395 決着
―――増江ベンチでは。
タイムを取った時雨はトーマスの前で立っていた。
「真由美―」
トーマスはニッコリと微笑んだ。
「はい・・」
「まだ負けてませーん」
「・・・」
「ここからは、5本連続で取れまーす」
「え・・」
トーマスは思っていた。
時雨の不調は、もう克服できた。
こちらがサーブなのだから、必ずラリーで挽回できる、と。
5本取ると19―16の3点差となり、まだ負けているとはいえ、追い上げられた重富は焦るに違いない、と。
「だから、大丈夫でーす」
「そうだよ、時雨」
藤波は時雨の肩に手を置いた。
「ラリーになると、重富は対処できない。だから自信を持って」
「うん・・」
「ときちゃん、ここからだよ」
白坂が言った。
「そうだよ、絶対に挽回できるよ」
相馬もそう言った。
「ときちゃん」
景浦が呼んだ。
時雨はなんとか顔を上げて、景浦を見た。
「あんたは、このシングルだけなんだよ」
景浦は、トーマスのオーダーミスを言った。
時雨もその意を理解した。
「なみちゃんもシングル1回だけだ」
本来のオーダーは、藤波がシングルに2回出るはずだった。
「でも、なみちゃんは勝った」
「うん・・」
「じゃ、ときちゃんも勝たないとね」
「うん・・」
「それが責任だよ」
そう言って景浦は、時雨の肩をポンと叩いた。
「白坂ちゃん、相馬ちゃん」
景浦が二人に目を向けた。
二人は何ごとかと、景浦を見上げた。
「あんたたちもそう。ダブルス負けてるんだから、シングルは絶対に取ること」
まるで釘を刺すような言いぶりに、二人は驚きつつも、確かにそうだと思った。
時雨が負けると、ゲームカウントは2―1で桐花がリードする。
景浦は問題なく勝つとして、その時点で2―2のイーブンになる。
すると自分たちにも、シングルが回ってくるぞ、と。
「わかってる」
二人は同時にそう言った。
藤波は思った。
自分はキャプテンだが、ここぞという時の、景浦の言葉には力があるな、と。
景浦は目の前の試合だけではなく、負けた分は取り返す、という選手としての責任を改めて自覚するよう促した。
それによって、嫌でも気が引き締まる。
さすが景浦だ、と。
「景浦のいう通りだ。時雨、白坂、相馬」
藤波は三人を呼んだ。
「私たちは全国トップチームなんだよ」
藤波が言うと、三人は頷いた。
―――桐花ベンチでは。
「とみちゃん、あと2本や。絶対に行けるで!」
阿部は、途中で心配したことなど、とっくに忘れていた。
「そうそう!先輩、徹底的に叩きのめす、ですけに!」
和子の声も弾んでいた。
「よーーし、重富よ。フランク時雨は崖っぷちだ。とっととダメ押ししてやんな!」
中川は重富の肩をバーンと叩いた。
「ここは、気を引き締めてなぁ」
森上は体を動かしながら、そう言った。
重富は彼女らの励ましに頷いて、日置を見上げた。
「最後まで、きみの思い通りにやればいいよ」
日置はニッコリと微笑んだ。
「はいっ!」
重富は元気一杯に返事をした。
けれども日置は思っていた。
ここからの5本は、かなりきつい展開になるぞ、と。
それこそトーマスが言ったように、5本全部取られるかもしれない、と。
なぜならサーブは時雨に移り、必ずラリー展開に持って行くはずだからだ。
そうなると重富は不利になる。
日置はそのことを伝えたかったが、ここまで主導権を握って試合運びをしたのは重富自身だ。
今も自信に満ちあふれた表情をしている。
ここで「いらぬ情報」を与えるより、重富に任そう、と。
そして時雨と重富は、コートに向かって歩を進めた。
―――コートでは。
時雨はボールを手にして、サーブを出す構えに入っていた。
ラリー勝負だ・・ラリー勝負・・
むつかしいサーブなんて・・必要ない・・
方や重富は「1本!」と声を発し、レシーブの構えに入った。
よーし・・
あと2点や・・
なにがなんでも・・
死んでも取るっ・・!
さあ・・
どんなサーブでも来んかい・・!
