405 サイドとエッジ
―――「きみ」
日置は主審に声をかけた。
主審は頼りなさそうに「はい・・」と答えた。
「今のラリー、見てたの?」
「あ・・えっと・・見てましたが・・」
「だったら、サイドってわかるでしょ」
「いえ・・その・・」
「あのね、審判は毅然としてくれないと困る。無論、ボールの行方もちゃんと見てくれないと困る」
「はい・・」
「きみ」
日置が副審を呼んだ。
「きみは見てたの?」
「は・・い・・」
副審は下を向いていた。
「見てたの?」
「はい・・見てました・・」
副審は恐る恐る顔を上げた。
「今の、エッジだった?サイドだった?」
「えっと・・その・・エッジ・・だと・・」
「それならどうしてノーカウントなんだよ」
「いえ・・それは・・」
そこでトーマスもコートにやって来た。
「どうしましたかー」
トーマスは日置に訊いた。
「今の、サイドでしたよね」
「僕はエッジだと思いまーす」
日置は唖然とした。
トーマスほどの実力者が、サイドとエッジを見間違えるはずがない、と。
その実、トーマスは当然のようにサイドだとわかっていたのだ。
「トーマスさん」
「なんですかー」
「判定は公正であるべきですよね」
「そーでーす」
「あなたならわかっているはずだ」
「なにがですかー」
とぼけるトーマスに、これ以上何をいっても埒が明かないと日置は思った。
「いや・・もういいです」
「今のはエッジボールでしたがー、ここはノーカウントでいいでーす」
日置はまた唖然とした。
なにを言ってるんだ、と。
エッジボールだと思っているなら、逆にノーカウントに抗議すべきだろう、と。
しないのは、サイドボールだとわかっていることの証じゃないか、と。
勝ちたい気持ちはトーマスも僕も同じだ・・
でも・・間違った判定を素直に認めないとか・・
あり得ない・・
「マジメルゲ」の日置は、なんともいえない気持ち悪さを抱えて、ベンチに下がった。
―――増江ベンチでは。
「監督」
景浦が呼んだ。
「なんですかー」
「ノーカウントのままですか」
「そーでーす」
「監督、わかってますよね」
「なにがですかー」
「今の、サイドだったじゃないですか」
「でも審判はノーカウントと言いましたー」
その実、景浦は意外にも正義感が強かった。
したがって間違いを見過ごすことには、納得しかねていた。
そう、有利になろうが不利になろうが関係ない、と。
方やトーマスは曲がった人間ではないが、ドライな面もある。
審判が間違った判断をしたにせよ、それはあくまで審判の責任だ、と。
それでいいじゃないか、と。
「試合は、審判の判定が正しいのでーす」
「なに言ってるんですか」
「まあまあ、かげちゃん」
そこで時雨が間に入った。
「なんだよ」
「ここは、ノーカウントでいいんじゃない?」
「そうだよ、かげちゃん」
白坂もそう言った。
「ね?なみちゃんも、そう思うよね」
時雨が藤波に訊いた。
その実、藤波もノーカウントでいいと思っていた。
ここで1点取られるということは、阿部はラストを迎えることになる。
となると、たとえ1点差とはいえ、どう考えても阿部が有利だ、と。
けれども景浦の言葉で藤波は迷っていた。
確かに今のボールはサイドだった、と。
けれども審判は「ノーカウント」という間違った判定を下した。
審判の判定が絶対だというルールにおいて、ここは従うべきなのか、と。
従ってもいいが、なんだ、この気持ち悪さは、と。
「いや、景浦のいう通りだ」
藤波はそう言った。
「なみちゃん・・」
時雨はバツの悪さを感じた。
「監督」
藤波が呼んだ。
「なんですかー」
「ここは判定に異を唱えるべきです」
「由美子ーもういいじゃないですかー」
トーマスは少しうんざりしていた。
1点くらい、なんでもないだろう、と。
「監督が嫌なら、私が行きます」
藤波はそう言って、コートへ向かったのだった。
―――桐花ベンチでは。
「先生よ!」
ベンチに戻った日置に、中川が急っつくように口を開いた。
「ダメだった」
「ダメって、ノーカウントってことかよ」
「うん」
「おのれ~~~!審判の野郎、フランク相馬を贔屓してんじゃねぇのか!」
「そんなことないよ」
「だったら、なんでノーカウントなんだよ!」
「ちゃんと見てなかったんだよ。それだけ」
「見てなかったって・・そんな無責任なことあるかよ!」
「仕方がない。ここは仕切り直しだ」
「こんな大事な場面で・・なんということや・・」
重富がポツリと呟いた。
「それさね!ほんとなら、チビ助はラスト1本まで行ってんだぜ!」
「中川さん」
日置が呼んだ。
「なんだよ!」
「気持ちはわかるけど、ここであれこれいっても始まらない」
「ったくよーー!ネットイン、エッジボールに続いて、挙句にはサイドでノーカウントってよ、なんなんだよ、これ!」
「阿部さん!」
日置が呼ぶと阿部は振り向いた。
「さあ、仕切り直しだ。ここは気を入れなおして!」
「はい」
阿部は複雑な心境のまま頷いた。
するとどうだ。
藤波がコートに向かって歩いているではないか。
「あの野郎、なんの文句があるってんだ!」
