397 やり甲斐
―――「おおおお・・」
景浦の独特の構えを見た館内からは、驚きの声が挙がった。
あんなに腰を低くして、大丈夫なのか、と。
その姿勢に意味はあるのか、と。
「なんなんだ・・あの構えは・・」
中川も唖然としていた。
「ほんまやな・・」
阿部も驚きを隠せなかった。
「・・・」
重富は無言だった。
なぜなら、万が一ラストまで回ると景浦と対戦するからだ。
「あがな構えやこ・・見たことがありゃせんが・・」
和子は半ば怯えていた。
「まるで獲物を狙う、黒ヒョウみたいだね」
増江のユニフォームは、上下とも黒だ。
肉食系動物は獲物を狙う際、まるで匍匐前進するかのように姿勢を低くし、忍び足で標的に近づく。
日置はそのことを言った。
「それさね!」
日置の言葉に彼女らは、まさにそれだ、と納得していた。
一方で森上は、構えのことなど眼中になかった。
どこへどのサーブを出すべきか、その後のラリーはどうすべきかを冷静に考えていた。
よし・・
最初は無理せんと・・
フォア前に出すか・・
フォア前は、景浦にとってバック前になる。
そして森上はボールを上げ、フォア前に下回転の小さなサーブを出した。
すると景浦は意外にも、簡単なツッツキで返した。
増江以外の誰しもが「あれ・・」と思った。
なんだ、ツッツキか、と。
いや、それとも様子を見ているのか、と。
ボールは森上のフォアクロスの奥深くに入った。
「おいおい、フランク景浦よ!おめーそのボールはねぇってもんよ!」
中川は思わず声を弾ませた。
なぜなら、森上にとって絶好のチャンスボールだからである。
いや、中川だけではない。
桐花ベンチは全員がそう思い、観客席の皆藤らも「レシーブミス」だと認識した。
そして森上は素早く足を動かし、渾身の力を込めてボールを擦り上げた。
ビュッ!
目の覚めるようなスーパードライブが、バックストレートギリギリに入った。
景浦にとってはフォアストレートだ。
誰もが抜けたと思った瞬間、景浦はまるで猛獣が獲物を取り押さえんばかりの脚力を活かし、なんと余裕で追いついた。
そしてその場から、森上以上のスーパードライブを放ったのだ。
「おおおおおおおーーーー!」
館内から、驚愕の声が挙がった。
なんだあのボールは、と。
なんだあの脚力は、と。
グィーンと弧を描いて入った強烈なドライブは、バッククロスを襲った。
森上は、バウンドしてから曲がることも計算に入れてラケットを出した。
これはショートで返す、ということだ。
そう、景浦のボールは左方向へ曲がるため、回り込む余裕などなかったのだ。
そして森上は懸命にブロックした。
「へぇー」
森上のショートを見て、増江ベンチからこのような声が漏れた。
ボールはなんとかコートに入ったが、コースがまずかった。
ミドルに入ったボールに、景浦は迷うことなく弾丸スマッシュをフォアクロス深くに打ち込んだ。
まだバックコースに立ったままの森上は、成す術がなくボールはすでに床に落ちていた。
景浦は声すら挙げず、ガッツポーズもしなかった。
そう、当然だとばかりに。
「どんまい」
森上は静かにそう言った。
「森上さん」
景浦が呼んだ。
呼ばれた森上は、なにごとかと無言のまま景浦を見た。
「ラリーになるとは思わなかったよ」