そして時雨はバックコースに立ち、バックサーブを出した。
これまで出していなかった、目の覚めるような上回転のロングサーブは、バックコース奥深くの端に入った。
まるで藤波のサーブを思わせるかのような速いボールだ。
速いっ・・
重富は一瞬焦ったが、懸命に対処して板でバッククロスに返した。
すると時雨はコースを読んでいたかのように、すぐさま回り込み、抜群のミート打ちでフォアストレートへ打ち込んだ。
すぐさま重富はフォアへ移動し、守る形でフォアクロスギリギリの場所へ返した。
これも板だ。
舐めんじゃないわよ・・
時雨はすぐさまフォアへ移動し、スマッシュに打って出た。
この時点で重富は、まだフォア側に立っていた。
となると、打つコースはバックストレートだと、誰しもが思った。
それは重富も例外ではなかった。
重富の体は自然とバックへ動いていた。
するとどうだ。
なんと時雨はフォアクロスへ打ち込んだのだ。
パシーン!
矢のようなボールは、完全に逆を突かれた重富のはるか遠くを飛んで行った。
「よーーしっ!」
時雨は渾身のガッツポーズをした。
「ナイスボーール!ガンガン行くよー!」
トーマスはパンパンと手を叩いた。
「よーーしっ!ナイスボールだ!」
「1本だよ!」
「もう1本!」
「ときちゃん、締まって行くよ!」
彼女らもやんやの声を挙げた。
「どんまい」
重富に、特に焦りはなかった。
なぜなら、まだ7点もリードしているからだ。
「重富さん、どんまいだよ!」
日置は気にするなとばかりに、手を叩いた。
「とみちゃん、次1本な!」
「どんまい、どんまい~~!」
「先輩~~~!1本ですよ!」
「1本くれぇ、ご愛敬さね!気にしねぇでガンガン行けーーー!」
重富は思った。
今は・・7点もリードしてるけど・・
果たしてこれでええんやろか・・
そういえば・・
前に先生が言うてはった・・
大きくリードしたり・・相手が弱かったりすると・・
知らず知らずのうちに・・相手のミスを期待してしまう・・と・・
それで勝っても・・意味がない・・と・・
重富は僅かながら、あと2点取れば勝てる、という気持ちになっていた。
そう、2本くらいなら時雨といえども、ミスをするだろう、と。
だから今しがたのラリーも、単に返したに過ぎない、と。
あかん・・あかんで・・
ミスをするはず、やなくて・・
ミスをさせるんや・・
よーーしっ・・!
そして時雨はサーブを出す構えに入り、重富もレシーブの構えに入った。
「1本!」
重富は今まで以上に、張りのある声を発した。
方や時雨の目は、ここからの4本は全部取る、という覚悟が見えていた。
時雨は同じ立ち位置から、同じサーブをミドルへ出した。
おんなじかいっ・・!
重富は板で懸命に対処し、時雨のミドルへ送った。
それを時雨は抜群のタイミングで、バックハンドのミート打ちを放った。
バックコースに入ったボールを、重富はまた板で対処した。
送ったコースは、再びミドルだ。
ほんの少し体を詰まらせた時雨だったが、もう一度バックハンドでミート打ちを放った。
フォアストレートに入ったボールに、重富はすぐさま足を動かし、守る形でブロックした。
そして送ったコースは、またミドルだ。
「重富ーーーー!粘れーーーー!」
息を呑むような緊張感あふれるラリーに、中川は思わず声を挙げた。
「とみちゃんーー頑張れーー!」
「とみちゃぁ~~ん!しっかりぃ~~~!」
「きゃあああ~~~! 先輩~~~!」
ミドルに入ったボールに、時雨は少し躊躇した。
なぜ、ミドルばかりなんだ、と。
時雨の頭の中では、次はフォア、あるいはバックかもしれないという意識が働いていた。
そう、いわゆる通常のラリーとは、コースを打ち分けるのが殆どだからだ。
まさしく重富は、そこを突いたのだ。
まさか同じコースばかりに来るとは思っていないであろう、と。
時雨は左へ足を動かし、フォアハンドで強打した。
けれども体を少し詰まらせたため、万全の「それ」ではなかった。
よっしゃあ~~~~!
ミドルより少しフォア側へ落ちたボールを、重富は瞬時にラケットを反転させ、裏でスマッシュに打って出た。
この時点で、フォア、バックのどちらへ打っても、コースさえ狙えば決まる可能性があった。
なぜなら、時雨はミドルに立ち、どっちへ打たれるかわからないからである。
そして重富は全力でスマッシュを打ち込んだ。
パシーン!