中川はそう言いながら、当然のように体はコートに向かっていた。
「中川!」
日置が止めたが、中川は無視していた。
「中川さん!」
重富は慌てて中川を追いかけた。
森上も唖然とし、和子も一旦アップをやめて見ていた。
―――コートでは。
「審判」
藤波が主審を呼んだ。
主審は早く試合を始めてくれと戸惑いつつも、「はい・・」と返事をした。
「今の判定だけど――」
そう言ったところで中川が口を開いた。
「おい、おめー」
藤波は一旦口を閉じて、中川を見た。
「この期に及んで、なんの文句があるってんだ!」
「はあ・・?」
「おめー、ノーカウントに不満なんだろ!エッジボールだと言いに来たんだろうがよ!」
「ったく・・」
「そうはさせるか!おめー、ここはぜってー譲らねぇからな!」
藤波は呆れ果てて、中川を無視した。
そして主審に目を向けた。
「おい!フランク藤波よ!聞いてんのか!」
「主審」
藤波が呼んだ。
「はい・・」
「今の判定だけど、ノーカウントは撤回して」
「え・・」
「今のはサイドだ。だからこっちのミスだ」
なにっ・・
フランク藤波・・
おめー・・
それを言いに来たのか・・
中川は驚いたまま、口を開けないでいた。
それは重富も同じだった。
藤波さん・・
意外と・・
まともやん・・
「そ・・そうですか・・」
主審はそう言いながら副審を見た。
そう、なにか言ってくれ、と。
「それで・・いいんですか・・」
副審は遠慮気味に藤波に訊いた。
「うん」
「そ・・そうですか・・」
「じゃ、頼んだよ」
藤波はそう言いながら、相馬の肩をポンと叩いてベンチに下がった。
「えっと・・そしたら・・今のノーカウントは撤回します・・それで・・桐花の点とします・・」
主審が頼りなくそう言った。
「チビ助」
中川が呼んだ。
「なに・・」
「これでいいんでぇ。これが正しい判定だ」
「うん、そやな」
「阿部さん、ラスト1本、締まって行くで」
重富が言った。
「うん」
阿部は力強く頷いた。
そして中川と重富はベンチに下がった。
―――観客席では。
「おおおおお・・」
桐花に1点が入ったことで、館内はどよめいていた。
なにがどうなったかわからないものの、藤波がコートで話をした後に桐花に1点が入った。
つまりそれは、増江がサイドボールを認めたということだ、と。
驚いたのは三神も例外ではなかった。
「藤波くん、見事です」
皆藤が言った。
「ほんとですね」
野間が答えた。
皆藤にも野間にも、サイドボールだったことは、とうにわかっていた。
「この場面での1点が大きいことは、みんなわかっているはずです。それは増江も同じです」
「はい」
「でも、どうも変です」
「なにがですか」
「まず日置くんが抗議に向かいましたね」
「はい」
「けれども却下されたはずです。だから阿部くんに点は入りませんでした」
「はい」
「ということは、トーマスくんはエッジボールだと主張したに違いありません」
「はい」
「けれども増江に点は入りませんでした。この時点で審判はノーカウントと判断したはずです」
「そうですね」
「けれどもそのあと、藤波くんがコートに向かい、判定は覆されました」
「はい」
「大したものです、藤波くん」
「中川さんがなにか言ってましたが、その後は引き下がりましたよね」
「潔い振舞いに、さすがの中川くんも面食らったことでしょう」
皆藤はニッコリと笑った。
―――桐花ベンチでは。
「藤波さん、もしかしてサイドを認めたの?」
日置は阿部に1点が入ったことで、そう訊いた。
「そうなんですよ」
重富が答えた。
「へぇ、監督より選手の方が立派だね」
「トーマスは、エッジやというてたんですか?」
「そうなんだよ」
「なんやねん、それ・・」
「まあいい。これですっきりした」
「藤波さん、偉いですね」
「そう思うよ」
二人の会話を横で聞いている中川は思った。
フランク藤波よ・・
おめー・・
単に・・嫌な奴だと思ってたけどよ・・
なかなか・・いなせな野郎だぜ・・
おうよ・・
そうでねぇとな・・
これが・・
命のやり取りってもんよ・・
「フランク藤波よ!」
中川は大声で呼んだ。
すると藤波や増江ベンチは何事かと驚いた。
まだなにかあるのか、と。
今度はなんなんだ、と。
「おめー、本物の命のやり取りってのを、知ってんじゃねぇかよ!」
藤波は呆れた。
命のやり取りとはなんだ、と。
それを私が知ってるとは、なんだ、と。
「そこの腑抜けたトーマスより、おめーの方がずっと見どころがあるってもんよ!」
中川の声は弾んでいた。
「なに言ってるんだ・・」
藤波はまだ呆れていた。
その横で景浦は「あはは」と笑っていた。
「景浦、なにがおかしいんだよ」
「あはは、中川って、ほんとおもしろいよね」
「・・・」
「中川って「素」のままって感じだよね」
「え・・?」
「好きは好き、嫌いは嫌い。いがみ合ってても認めるべきは認めるってとこ、いいよね」
「・・・」
「それにしても、命のやり取りって・・あはは」
景浦には「命のやり取り」が試合を意味しているとわかっていたのだ。
こうしてすったもんだの挙句、試合は再開されたのである―――




