372 「呪文」の使い道
―――「先輩」
観客席の階段を上がったところの通路で、藤波を見つけた朱里が小走りで駆け寄った。
「なに」
「監督・・なんか変なんですよ」
「変ってなんだよ」
「なんか・・呪文がどうのとか言ってまして・・」
「呪文?」
「はい・・」
「それ、いつのことだよ」
「私が試合を終えて、ベンチにいた時のことです」
「ってことは、他の子はまだ試合中だよね」
藤波は、3番と4番のことを言った。
「そうです」
「呪文・・ねぇ・・」
「あ、それと、私が試合中、ベンチに変なおばさんが座ってました」
「変なおばさん?」
「知らない中年のおばさんでした」
「なんだよ、それ」
藤波は少し呆れつつも笑っていた。
「でも、気が付いたらいませんでした」
「そっか」
「先輩、頑張ってください」
朱里は決勝戦のことを言った。
「わかってる」
藤波は、呪文のことも「変なおばさん」のことも、さして気に留めなかった。
トーマスのことだ、また早とちりでもしたのだろう、と。
どんなことであれ、一旦興味を持つと、しつこく訊く癖があるのがトーマスだ。
「それはなんですかー」
「どうしてそうなりますかー」
自身が理解するまで何度も訊くが、中には誤解したままということも珍しくなかったからだ。
それにトーマスは、誰にでも声をかける癖もある。
「変なおばさん」も、きっとここで声をかけたに違いない、と。
トーマスならベンチに招いても不思議ではないぞ、と。
―――「みんな、行くよ」
試合時間が迫り、観客席に座っている彼女らを藤波が呼んだ。
四人は振り向いて立ち上がった。
「さーて、行きますか」
白坂を先頭に、相馬、時雨、景浦も続いた。
そして五人はゆっくりとロビーに続く階段へ向かった。
この様子を見ていた皆藤は、景浦の背の高さと体格のよさに嫌な予感がしていた。
「先生」
野間が呼んだ。
「なんですか」
「一番後ろの子・・森上さんより大きいですね」
「そうですね」
「パワーもありそうですね・・」
「森上くんなら、負けませんよ」
皆藤はそう言ったものの、それは「願い」のような気持ちだった。
日置くん・・
二年前・・
私はきみに・・言いましたね・・
後輩を育てて・・必ず全国優勝しなさい、と・・
頼みますよ・・
是非とも・・
全国制覇を成し遂げなさい・・
―――日置ら一行は。
「さて、コートに行くよ」
日置がそう言うと、彼女らは真剣な表情で頷いた。
そしてフロアへ入ろうとした時だった。
「愛子~~~!」
亜希子が慌てて階段から下りて来たのだ。
「かあちゃん!来んなって言ってんだろがよ!」
中川はすぐさま噛みついた。
「なに言ってんのよ!娘の決勝戦なのよっ。声くらいかけたいじゃない」
阿部らは苦笑しながら亜希子を見ていた。
「お母さん、ありがとうございます」
日置はニッコリと笑って一礼した。
「先生~~あなたたち、頑張るのよ~~!」
亜希子は右手でガッツポーズをした。
「もういいから、上に行ってな!」
「愛子、お守り持ってるの?」
「ああ、持ってる、持ってる」
「どこに?」
「どこだっていいだろうがよ!」
「ダメダメ、ちゃんと短パンのポケットに――」
「もういいって!先生、おめーら、済まねぇが先に行っててくんな。私はこのババアを席に連れて行く」
「まあ~~ババアってなによーー!」
「中川さん、すぐにね」
日置は苦笑しながら阿部らと共に中へ入って行った。
「ちょっと、愛子、ババアってなによっ」
「もう、おめーいいから、上へ行ってな!」
「ふんっ、いいこと教えてあげようと思ったのに」
中川は、一瞬、大河のことかと思った。
なぜなら観客席では、亜希子は大河の隣に座っていたからだ。
そして「いいこと」という言葉に、中川は期待した。
「いいことって・・なんでぇ・・」
「あのさ・・」
「うん・・」
「トーマスことさね・・」
亜希子は中川の言いぶりを真似た。
「は・・はあ?」
中川はあまりの期待外れに、唖然とした。
「あの嘘つきトーマス、許せないわっ」
中川は唖然としつつも「嘘つき」が気になった。
「嘘つきってなんだよ」
「お母さんさ、180cmの女の子はどうしたのよって訊いたのに、知りませーんってとぼけるから、私も嘘を言ってやったのよ」
「おめー、それどこで訊いたんだよ」
「増江のベンチよっ」
「えっ」
「トーマスが座れって言うもんだから、お母さんベンチに座ったのよ、あはは」
「おめー、下に来てやがったのかよ!しかもベンチってなにやってんでぇ!」
「それはいいの。でね、トーマスったらさ、十二支のこと知らなかったみたいでね、あれはなんですかーって訊くから、呪文さね、って言ったやったのよ」
「え・・」
中川は思った。
さっき外で会った時、トーマスは呪文のことを口にしていたぞ、と。
そして一点を見つめたまま、「そーですかー・・」と心ここにあらずだったぞ、と。
あっ!
