377 布石
台についた四人は、一歩も譲らないといった表情で互いを見ながら構えていた。
「1本!」
阿部はサーブの構えに入り、気合の入った声を挙げた。
恵美ちゃんの作戦通りに・・
恵美ちゃんが・・実行するまで・・
私は死んでもボールを繋ぐんや・・
よーし・・
そして阿部は、ナックルのロングサーブをミドルに出した。
舐めるなよとばかりに白坂は、すぐに足を右へ動かし、抜群のタイミングで鋭いバックハンドで対応した。
フォアの厳しいコースに入ったボールに、森上は当然のように追いつき、少し後ろへ下がって渾身の力を込めてボールをこすり上げた。
ビュッ!
まさに音が聞こえきそうなフルパワーのボールだ。
「おおおおおお~~~~~!」
館内は歓声でどよめいた。
すごいぞ、と。
そこで観客席の野間は、何気に皆藤を見た。
すると皆藤の右手の握り拳は、明らかに力が入っていた。
バックストレートに入ったボールに、相馬は回り込みに間に合わず、苦し紛れのバックハンドで対応するしかなかった。
そう、ミドルかと思えばフォア、あるいはバックへと相馬の動きを見て瞬時に打ち分ける森上の術中に嵌っているがための、今しがたのバックハンドなのだ。
阿部は今度こそ「チャンスボール」を見逃すまいと、回り込んで構えた。
阿部さん・・
力を抜いて・・
いつも通りに打つんだよ・・
日置の握り拳にも力が入っていた。
そして阿部は渾身の力を込めて、バッククロスにスマッシュを打ち込んだ。
パシーン!
この対戦で阿部が初めて放った抜群のスマッシュだった。
舐めんじゃないわよ!
こう思った白坂だったが、コースギリギリを狙われたボールは、白坂のラケットを通り過ぎて後ろへ飛んで行った。
「サーよし!」
阿部と森上は力強くガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスボール!」
日置はパーンと一拍手した。
「っしゃあ~~~~~!チビ助~~~~もう一発食らわせてやんな!」
「よっしゃあ~~~~ナイスボール!」
「きゃあ~~~先輩!もう1本ですよ!」
彼女らもやんやの声援を送った。
阿部は今しがたのスマッシュが決まったことで、森上の「作戦」にさらなる自信が湧いてきた。
「千賀ちゃぁん、ナイスボールやでぇ」
森上はニッコリと笑った。
そして森上も「作戦」はきっと上手くいくと確信していた。
―――増江のコートでは。
白坂は、相馬の返球がネックになっていると困惑した。
「くそっ・・」
相馬は不甲斐なさからそう言った。
「相馬ちゃん」
「なに・・」
「合わせるだけの返球はマズイよ」
「わかってる・・」
「今ので阿部は、ちょっと息を吹き返したはずだよ」
「・・・」
「阿部を完全復活させたらマズイ。コースを狙おう」
くそっ・・
森上ってのは・・なんなんだよ・・
ボ~っとしてるように見えるのに・・
常に私の逆を突いてくる・・
でも・・
白坂ちゃんが言うように・・
コースを狙えばいいんだ・・
決まったといっても阿部のスマッシュは一球だけだ・・
「うん、わかった」
相馬は気を取り直してそう言った。
―――桐花ベンチでは。
「森上の作戦ってのは、何が何でもチビ助に決めさせるってことだったのかね」
中川は森上の「しーっ」という仕草を見て、何か策があるのではと感じ取っていた。
「どうなんやろ・・」
重富は、まだわからずにいた。
いや、中川にも「作戦」なるものがわかるはずもなかった。
なぜなら、まだ実行していないからである。
「今の阿部さん、よかったよね」
日置が言った。
「おうよ!本来のチビ助に戻ったなら、ダブルフランク野郎なんざ、屁でもねぇやな」
中川は腕を組んで、コートを見ていた。
「こらあ~~~愛子!」
観客席から亜希子が突然叫んだ。
「なっ!」
中川は振り向いて、慌てて観客席を見上げた。
そして日置も重富も和子も、何事だと見上げていた。
「あんた、なにやってんのよ!」
亜希子は最前列に座っていた。
「は・・はあ?」
「あんた、次でしょ!」
亜希子は二番のシングルのことを言った。
「それがなんだってんでぇ!」
「体を動かしなさいよ!」
亜希子はウォーミングアップのことを言った。
「なっ・・」
「慢心は堕落の始まりよっ!」
