369 計算外 その2
阿部対西井は、20-17で阿部がリードし、いよいよ最終局面を迎えていた―――
「にしちゃん、タイム取って!」
ベンチに着いた前原は、立ったまま西井を呼んだ。
振り返った西井は、小さく頷いてタイムを取り、ベンチに下がった。
「いいかい、にしちゃん」
西井は前原の前で立っていた。
「3点は挽回できる点差だ」
「はい」
西井は無論、まだまだ諦めていなかった。
「で、ここは、ロビングだ」
前原は背の低い阿部なら、ロビングだと打ち抜けないと踏んでいた。
なぜなら阿部が打ちミスをすると、2点差になる。
しかもロビングは「チャンスボール」なだけに、精神的負担が襲い掛かる。
大詰めのこの時点で、そこから挽回できる可能性は俄然高くなる、というわけだ。
「必ず何球目かで、チャンスボールが来る」
「はい」
「それをきみは、カウンターで返すこと」
これは前に踏み込んで打て、ということだ。
「はい」
「ストップもあり得るけど、きみなら取れるよね」
「はい」
「よし。ここは絶対に挽回だ」
「はいっ」
「西井ちゃん・・」
黒崎が力のない声で呼んだ。
西井は黒崎に目を向けた。
「ごめんね・・」
黒崎は負けたことを詫びた。
「なに言ってるのよ」
西井はニッコリと微笑んだ。
「西井ちゃん・・勝ってね・・」
「任せておいて」
「西井ちゃん、頑張って」
芳賀は森上に怯えつつも、何とかそう口にした。
「うん」
西井は力強く頷いて、コートに向かった。
―――桐花ベンチでは。
「千賀ちゃぁん、ラスト1本やでぇ」
阿部はタオルで顔の汗を拭きながら、森上の前に立っていた。
「うん、わかってる」
「でなぁ」
「ん?」
「もしかしてやけどぉ、西井さん、ロビングやって来るかもしれんでぇ」
奇しくも森上は、前原の策を言い当てた。
「ロビング・・」
その実、阿部はロビングを苦手としていた。
それは森上もわかっていた。
「あれやぁん、向こうはぁ、絶対に挽回したいはずやぁん」
「うん、そやな」
「1点も落とされへん状況なわけでぇ、それやったらぁ、一か八かで賭けに出ると思うねぇん」
「なるほど・・」
「でなぁ、ロビングさせんためにはぁ、全部短いツッツキで返してぇ、1発で抜くんがええと思うんよぉ」
「そうか・・」
「打つんはぁ、バックコースやでぇ」
「ああ、バックやとロビングしたくても、難しいもんな」
西井レベルだとバックハンドでロビングも可能だが、フォアで返球するのとでは安定性の違いを阿部は言った。
「それと打つコースは厳しくなぁ」
「うん、そやな」
「頑張ってなぁ」
「わかった!」
「先輩、1本ですよ!」
和子も阿部を励ました。
「よし。絶対にここで終わらせる!」
そして阿部もコートに向かった。
コートに着いた阿部はサーブを出す構えに入った。
方やレシーブの西井も、前傾姿勢を保ちながら体を左右に揺らした。
「1本!」
互いは同時に声を挙げた。
阿部はバックコースから、下回転の小さなサーブをバックのネット前に出した。
西井は阿部に打たせようと、長いツッツキをフォアへ送った。
阿部はそのボールをストップで返した。
なぜ打たないんだ、と一瞬戸惑った西井だったが、再度フォアコースへ長いツッツキで返した。
それを阿部は、またストップで返した。
また不可解に思った西井は、バックハンドでフォアストレートに入れた。
そう、今度こそ打って来い、と。
すると阿部は単に合わせる形で、短くバックストレートへ入れた。
音で表現するとしたら「ポコン」といった緩いボールだ。
なんなの・・
なぜ・・打たないのよ・・
しかもなに・・この緩いボールは・・
西井は試しにバックハンドをバッククロスへ強打した。
そう、阿部は回り込むと思ったのだ。
けれども阿部はショートで対処した。
これもコースはバックだ。
西井は落ち着くべく、一旦カットでフォアへ返した。
けれどもこのボールは、わざと打たせるため、高めに入ったボールだ。
阿部は打つと見せかけてからのストップで返した。
阿部は思った。
やっぱり・・恵美ちゃんの言う通りや・・
西井さんは私に打たせたがってる・・
これって・・ロビングを狙ってるってことやん・・
さすが恵美ちゃんや・・すごいわ・・
一方、前原は阿部の「策」を不可解に思っていた。
なぜ打たないんだ、と。
チャンスボールを何球も与えているんだぞ、と。
もしかして・・
こっちの策を見破った・・?
まさか・・あり得ない・・
だって・・ベンチには日置監督はいないんだよ・・
前原はチラリと7コートを見た。
すると日置は「ここ1本だよ!」と檄を飛ばしており、阿部の試合を気にかける素振りすらない。
しかもカウントは、なんと28-28のデュースというとんでもないデッドヒートになっていたので尚更だ。
もしだよ・・
こっちの策を見破ったとしたら・・
いや・・それよりしぶちゃん・・
なにやってるんだよ・・
絶対に・・絶対に・・取るんだ!
