358 襲い掛かる罠
ほどなくしてコートに着いた四人は、3本練習を行っていた。
黒崎は裏の前陣で、田久保は一枚の前陣だ。
よって二人とも台から下がらない速攻が武器だ。
そのフットワークは練習段階でも目を見張る速さである。
たとえ三番手四番手であろうと、さすが浅草西のレギュラーともいうべき動きだ。
「なぁ、恵美ちゃん」
阿部がボールを拾いに行く際、森上を呼んだ。
「なにぃ」
「なんかさ、二人とも私ばっかり見てんねんけど・・」
阿部は善行寺戦のことを思い出していた。
そう、黒崎も田久保も「阿部を崩す」ために、自然と目は阿部に向いていたのだ。
「気にすることないでぇ」
森上は余裕の笑みを見せた。
「まあ、そうなんやけど・・」
「先生、言うてはったやろぉ」
森上は、阿部ら三人が舐められていることを言った。
「うん」
阿部もその意を理解していた。
「だからぁ、ここは倍にして返すくらいでないとなぁ」
「うん、そやな。よーし」
そこで阿部も二人を睨み返した。
すると黒崎と田久保も阿部の視線を跳ね返した。
くそっ・・
めっちゃ睨んでるやん・・
なにが浅草西やねん・・
よーし・・
先輩らの「忘れ物」は、私らで取り返すで!
阿部は今しがたの睨み合いで、一気に闘争心に火が点いた。
一方で阿部の表情を見た前原は、早くも術中に嵌りつつあることに不敵な笑みを浮かべていた―――
試合に勝つためには闘争心は不可欠だ。
けれども度が過ぎると反って裏目に出ることもある。
つまり、冷静さが失われてメンタルコントロールが難しくなるわけだ。
ましてや高校生であり全国大会の準決勝という大舞台において、日置のような百戦錬磨の選手であれば自身を保つことに慣れているが、阿部は初出場なのだ。
いや、阿部だけではない。
森上も重富も中川も同じだ。
けれども森上の場合、メンタル以上の実力が備わっている上に、どの試合においても常に彼女は冷静だ。
そこで前原は、まず阿部のメンタルを崩す作戦を打った。
なぜなら熱くなり過ぎた阿部の卓球は、どこかの時点でいつもの「それ」ではなくなるはずだ、と。
するとミスが出る。
同時に自分に苛立ちを覚える。
するともっと熱くなる。
そしてまたミス、という具合に悪循環におちいってゆく。
やがて自分ばかりがミスをすることで、森上の足を引っ張ることに焦りが生じる。
いつもの精神状態でない阿部を、二番手である西井が叩き潰すという算段だったのである。
同じ頃、日置は黒崎と田久保を見ていた。
あの二人・・
阿部さんばかり見てるよね・・
というより、睨んでるよね・・
なるほど・・そうか・・
前原くん・・
このダブルス・・
阿部さんに狙いを定めたんだ・・
どんな手で崩すつもりか知らないけど・・
彼女らを甘く見てもらっちゃ困るんだよね・・
「阿部さん」
日置が呼んだ。
すると阿部と森上は黙ったまま振り向いた。
「きみ、今日は人気者だよね」
日置はニッコリと微笑みながら、なんとも意外な言葉を放った。
「え・・」
阿部も森上も呆気にとられた表情を浮かべた。
「おいおい、先生よ。なに言ってやがんでぇ。人気者といやぁ、この中川様をおいて他にねぇってもんよ」
中川は胸を突き出し威張って見せた。
「きみは人気者というより・・」
「なんだよっ」
「お騒がせもんやな」
重富が突っ込んだ。
「なっ・・おめー」
中川が重富の肩を小突くと「事実さね・・」と中川の言いぶりを真似た。
「うるせぇよ」
「さねさね・・」
「さねさねって、なんだよ」
「さねさねは・・さねさねさね・・」
「阿部さん」
日置は「小競り合い」をしている二人を無視して呼んだ。
「はい」
「挑発に乗っちゃダメだよ」
「え・・」
