402 繋げるバトン
―――試合終了直後の観客席では。
「うーん・・森上くんをもってしてまで・・」
皆藤は落胆の声を挙げた。
「そうですね・・」
野間もそう答えるしかなかった。
同時に、明日のシングルでの対戦のことが頭を駆け巡っていた。
どうすれば、景浦に勝てるのか、と。
それはシングルに出場する山科と仙崎も同じだった。
特に仙崎は団体戦の予選の際、森上に4点と5点で負けている。
その森上に景浦は12点と13点で勝ったのだ、と。
「先生」
野間が呼んだ。
「なんですか」
「阿部さんは勝てますよね」
「無論、油断は禁物ですし、相馬くんもかなりの選手ですが、阿部くんなら大丈夫でしょう」
「そうですよね」
「ラストがどうなるかです」
「重富さんですよね・・」
野間は、重富では勝つのは無理だと思っていた。
「これまでの重富くんなら、話にならないと思いますが、今日の重富くんならわかりませんよ」
「・・・」
「きみは無理だと思っているのですか」
「あ・・いえ、断言することはできませんが・・」
「私も九分九厘、無理だと思います。ですが、たとえ1%でも可能性があるなら、やってみないとわかりませんよ」
皆藤は思っていた。
今日の重富にはツキがある。
それは畠山の言葉がツキをもたらしたのだ、と。
重富はその言葉を受け止め信じた上で、試合に臨んだ。
だからこそ、時雨という二番手を相手にしても、あの落ち着きぶりだった。
試合はなんといっても、メンタルが強い方が勝つ。
その意味では、景浦も相当なメンタルの強さがある上に、なにより彼女の実力のすごさだ。
よって、この上なく厳しい戦いになるはずであろう。
けれどもツキという1%の可能性に、皆藤は望みをかけていたのだ。
―――桐花ベンチでは。
阿部はラケットを手にして日置の前で立っていた。
「さあ、阿部さん」
森上が敗退し、ここはなにがなんでも阿部が勝つことが優勝への条件となった。
その意味で日置の声にも力が入っていた。
無論、阿部にもその意が強くあった。
「はい」
「まずはコースを打ち分けて、相馬さんを動かそう」
「はい」
「それで勝負どころはミドルへ送ること」
「はい」
「それも、何度も連続でね」
「連続、ですか」
「うん。ダブルスの時、森上さんがやったのと同じ作戦だよ」
「わかりました」
「よし。徹底的に叩きのめしておいで」
日置はいつものように、阿部の肩をポンと叩いた。
「チビ助」
中川が呼んだ。
阿部はそのまま視線を中川へ移した。
「フランク相馬なんざ、あの猛獣に比べたら屁でもねぇぜ」
「うん」
「おめー、ここは死に物狂いで叩きのめせよ」
「わかってる」
阿部は力強く頷いた。
「千賀ちゃぁん、頑張ってなぁ」
森上は負けたことで、申し訳なさそうに言った。
「恵美ちゃん」
阿部は森上の意を察し、優しく微笑んだ。
「なにぃ」
「恵美ちゃんの仇を取るからな」
「うん~」
森上は頼りなく頷いた。
「阿部さん」
重富が呼んだ。
阿部は重富に視線を移した。
「あんたやったら勝てる。だから、しっかりな」
「うん、頑張る」
「せ・・先輩・・」
次に和子が口を開いたが、どうも様子が変だ。
森上が負けたショックとは、また違うぞ、と。
「あんた、どしたん?」
「いえ・・頑張ってください・・」
そう、和子は地に足がついてなかったのだ。
なぜなら、阿部が勝とうが負けようが、自分に回って来るからだ。
和子が考えていたのは、森上が勝ち阿部も勝って優勝のはずだった、と。
まさか森上が負けるとは思いもしなかったと同時に、負けた時点で否が応でも自分に順番が回って来ることを突き付けられたわけだ。
「おい、郡司」
中川が呼んだ。
「は・・はい・・」
「おめー、どうしたってんでぇ」
「いえ・・その・・」
「トイレか?なら行って来いよ」
「ああ・・はい・・トイレです・・」
「あはは、おめーなに遠慮してんだよ。ほら、早く行け」
中川は和子の背中を押した。
すると和子は「すみません・・」と言って、ロビーへ向かった。
そして阿部はゆっくりとコートへ歩いて行った。
「ちょっと僕もトイレ行くね」
日置は阿部を見送ったあと、ベンチを離れた。
「先生も我慢してたのかよ」
中川は日置の後姿を見ながら、苦笑していた。
「そら先生かて、人間やからな」
「出物はれもの、所選ばすって寸法さね・・」
