382 丸腰の中川
中川は手にしたボールをじっと見ていた。
いいか・・お前・・
ここからが勝負だ・・
とりあえず・・やつにパワーがないことはわかってんだ・・
だからよ・・
ぜってーズボールで、空振りさせてやっから・・
お前・・曲がれよ・・
中川は藤波をキッと睨んだ。
「よーし、フランク藤波、覚悟しな!」
そして中川はサーブを出す構えに入った。
方や藤波も、眼光鋭くレシーブの構えに入った。
中川はバックコースから、バックのロングサーブをフォアストレートに出した。
そう、藤波にドライブを打たせ、早くもズボールで躍らせてやるつもりだったからである。
短い下回転で「ご機嫌を伺う」なんざ、まっぴらごめんの助、とばかりに。
すると藤波は、右腕を大きく振り下ろし、そのままボールを擦り上げた。
思った通りだ・・
フランク藤波には・・パワーがねぇぜ・・
藤波のドライブは、いわゆる女子の「それ」だった。
けれども打つタイミングがとても早い上に、返球のコースも厳しく、ボールはフォアクロスの深いところでバウンドした。
舐めてもらっちゃあ困るってもんよ!
中川は全速力でボールを追いかけた。
「行けーーーー行けーーーー!」
桐花ベンチから声が挙がった。
言われねぇでもわかってらあな!
中川は懸命に走った。
そしてボールを捉えた。
食らえええ~~~~~!
中川は、床スレスレのところでラケットを複雑に動かした。
ポーンと高く上がったボールを、中川と藤波は無論のこと、桐花と増江ベンチも、観客席の者たちも凝視していた。
そしてボールはミドルでバウンドした。
どっちだ・・
警戒した藤波だったが、ここは「賭け」に出ると決めた。
なぜなら、中川の性格からすると、自分に空振りさせたいと思っているに違いない、と。
左に曲げてツッツかせるというような、「ヤワ」なことはしないはずだ、と。
ならばボールは右へ曲がるはずだ。
それを知ってか知らずか、中川は「右だぜ」と心の中で唱えていた。
そして藤波の「醜態」をこの目で見てやるぞ、と。
ところがどうだ。
まるで回転が見えているのか、といわんばかりの藤波は、抜群のタイミングでボールを捉え、バックストレートへ矢のようなスマッシュを放ったのだ。
なにっ・・!
当然、空振りをすると思っていた中川は、その場で立ち尽くしたまま動くこともできなかったのである。
「よし」
藤波は顔色一つ変えずに、当然だといった表情を見せた。
「由美子ーーナイスボール!」
トーマスはパチパチと手を叩いて喜んでいた。
そして彼女らも、何事も無かったかのように「よーし」と言うだけだった。
中川は愕然とした。
伝家の宝刀、ズボールが通用しないとなると、勝目はない、と。
やつは・・
ボールの回転が見えてんだ・・
なんなんだ・・藤波ってのは・・
こいつ・・三番手なんだろ・・
中川は思っていた。
サーブを取るのは難儀だが、ラリーならなんとかなる、と。
けれどもどうだ。
ズボールすら通用しないとなると、ある意味「正攻法」で戦うしかない。
藤波にはパワーはないが、ボールを捉えるタイミングの早さに加え、送るコースは厳しい。
そこにあのストップを混ぜられたら、いずれこっちのスタミナが切れる、と。
―――桐花ベンチでは。
「ズ・・ズボールが・・」
阿部も愕然としていた。
「う・・嘘やろ・・」
それは重富も同じだった。
「まさかぁ・・回転が見えるはずがないと思うんやけどなぁ・・」
森上は奇しくも言い当てた。
「中川先輩・・」
和子は中川の心境を思うと、胸が張り裂けそうになっていた。
一方で、日置はどうアドバイスすればいいかと困惑していた。
もし・・
回転が見えているとしたら・・
返球が高くなる特徴のズボールは・・
チャンスボールでしかない・・
ここは・・引き離されないためにも・・
ラリー展開に持っていくしかない・・
「中川さん」
日置が呼んだ。
中川は黙って振り向いた。
「タイム取って」
中川は何も言わずにコクリと頷いた。
その様子を見た阿部らは、中川の心境を見る思いがした。
頼むから「邪魔すんな、うるせぇょ」くらい言ってくれ、と。
あんたは暴走してなんぼやで、と。
ベンチに向かって歩を進める中川を、彼女らは何とも言い難い思いで見ていた。
そして中川は日置の前に立った。
「ここは苦しいけど、ズボールは封印だ」
日置の言葉に中川は何も答えなかった。
そこで彼女らはさらに思った。
違うやろ、と。
「なんでだよ!」じゃないのか、と。
「あの・・先生・・」
阿部が口を開いた。
「なに?」
「ズボール・・封印て・・」