そうか・・
トーマスは十二支のことを言ってやがったんだ・・
「で、かあちゃんよ」
「なによ」
「トーマスは十二支のこと、呪文だって信じたままなのかよ」
「そうよっ。私、言ってやったの。せいぜい考えな・・ってね!」
「ほーう、なるほどさね・・」
中川は右手の親指と人差し指で、顎を擦った。
「う~ん、マンダーム」
亜希子は、1970年に日本の男性化粧品『マンダム』のCMに出演した、アメリカの俳優、チャ―ルズ・ブロンソンの所作のことを言った。
ブロンソンは、化粧品を顔や体につけたあと、顎を擦りながら感慨深げに「う~ん、マンダム」と言うのだ。
これは当時、大流行し、子供でも真似るほどだった。
「なっ、なに言ってんでぇ!」
「でもさ、どこを探しても大きい女の子がいないのよ」
そう、亜希子はその後も景浦を探していたのだ。
「おめー、なんでその女、探してたんだよ」
「だってさ、実力を確かめてやろうと思ってね」
「なんでだよ」
「桐花に勝ってほしいからに決まってるでしょ!」
「え・・」
「お母さんさ、わからないなりにも、あんたに報せようと思ってたのよ」
「・・・」
「ほら、どうやって打つとか、どうやって動くとかあるでしょ」
「そうだったのか・・」
中川は思った。
これまでウザくて仕方がなかったが、母親は母親なりに、自分たちのことを想って動いていたんだ、と。
「うん、かあちゃん、わかった」
「なにが?」
「私、頑張るからよ」
「あんた、さっきは負けたけど、あんなの屁でもないわっ」
「うん」
「次は頑張るのよ。絶対に優勝よっ!」
「おうさね!」
そして中川は右手を高く上げて、フロアへ向かった。
愛子・・
しっかりね・・
お守りがあるんだから・・
絶対に勝てるわ・・
亜希子は中川の後ろ姿をずっと見送っていた。
―――フロアでは。
「先生、おめーら、待たせて済まねぇ」
中川は走ってコート後方に到着した。
「お母さんは観客席に行かれたの?」
日置が訊いた。
「おう」
中川はそれしか言わなかった。
日置も阿部らも、中川の返事に少し疑問を持ったが、これ以上は訊かなかった。
その実、中川の頭には「呪文」のことがあったのだ。
そう、これは使えるかもしれない、と。
とはいえ、トーマスが試合をするわけではない。
けれどもトーマスは監督であり、いわば司令塔だ。
その司令塔が平常心を保てなかったとしたら、選手に与える影響がないはずがない、と。
試合は競り合えば競り合うほど、監督の指示が絶対である。
その監督が崩れたらどうだ。
間違った指示も出すかもしれないぞ、と。
どこでどう使えばいいかだ・・
考えろ・・考えろ・・
おのれ~~・・どすえ野郎・・
ぜってーぶっ倒してやるからな!