「いつも通りに。そして徹底的に叩き潰す。これだよ」
「はい」
「森上さん」
「はいぃ」
「阿部さんを頼んだよ」
「はいぃ」
「よし。頑張れ」
日置は一拍手をしてニッコリと微笑んだ。
―――浅草西ベンチでは。
日置監督・・
さすが抜け目がないよね・・
前原は思っていた。
阿部に焦点を絞ったことが、早くも読まれたに違いないぞ、と。
なぜならまだ試合が始まってもいないのに、わざわざ声をかけて話をしていたからだ。
けれどもそれは、織り込み済みであり大した問題ではない。
日置なら早い時点で見抜くであろう、と。
けれども相手は高校生。
監督がいくらアドバイスしようと、うまくいくとは限らない。
というより、選手が焦れば焦るほどアドバイスは反って混乱をきたす場合もあり得るのだ。
でもさ・・
あの日置監督だ・・
阿部さんを混乱させるような指示はしないはずだ・・
だとしてもだよ・・
焦る阿部さんをどう立ち直らせるかなんだよね・・
これは時間がかかるんだよ・・
ま・・ダブルスは捨てているし・・
こっちとしては負てもダメージはない・・
よし・・くろちゃん、たくちゃん・・
とことん追い詰めてやればいいからね・・
「ジャンケンしてください」
主審が促した。
すると阿部と黒崎は、おのおの右手を出したが二人は睨み合ったままだ。
そしてジャンケンの結果、阿部が勝って「サーブです」と言い、黒崎は自分たちが立っているコートを指して「こちらで」と答えた。
「くろちゃん」
田久保が呼び、二人は阿部らに背を向けた。
「おそらくサーブは阿部さんだね」
「そうだね」
二人は最初から必殺サーブが来ることを言った。
「まずは作戦実行と行きますか」
田久保はわざと丁寧語で話した。
「西井ちゃん、このダブルで見破れるのかな」
「そうしてもらわないと、私たちの「特攻作戦」はまさに犬死だよ」
そこで二人は西井に視線を向けた。
すると西井は二人の意を察したかのように、静かに頷いた。
「ラブオール」
主審が試合開始を告げた。
四人は「お願います!」と一礼して、阿部はラケットを口元にあてて森上を見た。
「最初から必殺サーブで行くから、恵美ちゃん、決めてな」
阿部の言いぶりに、森上は若干の不安がよぎった。
そう、日置に「挑発に乗っちゃダメだ」と言われたにもかかわらず、気持ちが昂り過ぎていると感じたのだ。
「千賀ちゃぁん」
「なに?」
「必殺サーブはぁ、後でええよぉ」
「え・・」
「なんもぉ、焦ることはないでぇ」
「焦ってないし」
「下回転のぉ、短いのんでええよぉ」
「でもさ、まずはサーブで出鼻をくじいてやな」
「こらこら、千賀ちゃぁん」
そこで森上は阿部の肩に手を置いた。
「挑発に乗ったらあかんよぉ」
「いや、乗ってないし」
阿部は落ち着いているつもりだった。
けれども「舐められた」ことで、知らず知らずのうちに冷静さを失っていたのだ。
「必殺サーブはぁ、後でなんぼでも出せるやんかぁ」
「うん・・まあそやけど・・」
「ちょっと」
そこで黒崎が二人を呼んだ。
阿部と森上はそのまま黒崎に視線を移した。
「もう試合開始のコールがかかってるんだけど」
黒崎はそう言いながら阿部を睨みつけた。
そして黒崎は「まだ始まってもないのに、ねぇ?」と蔑んだ目で田久保に同調を求めた。
「早くサーブ出してくれない?」
田久保も阿部を睨みつけた。
「あ・・ああ、すみません・・」
なんやねん・・
また睨んでる・・
くそっ・・
こんなやつらには必殺サーブでええんとちゃうんか・・
恵美ちゃんは・・下回転の短いのんって言うとったけど・・
いや・・ここは必殺サーブや・・
ほんで・・ミスをさせて・・睨んでる余裕なんかないことを・・思い知らせてやるっ!