なんと、日置が愛豊島の監督、手塚に忠告した際に放った言葉を亜希子は口にしたのだ。
「わっ・・わかってらぁな!」
痛いところを突かれた中川は、バツが悪かった。
いや、慢心したわけではない。
けれどもウォーミングアップを怠っていたことは確かだからだ。
そこで中川はチラリと日置を見た。
すると日置は「ププ」と笑っているではないか。
「なっ・・先生よ、笑ってんじゃねぇぞ」
「でも、おばさん、すごいな」
重富は、素人である亜希子がアップに気が付いたことに感心していた。
「私は今から始めようと思っていたところさね」
中川はそう言ってラケットをバッグから取り出した。
―――増江ベンチでは。
「うーん」
トーマスが呟いた。
それをチラリと藤波が見た。
「智子、嫌がってるね」
智子とは相馬のことである。
「森上に逆を突かれてますからね」
「あの子、上手いよねー」
トーマスは森上のことを言った。
「そしてとてもビューティフル」
藤波は、森上がトーマスの好みだということもわかっていた。
なぜなら、婚約者である増江高校の女性教師は、まるで「おたふく」のような顔をしているからだ。
一方で、何を呑気なことを言ってるんだ、と呆れもした。
「白坂、相馬」
藤波が呼んだ。
二人は振り向いて藤波を見た。
「ここ1本だよ」
二人は黙ったまま頷いた。
「智子ー」
トーマスが呼んだ。
「なにも気にしなくていいでーす。必ずベイビーがミスをしまーす」
「ベイビー・・」
相馬は呆れていたが、阿部のことだとすぐにわかった。
トーマスはそう言ったものの、その実、森上の「妙技」に相馬は対応できないと思っていた。
したがって、ここで細かくアドバイスするよりも、精神的に委縮することを避けたかったのだ。
そう、思い切り開き直れ、と。
―――コートでは。
「1本!」
阿部がサーブを出す構えに入り、大きな声を挙げた。
森上はこの時も、相馬の立ち位置をずっと見ていた。
そして阿部は、ネット前に下回転の小さなサーブを出した。
どこへ返せば・・
森上を封じ込められるかだ・・
白坂は思っていた。
森上と相馬のラリーは、常に相馬が受け身だ。
よって、相馬の力はまだ万全に出せていない。
どうすればいいのか、と。
そして白坂は、送るコースを迷っていた。
ここは・・
ストップするしかないか・・
そして白坂は、バック前にチョコンとストップをかけた。
これは誰が見ても見事なストップだ。
さすがの森上でもストップ、或いはツッツキで返すしか手がないはずだ、と。
けれども森上はすぐさま回り込み、打つ体勢に入った。
無理だよ・・
あれはフェイクだ・・
白坂は、そう「高を括った」。
同様に相馬もフェイクだと思った。
そして相馬は台についたまま構えた。
ところがどうだ。
森上は大きな体を小さくして目線をボールまで落とし、ストップすると見せかけた瞬間、素早くラケットを返してバックの厳しいコースに叩いて入れたのだ。
えっ・・
嘘だろ・・!
焦った相馬だったが、ボールはすでに床に落ちていた。
「サーよし!」
阿部と森上は顔を見合わせて、力強いガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスボール!」
日置はパンパンと手を叩いていた。
「ダブルフランク野郎!森上を舐めてもらっちゃあ困るってもんよ!」
「よっしゃあ~~~~ええぞ~~~!」
「森上先輩~~~!ナイスです!」
これで12-10となった。
白坂はあり得ないレシーブに呆然としていた。
「相馬ちゃん」
白坂が呼んだ。
「なに・・」
「森上って・・あんなボールも打ってくるんだ・・」
「・・・」
「まさに、攻撃の鬼だよ」
今しがたの森上のレシーブは、作戦を遂行するための布石だったのだ。
そして次のラリーで作戦を実行すると、森上は決めていた。
阿部は思っていた。
恵美ちゃん・・
あんたは・・ほんまにすごい・・
私が恵美ちゃんのようなすごいプレーヤーと組めてるなんて・・
うん・・
ここで私が頑張らなな・・
そこで森上は視線を感じたのか、阿部を見た。
「千賀ちゃぁん、どうしたぁん」
森上は何とも愛くるしい笑顔で、そう訊いた。
「あはは、なんでもないで」
阿部は森上の肩をポンと叩いた―――