「あはは、あんたそこで寸法使うん、おかしいやろ」
二人がくだらないことで笑っている横で、森上は感じ取っていた。
そう、自分が負けたせいで郡司はプレッシャーに襲われているんだ、と。
いわば、まだよちよち歩きの赤ちゃんが、この舞台で試合をするわけだ。
郡司にすれば、気持ちの調整など無理に決まっている。
自分はなんて申し訳ないことをしたんだ、と。
―――増江ベンチでは。
「智子ー」
トーマスは相馬を呼んだ。
「はい」
相馬はトーマスの前に立った。
「ベイビーはチョコチョコと動きますが―、ボールに威力はありませーん」
「ベイビー・・」
阿部のことをまだ「ベイビー」というトーマスに、相馬は少し呆れていた。
「早めに勝負に出て、五穀豊穣させなさーい」
「は・・?」
五穀豊穣って・・なに言ってんの・・
卓球と関係ないじゃん・・
まったく・・監督は・・
「あれ・・違ったかな・・えーっと・・なんだっけー」
「覚えたての四字熟語だよ・・」
相馬の横で藤波が笑いながら答えた。
「ああ、それそれ。早めに四字熟語させなさーい」
トーマスは「どや顔」をした。
「監督、違いますよ」
藤波はクスクスと笑っていた。
「ええーなんだっけー、ほら、相手にやる気を失くさせることでーす」
「意気阻喪ですか?」
「なにそれ・・違いまーす」
「意気消沈・・じゃないですよね」
「違いまーす。戦う気を失くしてしまうことでーす」
「ああ、戦意喪失ですか」
「センイソウシツ・・それそれ、それでーす」
「っていうか、そんなこといいじゃないですか」
藤波は笑いつつも、少し呆れていた。
五穀豊穣と戦意喪失を間違えるか、と。
「相馬ちゃん」
景浦が呼んだ。
「なに?」
「いいね、取られた分は取り返す、だよ」
「うん、わかってる」
景浦の言葉で相馬の顔から笑顔が消えた。
「絶対に勝つよ」
白坂が言った。
「相馬ちゃん、頑張るよ」
時雨が言った。
「相馬、しっかりな」
藤波は相馬の肩を軽く叩いた。
「うん」
相馬は力強く頷いてコートへ向かった。
―――ロビーでは。
和子はトイレになど行かず、靴を履き替えて外に出ていた。
やっぱりだ・・
そう、日置にもわかっていたのだ。
そして日置も靴を履き替えて外に出た。
「郡司さん」
声をかけると和子は驚いて振り向いた。
「せ・・先生・・」
「きみ、試合のこと考えてるんでしょ」
日置はニッコリと笑って和子の横に立った。
「いえ・・その・・」
和子は思わず下を向いた。
「どうしようって思ってるんだよね」
「ああ・・はい・・」
「そんなこと思わなくてもいいよ」
「ほなけんど・・わ・・私・・試合やこ・・」
「きみの気持ちは痛いほどわかるよ」
「え・・」
「そりゃ怖いよね」
「は・・はい・・」
「できれば、帰りたいって思うよね」
「は・・はい・・」
「でもね、郡司さん」
「はい・・」
「これはチーム戦なんだよ」
「え・・」
「ダブルスは勝って中川さんは負けた。重富さんが勝って森上さんは負けたよね」
「はい・・」
「きみもこのチームの一員なんだよ。誰かが負ければ自分が取り返す、という気持ちを持たないとね」
「そっ・・そがなっ・・私やこ・・」
和子は戦力どころの話ではないことを言った。
「あのね、もしきみがずっと下を向いたまま試合をすると、うちのエースである森上さんはどう思うかな」
「え・・」
「きっと自分を責めると思うよ。きみに申し訳ないことしたって思うよ」
「・・・」
「そんなこと思わせちゃいけない」
「・・・」
「誰もきみが勝てるなんて思ってない」
「はい・・」
「でも気持ちだけは負けちゃいけない」
「・・・」
「だからね、ここは私が取り返します、くらい言って、先輩たちを驚かせたらいいんじゃないかな」
「そっ・・そがなことやこ・・」
「いうのはタダだよ」
日置はニッコリと笑った。
「えぇ~・・」
それにつられて和子は苦笑した。
「いいね。試合は前を向いてやること」
「はい・・」
「大丈夫。きみならできる」
「はい・・」
「ほら、笑って」
すると和子は幾分か気持ちが楽になり、戸惑いながらも笑みを見せた。
「そうでなくちゃ」
日置はそう言って和子の頭を優しく撫でた。
―――コートでは。
3本練習も終わり、ジャンケンに勝った阿部はサーブを選択していた。
「ラブオール」
主審が試合開始を告げた。
「お願いします!」