阿部はそう思いながらサーブを出す構えに入った。
そして阿部は、なんとサインも出さずにボールを上げ、ラケットを複雑に動かしたのだ。
レシーブの黒崎は「来たっ」と思った。
西井も阿部のラケットを凝視していた。
「ミスです!」
審判が手を挙げてコールした。
そう、阿部のサーブは誰が見てもミスだとわかるくらい、センターラインから大きくはみ出していたのだ。
「サーよし、ラッキー!」
黒崎と田久保は、やったといわんばかりに大きくガッツポーズをした。
浅草西ベンチでも「よーし、よーし」と軽く声が挙がっていた。
阿部は「ごめん・・」と森上の前で下を向いていた。
「千賀ちゃぁん、どんまいやでぇ」
「うん・・ごめん・・」
「なぁ、千賀ちゃぁん」
「なに・・」
そこで阿部は少しだけ顔を上げた。
「ダブルスは絶対に落とされへんよぉ」
「わかってる・・」
「ほなぁ、サイン出してなぁ」
「う・・うん・・」
前原は思った。
見る限り、阿部と森上の息が合ってない。
なぜなら阿部はイラついているようにも見えたが、今しがたのサーブミスで下を向いていた。
まだ始まったばかりのこの時点で、たかが一球のサーブミスで下を向くことはあり得ない。
互いが合意した上でのサーブなら、たとえミスをしても「どんまい」とすぐに檄を飛ばすはずだ。
けれども森上からその声は挙がらなかった。
つまり、阿部の出したサーブは森上が納得したものではないということだ。
いいぞ、早くも効果が表れたぞ、と。
「こらあああーーー!チビ助!下を向くんじゃねぇ!」
「阿部さん!どんまいやで!」
「先輩~~次1本ですよ~~!」
桐花ベンチから大きな声が挙がった。
日置は思っていた。
阿部さん・・サイン出さなかったよね・・
それとも・・二人で話してた時・・打ち合わせしてたのかな・・
それにしても変だ・・
センターラインを大きくはみ出すミス・・
阿部さんらしくない・・
「阿部さん!どんまい、どんまい!」
日置は手を叩いて檄を飛ばした。
「恵美ちゃん・・」
阿部は森上を見上げた。
「なにぃ」
「次はミスせんから、もっかい出すわな」
阿部は再び口元をラケットで隠していた。
「うーん」
森上は賛成しかねていた。
「ミスせんから」
「なぁ、千賀ちゃぁん」
「なに」
「ダブルスは息が合わんとぉ、あかんと思うねぇん」
「そんなん、わかってる」
「私ぃ思うねんけどなぁ」
「うん」
「ちょっと」
そこでまた黒崎が二人を呼んだ。
「時間取りすぎじゃない?」
「ほんと、まだ一球だよ?一球」
田久保もそう言った。
「すみません・・」
阿部はバツが悪そうに詫びた。
「早く出してよ、さっきのサーブ」
黒崎はわざと嫌味を言った。
「ミスはしたけど、すごいサーブ持ってるね」
田久保が言った。
「ほんと、ほんと。あんなの見たことないよね」
そこで阿部は森上を見た。
そう、出させてくれ、と。
けれども森上は首を縦に振らなかった。
なにを挑発に乗ってるんだ、と。
森上の表情を見た阿部は、あろうことか、またサインも送らずにサーブを出す構えに入ったのだ。
取れるもんなら取ってみい!
興奮した阿部は「1本!」と大きな声を発したのだった―――