そして前原が渋沢を気にしている間に「サーよし!」という、阿部の大きな声が聴こえた。
「えっ!」
前原は目の前のコートを見た。
すると西井はうな垂れたまま、その場に立ち尽くしていた。
阿部と西井のラリーは、結局、西井がしびれを切らして自ら打って出たものの、あえなくオーバーミスをしたのだ。
そう、阿部は西井が打たせようと「挑発」したことを逆手に取って、わざと高めのボールを送ったのだ。
けれどもその際、阿部は厳しいコースを狙っていた。
バックコースをはみ出すような場所にバウンドしたボールに対し、西井は回り込んだのだ。
スマッシュなら、フォアで打つ方が決まる確率も高いからだ。
けれども西井は少し動きが遅れ、決めることが出来なかったのだ。
勝った阿部は「やったで~~!」と言いながら、ベンチに下がっていた。
―――浅草西ベンチでは。
「すみません・・」
西井は肩を落として前原の前に立った。
前原は唖然としたまま西井を見ていた。
「結局、ロビングは出来ませんでした・・」
「・・・」
「先生・・」
なにも言わない前原に、西井は問いかけるように呼んだ。
「え・・」
「これで・・うちの負けですね・・」
「ま・・まだ、まだ・・」
「え・・」
「しぶちゃんが勝って・・ほうちゃんが勝つ・・」
西井は唖然とした。
芳賀があの怪物に勝てるはずがないだろう、と。
「そんなっ、なぜ一年未満の素人に・・うちが負けるんだよ」
「え・・」
「しぶちゃんだって、あんな中川にデュースだ。なにやってるんだ」
「・・・」
「桐花は!素人なんだよ!」
「素人って・・先生、なにを言ってるんですか・・」
そこで前原は椅子に座り、頭を抱えた。
「なにが一年未満だ・・嘘だ・・嘘に決まってる・・」
西井と芳賀と黒崎は、顔を見合わせて困惑した表情になった。
「西井ちゃん・・先生、変だよ・・」
芳賀が小声で囁いた。
「うん・・」
西井と黒崎もコクリと頷いた。
「ねぇ・・7コート行こうか・・」
黒崎が言った。
すると西井と芳賀は頷いて、三人は7コートへ向かった。
―――桐花ベンチでは。
「千賀ちゃぁん!やったな!」
「先輩!すごかったです~~~!」
阿部は、森上と和子に称えられていた。
「うん!勝ったで!」
阿部の顔は輝いていた。
「恵美ちゃん」
阿部が呼んだ。
「なにぃ」
「さすが恵美ちゃんやわ。西井さんは私に打たせようとしてたもんな」
「そやったなぁ」
「せやけど、ようわかったな」
「わかったって言うかぁ、私ならそうするな、と思たんよぉ」
「え、そうなん?」
「相手の弱点を突いてぇ、そっから挽回するかなぁと思たんよぉ」
「なるほど!」
「森上先輩、すごいですね!」
「そんなことないでぇ」
森上はニッコリと笑った。
「あっ!」
阿部は7コートを見て、カウントが30-29になっていることに驚いた。
「中川さん、頑張ってるやん!」
そう、中川が辛くも1点リードしていた。
「ほな、行こかぁ」
そして三人は急いで7コートへ向かった。
―――7コートでは。
「フーテン渋沢~~!これが最後でぇ!」
中川はボールを手にしていた。
渋沢は何も言わずに構えに入っていた。
「しっかしよー、おめーもしつけーな」
「・・・」
「それでもケリはつけなきゃなんねぇんだ。覚悟しな!」
そして中川はロングサーブをミドルに出した。
渋沢は足を動かし、なんなくバックカットで返した。
「ねーー!」
副審が叫んだ。
ここに来ると渋沢も「ねー」ごときで動じることはなかった。
フォアに入ったボールを、中川はカット打ちで返した。
バックに入ったボールを、渋沢はなんなくカットで返した。
「うしーー!」
次はストップを入れるべきだな・・
こう考えた中川は、チョコンとストップで返した。
そんなことは織り込み済みの渋沢は、急いで前に駆け寄って拾った。
「とらーー!」
こうしてカット打ちとストップを混ぜてチャンスボールを作ろうと、中川は奮闘していた。
ラリーが続いた結果、やがて副審が「いーー!」と叫んだ。
そう、次は「ゴルゴ」なのだ。
同点にさせてなるものかと、中川は一か八かでスマッシュを打って出た。
バッククロスを逃げるようなボールが、渋沢を襲った。
渋沢は「ゴルゴ」に「怯え」つつも、ラケットを出してあてた。
館内の観戦者は、13を何と表現するんだと、7コートを凝視していた。
「ゴルゴーー!」
副審が叫んだ。
すると日置や阿部らも、そして観戦者も唖然とした。
ゴルゴとはなんだ、と。
干支ですらないじゃないか、と。
そして渋沢のカットはネットにかかり、中川は第1セットを先取したのである―――




