390 迷い
―――観客席では。
「節江よ」
和子の祖母、トミが呼んだ。
「なんなら」
「和子は何番に出るんじゃろうの」
トミは、全く試合に出ていない孫を気にかけた。
「えっと・・阿部さんのあとやけに、6番じゃったと思うよ」
「どうやら4点を先に取ったもんが勝ちじゃの」
「そうじゃ」
「ほなら、和子は出んと終わるが」
「ああ・・」
節江も確かにそうだと思った。
なぜなら、ここまで桐花は4-0か4-1で勝ち進んできた。
この増江戦もそうなるだろう、と。
したがって和子の出番はないであろう、と。
「順番が回ってこなんでも、優勝に変わりはないが」
節江が言った。
「そらそうじゃ。それにしても桐花は強いんじゃのぉ」
「ほんまよのぉ」
二人は全国優勝が目前の桐花と、そこの選手である和子を誇りに感じていた―――
―――別の観客席では。
「野間くん」
皆藤が呼んだ。
「はい」
「今の重富くんのレシーブ、どう見ましたか」
「やっと板を使いましたね」
「はい」
「それを時雨さんは、甘いツッツキで返しました」
「ええ」
「ということは、時雨さんは板に苦手意識があるということですか」
二人の会話を聞いていた畠山と本多は、思わず顔を見合わせていた。
そうだ、時雨の弱点はナックルなんだ、と。
「まだはっきりとは言えませんが、その可能性はありますね」
「はい」
「抜群のミート打ちを持っているのに、あのツッツキはあり得ません」
「はい」
「重富くん、粘りは見事なものですが、もう少し板を使うべきです」
「確かに・・このままでは苦しいですよね」
皆藤は思った。
日置くん・・
板を使えとアドバイスしてないのでしょうか・・
なぜ裏で勝負させているのでしょう・・
なにか考えがあるのですか・・
「あの・・」
畠山が皆藤に声をかけた。
「はい?」
皆藤は少し驚いて畠山を見た。
同時に野間も三神の彼女らも畠山に目を向けた。
そのことに圧倒された畠山は、気持ちが引いた。
自分の考えが間違っていたらどうしよう、と。
そして皆藤は、畠山が何も言わないことに「どうしたんですか?」と訊いた。
「あ・・はい・・」
畠山はチラリと彼女らを見た。
「遠慮なく話してください」
畠山の気持ちを察し、皆藤は優しく微笑んだ。
すると畠山は遠慮気味に口を開いた。
「あの・・えっと・・二回戦の時雨さんなんですが・・」
「はい」
「ナックルのミスが目立ってたんです・・」
「え・・」
「それで私、トイレで重富さんに会って言うたんです・・」
「なにを?」
「桐花で一番勝てるんは重富さんやと・・」
「なるほど」
皆藤は、すぐさま畠山の意を察した。
「でも私・・ナックルが弱点やと具体的には言うてないんです・・」
「そうですか」
「だから・・重富さん、勘違いしてるんやないかと・・」
「勘違い?」
「板を使ってないんで・・」
「ふむ」
「だから私・・後悔してるんです・・ちゃんと言えばよかったな・・と」
皆藤は思った。
この試合の重富くんは・・
まるで別人のようです・・
これほどまでの粘りと集中力は・・見たことがありません・・
なるほど・・
そうでしたか・・
畠山くんに「勝てる」と言われたことが・・
彼女を発奮させていたのですね・・
「畠山くん」
「はい・・」
「おそらくですが、重富くんの頑張りの原動力は、きみの言葉によるものです」
「え・・」
「よく言ってくれました。ありがとう」
皆藤は優しく微笑んだ―――
その後、試合は一進一退を繰り返した。
重富の「執念」ともいうべき粘りは、観戦者らを圧倒した。
なぜなら板の選手が殆どいなかったこの大会で、いわば「本物」を目の当たりにしたわけだ。
とはいえ、重富は板を多用したわけではなかった。
これまでの試合運びと変わることなく裏を使い、板はここぞという時に1球2球と混ぜていた。
一方で時雨は得意のミート打ちで決めるも、「忘れたころ」に板を混ぜてくる重富の戦法に、なんともいえない気持ち悪さを感じていた。
時雨自身に不調という自覚はない。
けれども「調整」が不備なまま対重富戦を迎え、若干ではあるものの、微妙にラケットコントロールが狂っていた。
そんな時雨は徐々にミスが目立ち始めたのだ。
いつも通り打っているつもりが、数センチずれてオーバーミス、あるいはネットミスもした。
こうなると本人は「あれ・・」と、少し焦りを感じる。
不調ではないのに入らない。
なぜなんだ、と。
そう、まさに時雨は重富の「作戦」に翻弄されていたのだ。
そして第1セットも大詰めを迎え、18-17で重富が一歩リードしていた。
