38 前向きな阿部
病院に到着した日置は、検査の結果、特に大した病状ではなかった。
栄養が偏っていることが影響し、抵抗力が低下していた。
そこに、風邪の菌にやられたというわけだ。
日置は注射も打ってもらい、今は処置室で点滴を受けていた。
「慎吾ちゃん・・」
日置に付き添って救急車に同乗した大久保は、日置の傍らで座っていた。
「菓子パンばかり食べてるからよ・・」
大久保は、小島に報せるべきかどうか迷ったが、特に大したことはないし、報せたところで心配をかけるだけだと判断した。
「う・・」
そこで日置が目を覚ました。
「慎吾ちゃん、まだ寝てた方がええわよ」
「あ・・虎太郎・・」
「もう~心配させてからに」
「ここ・・病院なの?」
日置は、処置室を見回していた。
「そうよ~、っんもう~救急車で運ばれたんやんかいさ~」
「そう・・」
「阿部ちゃんがね~試合場から電話して来たんよ~」
「あっ・・そうだ、僕、行かないと」
日置は、無謀にも起き上がろうとした。
「あほっ。こんな状態で行けるわけないやろ~」
大久保は手で、それを制した。
「でも、あの子たちの試合を」
「心配せんでも、私が行ったげる」
「え・・」
「だから、慎吾ちゃんは点滴が終わったら、タクシー呼んで家に帰って寝ることよ~」
「でも・・あの子たちの試合を見ないと・・」
「あのさ~慎吾ちゃん」
「なに?」
「阿部ちゃんも、森上ちゃんも、まだ始まったばかりやないの」
「だから・・」
「せやから、慌てんでもええのよ~。私が行ったげる言うてんねやから、大人しくしときなさい~」
「そっか・・迷惑かけるね・・」
「なにが迷惑なもんかいな~、今度、奢ってくれたらそれでええのよ~」
そして日置は疲れたのか、また目を閉じて眠った。
大久保は、日置の寝顔を見ながら、なんとも切ない気持ちになっていた。
ダメだと思いつつも、大久保は日置の唇にキスをした。
これは私へのご褒美・・
そう思ってもいいわよね・・慎吾ちゃん・・
小島ちゃん・・許してね・・
そして大久保は、そのまま体育館へ向かったのである―――
体育館に到着した大久保は、電話をかけて安住を呼び出した。
「大久保さん、電話に行ったきり、帰って来んと、どこをうろついてるんですか!」
「あんたっ、私な、今体育館に来てるんや。だから、練習が終わったら、私の荷物、持って来ぃや!」
「え?体育館て・・なにしてるんですか」
「お嬢ちゃんたちの試合やないの~」
「なんで大久保さんが」
「ごちゃごちゃうるさい!ええな、わかったか!」
「わかりましたよ。ほな今日の練習は、せんってことですね」
「そうや!」
そう言って大久保は電話を切った。
さあさあ~お嬢ちゃんたちが待ってるわ~・・
大久保は、フロアの中へ入って行った。
―――12コートでは。
今、まさに阿部の試合が始まろうとしていた。
阿部は森上に、日置の緊急事態を告げると、森上も酷く心配していた。
けれども、大久保が引き受けてくれたことで、自分たちは試合に集中することを決めた。
阿部の対戦相手は、なんと一回戦から三神の菅原という選手だった。
阿部は『卓球日誌』を読んでいるので、三神の強さは知っていたが、何がどう強いのかは実感としてわからなかった。
ちなみに今大会は、一年生大会とあって、全選手が抽選で決められているのでジードはなかった。
菅原は、裏ペンの前陣速攻型だった。
やがて3本練習が始まったが、菅原のボールも、阿部は打ち返していた。
これも、フォア打ちの基礎をやった賜物だ。
「ジャンケンしてください」
主審の福田が告げた。
この選手も三神だ。
副審には、森上がついていた。
ジャンケンに勝った菅原はサーブを選択した。
「ラブオール」
主審がそう告げると、菅原は三神の習わしであるところの、両審判に頭を下げ、ベンチに頭を下げ、最後に阿部に頭を下げて「お願いします」と言った。
阿部も「お願いします」と頭を下げた。
桐花ベンチには誰もいないが、三神ベンチには、チームメイトと、先輩である青田と久坂が見守っていた。
この青田と久坂は、現在三年生であり、エースと二番手だった。
「先、1本ですよ」
青田が声をかけた。
三神は、試合中は先輩後輩関係なく、丁寧語で話すのだ。
「1本」
菅原は小さな声を発した。
阿部も負けじと「1本」と言った。
阿部の構えは、とても初心者とは思えない、落ち着いたものだった。
本部席で見ている皆藤は、阿部の様子を見て「ほう」と感心していた。
けれども試合が始まると、阿部は菅原に「化けの皮」を、直ぐに剥がされた。
菅原の出すスピードの乗ったサーブを、阿部は返すものの、悉く三球目を決められ、全くラリーが続かなかった。
点を取るたびに菅原は「サーよし」と小さな声を発していた。
やがて5-0でサーブチェンジしたが、構えこそ一人前の阿部だが、サーブの種類も下回転とロングサーブだけの阿部が、菅原に通用するはずもなかった。
あかんな・・
全部打たれてる・・
「阿部ちゃん~しっかりね~」
後ろで大久保の声がした。
阿部が振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。
あ・・
電話の声の人や・・
この人・・桂山化学の人なんやな・・
先生を病院に連れてってくれはったんや・・
だから・・ここに来はったんやな・・