時雨は唖然とした。
そう、重富は時雨の体をめがけて打ったのである。
どちらへも動くことができなかった時雨の体にボールが当たり、無情にも床に落ちて転がっていた。
「サーよしっ!」
重富は少し体をかがめてガッツポーズをした。
「よーーーし!ナイスボールだ!」
日置もガッツポーズをした。
「よっしゃあーーーー!とみちゃん、ラスト1本!」
「ナイスボォーーーーール!」
「きゃああああーーーー!すごいーーーー!」
「っしゃあーーーー!重富ーーーー!もう1発食らわせてやんな!」
桐花ベンチは、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
―――増江ベンチでは。
「オーノー!」
トーマスは、思わず両手で頭を抱えた。
そして重富の「作戦」に舌を巻いていた。
やっぱりこの子は、頭がいい、と。
藤波は思った。
この終盤での7点リードなら、重富は無理をしないはずだ、と。
なぜなら、そもそも重富は、守りが持ち味の選手だ。
ここはそれを徹底して活かし、時雨のミスを待つに違いない、と。
それがどうだ。
無理をしないどころか、返球はすべてミドルという、時雨の、いや、増江の裏をかいた攻撃。
そう、重富は守っていたのではなく、攻撃していたのだ、と。
「どんまい・・」
時雨は力のない声で呟くように言った。
「時雨!どんまいだよ!」
藤波は唖然としつつも、檄を飛ばした。
そして白坂も相馬も、重富の積極的なプレーを見て、もはやここまでだと感じていた。
「重富、骨があるね」
景浦は思い出していた。
あれは近畿大会を観戦しに行ったときのことだった。
景浦と時雨は、桐花学園新聞部の市原と遭遇した。
その際、自分たちは、桐花のことなど歯牙にもかけない言いぶりをした。
すると市原は「桐花は強いんです。香川で見たらびっくりしますよ」と言っていたな、と。
「ときちゃん、1本だよ」
景浦は軽く手を叩いた。
試合は20―12と、重富はいよいよラストを迎えた。
時雨は今しがたの1点で気持ちが消沈していた。
原因は、単に1点取られたわけでもなく、ラストを迎えたからでもなかった。
重富の裏をかく戦法と、それを実行する積極性。
そんな「作戦」で来るとは、微塵も思いつかなかった自分の甘さゆえだったのだ。
そして完全に心が折れた時雨の最後は、サーブミスで終わったのだ。
こうして重富は2―0で時雨を倒し、桐花が一歩リードした。
―――桐花ベンチでは。
「よしよし、重富さん、よく頑張ったね!よく取った、よく取った!」
日置はこれでもか、というくらい重富の頭をくしゃくしゃと撫でた。
重富は満面の笑みを見せながら「はいっ!」と嬉しそうに笑った。
「とみちゃん、やったな!すごかったで!」
阿部は重富の肩をポンポンと叩いていた。
「とみちゃぁん~、最高の試合やったでぇ!」
森上はラケットを持ったままそう言った。
「先輩~~~!もう~~~すごかったですけに!私、叫んでばかりでした!」
和子は水筒を重富に差し出した。
「重富、おめーーすげーーわ!いやあーーーまいった!」
中川は重富の背中をバーンと叩いた。
重富は彼女らの言葉に「うんっ!」と答つつも、あることが気になっていた。
「あの、ちょっといいですか」
重富が日置に言った。
「なに?」
「すみません、すぐに戻ります」
そう言って重富は観客席近くへ走った。
観客席の下まで来ると、重富は「畠山さん!」と呼んだ。
「え・・」
呼ばれた畠山は驚いた。
なんで私を、と。
「あんた、呼ばれてるで」
隣に座る本多は、畠山の体を軽く押した。
「え・・でも・・」
「前まで行きなさい」
戸惑っている畠山に、皆藤が促した。
「ああ・・はい」
そして畠山は立ち上がって階段を降り、最前席の横で立った。
「畠山さん!」
前に来たことを確認して、重富は手を振った。
「重富さん、おめでとう」
畠山は、まだ戸惑っていた。
「勝てたん、畠山さんのおかげやねん!」
「え・・」
「勝てるて言うてくれたやん。だから頑張れてん!」
「・・・」
「あれがなかったら、私、負けてたと思う!」
畠山は重富の言葉に思わず胸が詰まった。
自分の言葉が、あんな曖昧な言葉が、重富の力になっていたんだ、と。
「うっ・・ううう・・」
畠山は堪えきれずに涙が溢れた。
「畠山さん、泣かんといて~」
「いやっ・・うん・・うううう」
「ほんまありがとう、ありがとうな」
「重富さん・・ううっ・・」
「重富さん!」
そこへ本多も加わった。
「めっちゃええ試合やった。すごかった。おめでとう!」
本多は右手を挙げた。
「うん、ありがとう!」
重富は手を振りながら嬉しそうに微笑み、ベンチに戻って行った―――