互いのベンチでは、ここが踏ん張りどころとばかりに、大声援が送られていた。
桐花としては、重富が勝つと次の森上も勝つ可能性はけして低くない。
となると3-1で桐花は王手となる。
5番の阿部は、すでにダブルスで対戦済みの相馬が相手だ。
阿部も勝てる見込みは大いにあるのだ。
その意味で、この重富が優勝のカギを握っているといっても過言ではないのだ。
「重富さん!ここ1本だよ!」
日置は口に手を当てて叫んだ。
当然ながら、日置の頭にもその「画」が描かれていた。
優勝するためにも、まずは第1セットを取って時雨を追い詰めるんだ、と。
「とみちゃん!1本やで!」
「サーブ、考えるよぉ~~~~!」
「先輩~~~!リードですけに!」
「よーーし!重富よ!フランク時雨はビビッてやがるぜ!ここは徹底的にぶちのめしてやんな!」
彼女らもやんやの声援を送った。
―――増江ベンチでは。
「真由美ーーー!」
トーマスが叫んだ。
時雨は複雑な面持ちで振り返った。
「大丈夫でーす。いつも通りでいいでーす」
トーマスはニッコリと笑った。
「ときちゃん」
景浦が呼んだ。
時雨はそっちへ視線を移した。
「タイム取って」
その言葉に時雨はトーマスを見た。
「洋子ーー、今はタイムの時じゃありませーん」
トーマスは前を向いたままそう言った。
「監督」
藤波が呼んだ。
「なんですかー」
「タイム取りましょう」
「由美子まで、なに言ってるのー」
「いえ、このセットは大事です」
「そんなこと、わかってまーす」
「時雨は迷ってます」
「由美子」
トーマスは一転して厳しい表情で藤波を見上げた。
藤波は一瞬だけたじろいだ。
「迷ってる?それがどうかした?」
「え・・」
「こんな試合で迷ってどうしますか」
「いや・・だから」
「まったく・・仕方がないです。真由美ーー!」
呼ばれた時雨は、またトーマスを見た。
「なにか迷ってますかー!」
「え・・」
「打つべきボールを打つ。それだけでーす!」
時雨は思った。
そう・・
私は迷ってた・・
でも・・
そうだよ・・
打つべきボールを打つ・・
重富の妙な戦法なんて・・関係ない・・
私には誰も取れないミート打ちがあるんだ・・
そして時雨はコクリと頷いた。
一方で重富は思った。
やっぱり時雨は迷ってるんやな・・
ニコニコスマイルのトーマスの表情が・・
めっちゃ怖い顔になってた・・
ということは・・
余裕なんかないってことや・・
よーーし・・
このセットは死んでも取る!
そして重富は「1本!」と声を発し、サーブを出す構えに入った。
方や時雨は無言のまま前傾姿勢になった。
ここは・・絶対に必殺サーブや・・
重富はそう考え、ボールをポーンと高く上げた。
そしてラケットを複雑に動かした。
鋭い回転がかかったボールは、バッククロスの奥深くでバウンドした。
どっちだ・・
時雨は左右どっちの回転なのかと凝視したが、見破ることができなかった。
くそっ・・
時雨は一か八かでバックハンドで対応した。
するとボールはあえなくネットにかかりミスをした。
「サーよし!」
重富は渾身のガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスサーブだ!」
日置もガッツポーズをした。
「よっしゃあ~~~~!」
「もう1本やでぇ~~~~!」
「きゃあ~~~~!ナイスサーブですーーー!」
「っしゃあーーーー!どうだーーフランク時雨よーー!伝家の宝刀、必殺サーブとはこのことでぇ!」
これで19-17と重富がさらにリードした。
重富が必殺サーブを出した理由はこうだ。
まだ回転を見破れてない時雨に、ここはサーブで攻めるべきだ、と。
そう、時雨は必殺サーブに対して、うまく返せたレシーブもあったが、ミスもしていた。
ミスをするということは、回転を見破れていないことを意味する。
この大詰めで、しかも1ポイントリードされている時点で、いわば一か八かの賭けに出ないといけないわけだ。
これは相当なリスクになる、と重富はそう踏んだのだ。
下回転も入ってたんだ・・
時雨は今のレシーブを悔やんでいた。
「ときちゃん!どんまいだよ!」
「挽回するよ!」
白坂と相馬は口に手を当てて声を挙げた。
景浦は思っていた。
この重富って子・・
板のはずなのに・・8割が裏だ・・
板を使うのは2割だけど・・
まさにここぞという時に使ってる・・
このこと・・ときちゃんは気が付いてないんだよ・・
今のレシーブだって・・ちゃんと回転を見たのか・・?