景浦は、森上がショートで返したことを言った。
それに対し、森上はなにも答えなかった。
どういう意味だ、と。
そう、今しがた増江ベンチから「へぇー」という声が挙がったのは、返球したぞ、という意味だったのだ。
あの真城ですら、返球できなかったのだ。
いや、空振りもしたが、ラケットに当てることもあった。
けれども全てミスをしていたのだ。
桐花ベンチでも、しばらくの間、誰からも言葉が発せられないでいた。
なんなんだ、こいつは、と。
あの森上が、力で負けているぞ、と。
渾身のドライブを、倍の力で返してきたぞ、と。
それに対して森上は、ショートしかできなかったぞ、と。
「森上さん、どんまい、どんまい!」
日置はパンパンと手を叩いた。
「恵美ちゃん・・」
阿部は、たった1球のラリーで、悪夢を見る思いがしていた。
「森上さん!どんまいやで!」
重富はなんとかそう言った。
「せっ・・先輩!1本・・1本ですけに!」
和子も精一杯そう言った。
「おのれ、フランク野郎・・」
中川はポツリと呟やきながら思った。
フランク景浦・・
こいつぁ・・別格だ・・
藤波や時雨とは・・わけがちげぇぜ・・
でもよ・・
森上・・
おめーだって別格なんだ・・
天地とオスカルきよしとクチビルゲをぶっ倒したのも・・
近畿の野郎どもをぶっ倒したのも・・
おめーが別格だからだ・・
「よーーし、フランク景浦よ!上等じゃねぇか!おめー猛獣だかなんだか知んねぇが!っんなもん屁でもねぇやな!」
中川は大声で叫んだ。
「猛獣・・」
景浦は思わず笑った。
なかなかいい喩えだ、と。
「あんたのとこの中川さ、面白いこと言うよね」
景浦は森上に言った。
「フランク野郎もそうだし、浅草西のときは、干支を使ってたよね」
「・・・」
「ま、口ばっかだけどさ」
森上は特に感情を出すでもなく、次のサーブを考えていた。
ラリーは、相当きついもんがあるな・・
せやけど・・
絶対に弱点はあるはずや・・
それをどの時点で見破るかやな・・
森上に焦りはなかった。
そう、まだ始まったばかりだ、と。
よーし・・
こっから・・こっから・・
そして森上はサーブを出す構えに入った。
方や景浦も独特の構えに入った。
森上はバックコースに立ち、バックサーブを出そうとしていた。
そして森上はボールを上げた。
すると矢のような上回転のロングサーブが、景浦のバックを襲った。
森上にとってはフォアストレートだ。
「へぇー」
また増江から、このような声が挙がった。
そう、いいサーブじゃないか、と。
スピードは藤波にも劣らないぞ、と。
このサーブに対してどう対処するかは、景浦には選択肢がいくつもあった。
一つはバックハンドのカウンター、一つはバックハンドドライブ、一つは回り込んでカウンターか、ドライブ。
あとは意表を突いた、ショートカットで際どいコースを狙う、などだ。
ま・・ここは・・
森上の「期待」に応えてやるか・・
「期待」とは、森上が予測しているであろうレシーブとコースのことだ。
余裕の景浦は、バックハンドドライブで返した。
バックハンドといえども、その回転力と威力は相当なものだ。
けれども森上にとっては「たかが」といったボールだ。
バックに入ったボールに、森上はすぐさま回り込み、バウンドしてすぐに弾丸スマッシュを打ち込んだ。
パシーン!
