ってんだ!棄権ってありえねぇだろ!」
「いいから黙りなさい」
「中川さん、黙っとき」
見かねた阿部は、中川のジャージを引っ張って制した。
中川は「っんだよ!」と不満に思いながらも口を閉じた。
「郡司さん、どう?」
日置は和子を見た。
「ど・・どうって・・ううっ・・」
「棄権するの?」
「うっ・・ううう・・」
和子は情けなさで腕で涙を拭った。
「あのね、白坂さんのサーブはこの後も取れないと思う」
「・・・」
「きみにサーブが回って来るのは15―0になってからだ」
「・・・」
「そこがチャンスだよ」
「え・・」
和子は泣きながらも顔を上げた。
「ずっと言ってた先手をとるチャンスだ」
「ち・・チャンスやこ・・ううっ・・」
「そのチャンスを活かしてからでも、遅くないんじゃない?」
「え・・」
「棄権のことだよ」
「ほ・・ほなけんど・・ううっ・・わ・・私・・怖い・・」
「観客の声?」
「は・・はい・・」
「いいかい、郡司さん」
「・・・」
「サーブが回ってきてからのチャンスをモノにするかしないかで、きみの今後が決まる」
「・・・」
「中川さんが言ってたように、決勝戦で戦えるのは全国でたったの10人」
「・・・」
「どうしても無理なら、棄権してもいい。でもきみのサーブ、この5本だけ頑張ってみない?」
「さ・・サーブ・・5本・・」
「そう。たったの5本だよ」
日置は優しく微笑んだ。
その実、日置には考えがあった。
このまま引き下がると和子には試合に対しての恐怖心だけが残る。
来年も全国を目指すためには、恐怖を凌駕する悔しさ経験させたい。
そう、負けるという悔しさを。
とはいえ、今の和子には悔しさなど微塵も感じないであろう。
けれどもこのまま引き下がるよりは、たとえ1%でも悔しさに繋がるチャンスがあるならそれを掴まなければならない。
そう、日置が和子に足りないものがある、と思ったのは、まさに悔しいという気持ちを持たせることにあったのだ。
「し・・白川さんのサーブ・・取れんでもいいですか・・」
「いいよ」
「5本・・5本だけ・・頑張ればいいですか・・」
「うん」
「に・・2セット目は・・や・・や・・止めても・・いいですか・・」
「うん」
日置はニッコリと笑った。
5本だけ・・
サーブ5本だけ・・
一刻も早くこの場から逃れたい和子は、自らにそう言い聞かせて懸命に踏ん張った。
「わ・・わかりました・・」
聴こえないほどの小さな声で、和子はそう言った。
「よし。頑張れ」
日置は和子の肩をポンと叩いて送り出した―――