いつものときちゃんなら・・あんなミスしないよ・・
鈍ってる・・腕が鈍ってるんだよ・・
「ときちゃん!しっかり!」
景浦も声を挙げた。
すると時雨は振り向いた。
景浦は、左腕で力強く素振りをして見せた。
そう、迷わずに振り抜け、という仕草だ。
時雨は「うん」と頷いてコートに向きを変えた。
一方、重富は出すサーブを考えていた。
もう1本・・必殺サーブで行くか・・
いや・・
ここは必殺サーブと見せかけて・・
板でミドルにロングサーブや・・
ほなら・・必ず時雨は迷うはずや・・
「1本!」
重富は大きな声を挙げた。
そして時雨も前傾姿勢に入った。
どんなサーブでも・・打ち抜いてやる・・
重富はボールをポーンと高く上げた。
そして落ちてきたと同時にラケットを反転させ、カーンという音を鳴らしてボールはミドルに入った。
板か・・!
時雨は迷いを振り払い、思い切りバックハンドスマッシュを打ち込んだ、つもりだった。
そう、なんと時雨は力が入り過ぎて空振りをしてしまったのだ。
「サーよし!」
おおっ・・
まさか、空振りするとは思わんかった・・
ラッキーやで!
重富は渾身のガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスサーブだ!」
日置はこれでラストとばかりに、パンパンと二拍手した。
「よっしゃあ~~~~~!ナイスサーブ!」
「いいぞぉ~~~~~とみちゃん~~~!」
「ラスト1本ですよーーー!」
「おいおい、フランク時雨よ!おめービビり過ぎだっちゅうの!」
彼女らは蜂の巣をつついたようになっていた。
―――増江ベンチでは。
「どんまい、どんまい、気にすることないよ」
藤波は手を叩きながらそう言った。
「ここから挽回だよ!」
「ときちゃん、力抜いて!」
白坂と相馬も懸命に励ました。
「真由美ーーー!」
トーマスは立ち上がって「タイムでーす」と言った。
藤波と景浦は思った。
今頃かよ、と。
頷いた時雨はタイムを取ってベンチに下がった。
「真由美」
時雨はトーマスの前で立っていた。
「はい・・」
「いつも通りでいいでーす」
「・・・」
「好きなボールだけ打つ。さっき言ったよねー」
「ときちゃん」
そこで景浦が口を挟んだ。
時雨は景浦に視線を移した。
「重富は、ときちゃんの弱点を見抜いてるよ」
「弱点?」
「ナックルだよ」
そう言われ、時雨は納得がいかなかった。
なんでナックルが弱点なんだ、と。
「2回戦でナックルのミスが多かったよね」
「え・・あ・・ああ・・」
時雨はそういえばそうだった、と思った。
そう、2回戦でのミスなど気にしていなかったのだ。
「それが尾を引いてるんだよ」
「・・・」
「だから、板のボールは慎重に返せばいい。コース狙ってね」
「うん・・」
「ときちゃんの得意なボールだけ、思い切り打てばいい」
「そうだね・・」
「時雨」
藤波が呼んだ。
「なに?」
「景浦のいう通りだ。板なんて無視すりゃいいんだよ」
「無視・・」
「そう。板を決めなくていい。裏だけ狙えばいい」
「うん、わかった」
「オーノー!僕が言いたかったこと、由美子と洋子が言うんだもーん」
トーマスはおどけた表情を見せた。
すると時雨はクスッと笑った。
「よし。時雨、しっかりな」
藤波は時雨の肩を軽く叩いた。
「撃沈だよ」
景浦はまた親指を下に向けた。
「頑張るよ」
白坂も時雨の肩を叩いた。
「そう、挽回だよ」
相馬は優しく微笑んだ。
「うん」
時雨は力強く頷いて、コートへ向かった―――