「中川さん、中川さん」
阿部は何度も中川を呼んでいた。
「なんでぇ」
「あんた、なに考えてんのよ」
「ふっ・・チビ助よ」
「なによ・・」
「まあ、そう慌てるんじゃねぇ」
「いや、慌ててないし」
そこへ、コートの向こう側に増江の一行が現れた。
「ふんっ、やっと姿を現しやがったか」
藤波たちは泰然自若とし、まるでもったいぶっているかのように歩を進めていた。
「あれが恵美ちゃんより大きい子か・・」
阿部は景浦の大きさに、半ば唖然として呟いた。
「ほんまに・・おったんやな・・」
重富は、まるで怪物を見る思いだった。
「確かに大きいですね・・」
和子が言った。
けれども森上は、なにも口にしなかった。
日置は思った。
確かに森上さんより大きい・・
パワーも十分あるに違いない・・
でも卓球は駆け引きのスポーツだ・・
あの子は未知数であるが・・
他の子だって同じだ・・
とにかく・・真城を倒したことは事実・・
ここは締めてかからないと・・
「けっ、もったいつけやがって、何様のつもりでぇ」
中川は吐き捨てるように言った。
「あの帽子・・なんなん」
重富がポツリと呟いた。
そう、藤波らはこの暑いのに黒のニット帽を被っていた。
そして彼女らはバックを置いて、ニット帽を外した。
するとどうだ。
彼女ら五人全員が、七三わけの髪形をしていたのだ。
たとえるなら、昭和を代表するサラリーマンのようだ。
「あははは、おめーら、その頭はなんでぇ!ムード歌謡かよ!」
中川は爆笑していた。
日置と阿部らは、その髪形にまた唖然としていた。
けれども中川の言葉を、藤波らは気にも留めなかった。
それどころか、嘲笑するかのように桐花ベンチを見ていた。
「まずは、あいつだ」
藤波は中川のことを言った。
「だね」
「試合が終わるころには、泣きべそをかいてるよ」
「阿部は?」
「論外だよ」
「重富は?」
「論外」
「じゃ、森上だね」
「ぶっ潰すよ」
そしてトーマスは遅れて到着し、何も言わずに椅子に座った。
「監督」
変に思った藤波が呼んだ。
「なに・・」
「オーダー決めてください」
「ああ・・そうだった・・」
「監督、どうしたんですか」
白坂が訊いた。
「明美・・」
明美とは白坂の名前である。
「なんですか」
「オーノー」
トーマスはそう言いながら、十の字を切って天を仰いでいた。
―――桐花ベンチでは。
「さて、大一番だよ」
日置が気合の入った声を発した。
「はいっ」
「おうよ!」
「これでラスト。絶対後悔しないように、徹底的に叩きのめすよ」
「はいっ」
「わかってらぁな!」
「じゃ、オーダーを言うよ。トップ、阿部さん森上さん」
「はいっ」
「はいぃっ」
「二番、中川さん」
「おうよ!」
「三番、重富さん」
「はいっ」
「四番、森上さん」
「はいぃっ」
「五番、阿部さん」
「はいっ」
「六番、郡司さん」
「はいっ」
「ラスト、重富さん」
「はいっ」
「よし、これで勝ちに行くよ」
日置は彼女ら一人一人に強い視線を向けた。
「よーーし、フランク野郎、コテンパに叩きのめしてくれるわ!」
また中川が変なあだ名を付けたぞ、と彼女らは呆れていた。
「フランク野郎てぇ、なんなぁん」
森上が訊いた。
「森上よ」
「なにぃ」
「おめー、あやつらの髪形を見てみろよ」
「見たけどぉ」
「じゃ、わかんだろうがよ」
フランクとは、昭和の時代、低音ボイスが売りのムード歌謡歌手で、名前はフランク永井といった。
フランク永井の髪形は、まさに真面目なサラリーマンを絵に描いたような見た目だったのだ。
「それって、フランク永井のことちゃう」
阿部が言った。
「正解!チビ助にワンポイントだ」
「なんのポイントよ」
阿部は呆れていた。
「せやけどあんた、ほんまにようそんなん思いつくよな」
重富は半笑いだった。
「したがって、ただいまより、どすえ野郎はフランク野郎に改名だ!」
「整列するよ」
日置がそう言うと、一行は台に向かって歩を進めた―――