「はいっ」
阿部はニッコリ笑って返事をした。
「そうそう~こっからよ~」
大久保が応援するも、阿部は菅原に翻弄されっ放しだ。
とにかくラリーが続かないのだ。
それでも菅原は、徹底して阿部を攻め続けた。
コースも常に厳しいところ、阿部のいないところへ叩きつけていた。
「ふむ・・」
本部席で皆藤が呟いた。
横に座る三善が皆藤を見た。
「どうされました」
「いえ、なんでもありませんよ」
皆藤は、この時点での阿部は大したことがないと思ったが、菅原の出す複雑な難しいサーブを、ミスはするものの、阿部はミスをした後に必ず指で回転の方向を確認していた。
日置不在の中、曲がりなりにも三神を相手に怯むことなく、しかも回転を確認するという冷静さを保っている阿部に、メンタルは強く、今後は侮れないと思っていた。
そして阿部は、1セット目、21-3で負けた。
ベンチに下がった阿部は「初めまして」と大久保に挨拶をした。
「初めまして~、大久保と申します~」
「阿部です。先生はどうですか」
「大丈夫よ~、阿部ちゃんが連絡をくれたから、今は病院で点滴を打ってるわ~」
「そうですか。安心しました」
「まあ、風邪のきついやつよ。少し休めばすぐによくなるわよ~」
「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」
「いいのよ~ん。それより阿部ちゃん、次のセット、頑張らんとあかんよ~」
「はいっ」
「相手は三神やし、強すぎるけど、今の阿部ちゃんが持ってるもの、全部出せばええのよ~」
「私、まだフォア打ちしか出来ないんです」
「ええやないの~卓球の基本よ~、それで十分よ~」
「はいっ」
「じゃ、徹底的に叩きのめしておいで~」
阿部は、その言葉は日置の信条だと知っていた。
「はいっ」
そして2セット目が始まったが、戦況が好転することはなかった。
阿部は、2セット目もコテンパに叩きのめされ、21-4で完敗した。
それでも阿部は、一切、落ち込むことなどなかった。
自分はまだ、なにも身に着けていないに等しいのだから、負けは当然である、と。
けれども開き直っているのではない。
阿部とて勝ちたい気持ちはある。
でもそれは、今ではない。
全ては、今後の練習次第だと、冷静に自分を分析していた。
負けた阿部は、そのまま審判についた。
コートから下がった森上は、大久保の元へ行った。
「あんたが、森上ちゃんね~私は大久保です~」
「はいぃ。初めましてぇ」
「背、高いね~」
「先生はぁ~どうなりましたかぁ」
「心配いらんわよ~、単なる風邪よ~」
「先生ぇ、病院ですかぁ」
「そうよ~、点滴が終わったら、家に帰って休むわ~」
「そうですかぁ、よかったですぅ」
「阿部ちゃんは負けたけど、森上ちゃん、頑張らんとあかんよ~」
「はいぃ~頑張りますぅ」
「どうも・・」
そこに植木がやって来た。
「あらまっ、植木ちゃんやないの~久しぶりやねぇ~」
植木は、まさか大久保が来てるとは知らず、12コートへ向かう途中、大久保の姿を見つけて戸惑っていた。
なぜなら植木は大久保に、過去、何度も「威嚇」され続けたからだ。
「あの、大久保さん」
「なによ~」
「日置監督、どうしはったんですか・・」
「あんたには関係ないのよ~」
「え・・なんかあったんですか」
「なにもないわ~、それ以上訊くと、どうなるかわかってるんやろね~」
大久保は、両手を挙げて植木の頭を押さえようとした。
「訊きません、訊きませんから」
植木は後ずさりした。
―――一方、桂山の体育館では。
「安住、大久保、なんやったんや」
電話から戻った安住に、遠藤が訊いた。
「なんか知りませんけど、今、府立の別館にいてるらしいです」
「ああ・・今日、試合やったな」
「練習終わったら、荷物持って来い!言うて、大久保さん、今日の練習は休むらしいです」
「なんでやねん」
「さあ、日置さんがいてるからとちゃいますか」
「あいつ、もうすぐ実業団があるん、知っとるやろ」
「まあ、大久保さんにしたら、実業団より日置さんですよ」
「まったく・・どないもしゃあないやっちゃな」
この会話を聞いた彼女らは、日置がとんでもないことになってるとは知らず、大久保のことだから、気持ちのまま行ったのだろうと理解していた。
けれども浅野は変に思った。
なぜなら、体育館へ行くにしても、まさか自分の荷物まで放り出して行くのか、と。
それと、体育館までの運賃はどうしたのだ、と。
大久保は、Tシャツと短パンの上にジャージの上下を着ただけだ。
お金など、持ってるはずがない、と。
そこで浅野は「ちょっと事務室へ行ってきます」と言って、体育館を出て行った。
事務室に着いた浅野は、男性に「大久保さん、なんの電話やったんですか」と訊いた。
「なんや、えらい慌てた様子でな。ほんで僕に「金を貸せ、タクシー呼べ」言うて、出て行ったで」
「え・・」
「なんかあったんやと思うで」
「電話の相手は、誰やったんですか」
「なんか、阿部とかいう若い女の子やったで」
阿部・・いうたら、阿部さんやん・・
何で阿部さんが・・ここに電話を・・
「そうですか。ありがとうございました」
浅野は礼を言って、事務室から出た。
これはおかしい・・
緊急事態発生や・・
そして浅野も、府立の別館へ向かおうと決めたのだった。