阿部は他に策があるのかと言いたかった。
「ここは我慢するしかないよ」
「打たれたいうても・・1球だけですし・・」
「これ以上離されると、さすがにきつくなる」
今は6-0で藤波がリードしている。
このあと中川が4点取って挽回したとしても、そこでサーブチェンジだ。
すると「あの」サーブが待っているのだ。
日置はそのことを言った。
「そう・・ですか・・」
阿部もそう答えるしかなかった。
―――一方で亜希子は。
ああ・・愛子・・
ズボールを打たれてしまったわ・・
亜希子はロビーの入り口から、コートを見ていた。
そしてベンチへ行こうかどうしようかと迷っていた。
あっ・・
タイムを取ったわ・・
それにしても愛子・・
なによ・・
その表情は・・
そんなので・・どすえ野郎に勝てるはずがないわ・・
こう思った亜希子は、フロアへ足を踏み入れた。
そしてまるで忍者のように、コソコソとフロアの端を小走りで駆けた。
そう、まるでクノイチのように。
「え・・」
亜希子の滑稽な姿に気が付いたのは和子だった。
「どうしたの?」
日置が訊いた。
「あそこ・・先輩の・・」
和子が指をさすと、日置も彼女らもそこへ目を向けた。
けれども中川だけは、このやり取りが耳に入ってなかった。
ずっと一点を見つめて、ズボールなしでどうすればいいかと考えを巡らせていた。
「おばさんやん・・」
「ほんまや・・」
「なにしてはるんやろぉ」
そして亜希子は、スリッパの音をペタペタと鳴らしながら、やがてコート近くまできた。
「お母さん、どうされたんですか」
日置は、半ば唖然としながら訊いた。
「愛子!」
亜希子は日置を無視して呼んだ。
すると中川は亜希子に気が付いた。
「か・・かあちゃん・・」
中川も唖然としていた。
「あんた、なにやってんのよ!」
「え・・」
「なによっ、その顔は!」
「なにって・・」
「まあまあ、お母さん」
日置が制した。
「あんたね、これ聴きなさいよっ!」
亜希子はバッグからウォークマンを取り出した。
「おめー・・なに言ってんだ・・」
「なにって、三島くんの曲に決まってるでしょ!」
そこで中川は、ウォークマンを亜希子に渡したことを思い出した。
「今は曲を聴いてる暇なんざ、ねぇんだよ」
「だったら、頑張りなさいよっ」
「っんなこたぁ・・わかってんだよ」
ダメだわ・・
まったく元気がないじゃない・・
「あの、お母さん」
日置が呼んだ。
亜希子は日置に目を向けた。
「お気遣いは大変ありがたいんですが、曲を聴いている時間はないんです」
「ええ・・わかっているんですが・・」
そして亜希子は、また中川を見た。
「いい?しっかりさなさいっ」
「・・・」
「私はあんたをそんな弱い子に産んだ覚えはないわっ」
「もういい・・上へ行っててくんな・・」
「愛子・・」
「あのー」
そこで主審が桐花ベンチに声をかけた。
「はい」
日置が返事をした。
「タイムの時間、長すぎますよ」
「ああ、ごめんね。すぐに行きます」
そして日置は中川の肩に手を置いた。
「いいね。ここは我慢だ」
「おうよ」
「さっ、しっかり!」
日置は肩をポンと叩いた。
「中川さん、しっかりな!」
「こっから挽回やで!」
「まずは1本やでぇ!」
「先輩!大丈夫ですけに!」
彼女らも懸命に励ました。
そして中川はコクリと頷いてコートに向かった。
「あの、お母さん。どうぞ観客席で見守ってやってください」
日置がそう言った。
「え・・ああ・・はい」
中川の後姿を見ていた亜希子は、日置に目を移した。
「中川は大丈夫です。きっと挽回します」
「そうですか・・」
「おばさん、大丈夫ですよ」
「そうです。中川さんは弱い子やないです」
「誰よりもぉ、強くて逞しい子ですぅ」
「先輩らの言う通りですけに!」
彼女らの言葉に、亜希子は優しい眼差しを向けた。
「うん、あなたたち、ありがとうね。じゃ、先生、よろしくお願いします」
亜希子は一礼してコートを離れた。
けれども亜希子は思った。
先生とあの子たちは・・ああ言ってたけど・・
あの落ち込みようからすると・・
すぐには立ち直れないはずよ・・
もたもたしてると・・
ほんとに負けちゃうわ・・
ああ・・どうしたらいいのかしら・・
やがてロビーに出た亜希子は階段へ向かう途中、ある部屋が目に入った。
え・・放送室・・
そう、そこは全館に向けて放送をかける部屋だった。
亜希子は窓から少し中を覗いて見た。
すると部屋には誰もいなかった。
そこで亜希子はなにを思ったか、ドアを開けて中へ入って行ったのだった―――