双方とも頭を下げて、いよいよ試合が始まろうとしていた。
よし・・
絶対に引いたらアカン・・
出だしから積極的に攻撃する・・
「1本!」
阿部は気合いの入った声を挙げ、サーブを出す構えに入った。
森上に比べたら・・
この阿部なんて・・取るに足らない・・
ダブルスが負けたのは・・森上の力があったからだ・・
そして相馬も「1本!」と声を挙げ、レシーブの構えに入った。
この時点で阿部と相馬には、ある種の気持ちの差があった。
阿部は自分が負けると、次に控える郡司では話にならない。
つまり自分が負けた時点で桐花の負けは決まるんだ、と。
方や相馬は、自分が負けても次の白坂は100%の確率で勝つ。
するとラストにもつれ込むが、景浦なら勝つのは間違いない。
いずれにせよ、うちが勝つことは決まっているのだ、と。
とはいえ阿部に過剰なプレッシャーなどなかった。
いや、ないといえば噓になるが、自分が負けてしまうと郡司にとんでもないプレッシャーをかけることになる。
それだけは絶対に避けなければならない、と。
それに今日の重富なら、あの猛獣にもひょっとしたら勝てるかもしれない、と。
この気持ちが阿部を奮起させていた。
そして阿部はバックコースから、バックの下回転サーブをバックのネット前に落とした。
この子・・
表だけど・・結構切れてるんだよね・・
そう思った相馬は、丁寧にツッツキで返した。
バックに入ったボールに阿部はすぐさま回り込み、バッククロスへミート打ちを放った。
それを相馬は抜群のタイミングでバックハンドで対応した。
ボールはフォアストレートに返り、阿部はフットワークを駆使して追いついてすぐに、フォアクロスへスマッシュを打ち込んだ。
パシーン!
さほど威力はないものの、送ったコースがよかった。
フォアコースギリギリに入ったボールに追いついた相馬は、少し後ろへ下がってドライブをかけた。
森上のドライブと比べ物にならない「普通」のボールを、阿部はバウンドしてすぐにカウンターで返した。
後ろへ下がらない阿部のボールは、とても速い。
けれどもそれも織り込み済みの相馬は、カウンター返しとばかりに、バウンドしてすぐに打ち込んだ。
それかて・・わかってたことや・・!
フォアでバウンドしたボールを、阿部はまたすぐに打ち返した。
そしてボールは相馬の体をめがけて飛んで行った。
そう、日置がアドバイスしたミドルである。
くそっ・・!
少し体を詰まらせた相馬は足を右へ動かし、苦し紛れのバックハンドで返した。
よし・・
もう一発・・!
阿部は再び相馬の体をめがけて打って出た。
すると相馬はまた体を詰まらせ、今度は左へ足を動かし、少しドライブのかかったフォアハンドで返した。
ミドルでバウンドしたボールを、阿部は決めてやるとばかりに、スマッシュに打って出た。
どっちだ・・
またミドルかっ・・!
相馬はボールを凝視した。
すると阿部は寸でのところでネット前にチョコンと落としたのだ。
前かっ・・!
相馬は慌てて前に駆け寄り、なんとかボールを拾った。
けれどもそれは絶好のチャンスボールとなった。
来た来た~~~!
阿部は当然のように打ちに行った。
けれども相馬は一瞬迷った。
そう、二度目のストップもあり得る、と。
すると阿部は相馬の「期待」を裏切るかのように、フォアクロスギリギリのところへ全力でスマッシュを打った。
相馬は懸命に追いかけたが、ボールはすでに後ろへ飛んで行った。
「サーよし!」
阿部は渾身のガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスボールだ!」
ベンチに戻っていた日置が声を挙げた。
「よっしゃあ~~~!ナイスボール!」
「千賀ちゃぁん、もう1本!」
「っしゃあ~~~!チビ助ーーーそのまま行けーーー!」
「せっ・・先輩っ・・!1本ですけに!」
和子も精一杯声を挙げた。
そして和子は鞄からラケットを取り出し、その場で体を動かし始めた。
けれどもそれは動いているというより、体はカチカチに固まり、明らかに余計な力が入っていた。
その様子を見た日置は、和子の心境を思うと胸が痛くなったが、なにも言わなかった。
そう、ここは乗り越えろ、と。
乗り越えるのは己でやるしかないんだ、と。
そしてコートでは、阿部が2本目のサーブを出そうとしていた―――