コートに叩きつけられたボールの音は、まさに男子を思わせる「それ」だ。
へぇ・・
こっちなんだ・・
森上が打ったコースはフォアストレートだった。
景浦にとってはバックストレートになる。
そして景浦が「こっちか」と思った理由は、こうだ。
この時点で景浦が立っているのは、右選手でいうところのフォア側だ。
するとバックががら空きになっている状態だ。
なので、森上が打つべきは、当然バックのはずだ、と。
森上レベルだと、ボールが逃げていくような打ち方など造作もないはず。
それなのに、なぜ、わざわざフォアへ打ったんだ、と。
そんなことを考えつつ、景浦は脚力を活かし、なんと既に回り込んでいたのだ。
森上は思った。
ここも・・
回り込むんや・・
そうなんや・・
そして景浦は後方から、渾身のドライブをかけた。
「おおおおおおおーーーー!」
また観客席がどよめいた。
ボールは再び、バックストレートへ弧を描いてグィーンと入って来た。
絶対に止める・・
こう思った森上は、ショートで返そうと考えた。
これは消極的になったからではない。
次の展開を考えてのことだった。
そして森上は、ボールの威力に押されてなるものかと、懸命に対処した。
ショートする形で、ラケットを上から下へスライドさせた。
そう、これは回転力を殺すための技術だ。
たとえるなら、ストップと似ている。
ちなみにこれは、小島らと同い年だった、三神の垣内の得意技でもある。
コートの真ん中ほどに落ちたボールに、景浦は全速力で前へ走って来た。
森上・・
あのボールをそれで止めるとは・・
やるじゃん・・
だったら・・お返しだ・・
さっきまで打つ格好だった景浦は、突然大きな体を小さくして、バック前にチョコンと落とした。
前かっ・・
当然、打ってくるものだと思い込んでいた森上は、自ずと後ろへ下がっていた。
けれども信じられない速さで、前に走った。
ここは・・
打つべきや・・
森上は無理ししても打ちに行くと決めた。
そして大きな体を小さくし、目線はボールに合わせた。
その瞬時、森上は景浦の立ち位置を見た。
バックか・・
景浦は、右選手でいうところのフォアに立っていた。
そして森上は台上のボールを叩きに行った。
手首を上手く使って対処する森上の「それ」は、まさに神業だ。
ストップもあり得るよ・・!
相馬はそう思った。
なぜなら、ダブルスで散々掻き回されたからだ。
けれども森上は打って出た。
コースは再び景浦のバックだ。
しかもラインギリギリという、抜群の返球だった。
またバックかっ・・!
今度こそフォアへ流し打ちをすると踏んでいた景浦は、読みが外れたものの、抜群のバックハンドスマッシュを叩き込んだ。
絶対に抜かせへんっ・・!
森上はすぐさま動いた。
フォアコースでボールがバウンドした瞬間、なんと森上はカウンターを食らわしたのだ。
ボールは景浦のフォアコースに叩きつけられた。
あまりのスピードの速さに、景浦の脚力をもってしても間に合わず、ボールは後方へ飛んで行った。
「サーよし!」
森上は気合いの入った声を挙げた。
「よーーーし!ナイスボールだ!」
日置はパーンと一拍手した。
「よっしゃあーーーー!恵美ちゃん、ナイスボール!」
「森上さん、もう1本!」
「きゃあ~~~~!先輩!先1本ですーーー!」
「ひゃっはーーーー!森上よ!おめーやっぱ、すげーーーわ!」
さっきまで沈んでいた桐花ベンチは、一気に息を吹き返した。
これは行けるぞ、と。
森上は負けない、と。
方や増江ベンチでは、ダブルスで森上の実力はすでに確認済みだが、シングルもこれほど長けていたのか、と。
今しがたのラリーもそうだ。
なかなか景浦のフォアを狙わない。
それには何の意図があるのか、と。
「ビューティフルガール~やるねー」
トーマスが言った。
横で立っている藤波は、半ば睨みながら「森上です」と不満げに言った。
「由美子ー、カリカリしないー」
そう、藤波は予想を上回る森上の実力に、ある種の危機感を抱き始めていた。
うちの景浦に対して、一歩も引かない選手は初めてだ、と。
藤波だけではない。
時雨も白坂も相馬も同じだった。
この森上は「本物」だと。
その景浦といえば、なんら意に介するどころか、闘志が漲りつつあった。
やってくれるじゃないか、と。
上等だ、と。
一方で、やっと倒し甲斐のある選手と出会えたことに、ある種の喜びを感じていた。
日本に帰国してから対戦した相手といえば、骨のないやつばかりだった、と。
ラリーさえ続かない始末で、真城など論外だった。
戦前、森上もその類だと高を括っていた。
決勝戦までの森上や、白坂と相馬と対戦したダブルスを見たとはいえ、自分の敵ではないと思っていた。
なぜなら、森上の本当の実力を確かめるに至らない試合ばかりだったからである。
「さあ、ここからだ」
景浦は笑みを浮かべて、レシーブの構えに入った。
方や森上は、「1本」と、どこまでも冷静な声を挙げ、サーブを出す構えに入った―――




