354 館内に響く絶叫
―――第1コートでは。
「あの、ちょっと試合中に申し訳ないんだが」
タイムを取った対戦相手の監督は、主審の元へ行って声をかけた。
「なんですか」
「試合には監督がいないといけないのだが、増江の監督はどうなってるのかね」
「ああ・・」
主審は増江ベンチを見た。
「いませんね・・」
「きみ、審判の権限として監督不在の理由を確かめなさい」
「わかりました」
そして主審は増江ベンチに行った。
「あの」
主審は選手の一人に声をかけた。
「はい」
「あなたたちの監督は、どこですか」
「えっと・・もうすぐ来ます」
「もうすぐって、どれくらいですか」
「それは・・わかりません・・」
「相手の監督、怒ってますよ」
「そうですか・・」
彼女ら五人は顔を見合わせて、観客席に目を向けた。
「先輩」
一人が藤波を呼んだ。
呼ばれた藤波は、一番前まで移動し「どうした」と答えた。
「監督は、まだですか」
「ああ・・電話したんだけどさ、まだなんだよ」
「やっぱり監督がいないと・・ダメみたいです」
それは藤波とてわかっていた。
ここまでの試合も、「監督はどうしたのか」と注意を受けていたが、「もうすぐ来ます」という言い訳で、対戦相手は目を瞑っていたのだ。
「よし。私が行く」
そして藤波は急いで観客席を離れた。
やがてフロアへ入った藤波は、1コートまで走った。
「申し訳ない。私が監督です」
藤波は主審にそう言った。
「え・・あなた、選手じゃないですか」
「監督が来るまで、代理を務めます」
「代理ですか・・」
そこで主審は対戦相手の監督を見た。
するとそこへ「なにやってますかー」とトーマスが駆け寄って来た。
おせぇよ・・
藤波はそう思った。
「監督!遅いじゃないですか!」
「由美子~~怒らないの」
由美子とは、藤波の名前である。
「申し訳ない。こちらが監督です」
藤波は主審にそう言った。
「そ・・そうですか・・」
主審も相手チームも、突然現れた白人男性に言葉を失っていた。
「あなたー、ジャッジメン?」
「ジャッジメン・・」
「僕、トーマスでーす。増江の監督ね」
「そ・・そうですか。監督は用がない限り、ベンチにいてください」
「オーケー」
そして主審は相手の監督に説明して、試合が再開された。
―――第7コートでは。
日置も彼女らも、増江のベンチにトーマスが来たことは、まだ知らなかった。
そして試合は、阿部と森上が一方的に押す展開となっていた。
その理由は、やはり森上の群を抜いたパワーによるものだった。
ドライブを打つかと思えば、突然ストップに変更し、やっとの思いで拾ったボールを阿部は抜群のミート打ちで相手を翻弄していた。
森上のドライブがこれほどでなければ、相手もたかがストップごときとして拾えるが、ドライブを打たれると嫌でも下がらなければならない。
加えてボールの威力に負けないように、瞬時のラケットコントロールが要求される。
そこへストップを仕掛けられると、どうしても動きが出遅れるというわけだ。
けれども一方で、下がらずにカウンターという策もあるが、森上のドライブをカウンターで返せるほど甘くはない。
返せたしてもあわせるだけになり、結局チャンスボールになる。
となると、どうしても下がらざるを得ないのだ。
「ハアハア・・」
荒井と紺野は、試合も終盤を迎えた頃には息が上がるようになっていた。
「こ・・こんなボール・・女子が打てるの・・?」
荒井がそう言った。
「かと思えば・・あのストップだがね・・」
「阿部さんもそうだよ・・」
そう、阿部も打つと見せかけてからのストップを、ふんだんに仕掛けていた。
「さあ~押して行くよ!」
日置が大きな声を発した。
カウントは18-7と、桐花が大きくリードしていた。
「しかしまあ、今さらだがよ、森上のドライブは一級品さね」
中川が感心したように呟いた。
「あれを取れるんは、男子しかおらんな」
重富もアップに余念がなかった。
中川もアップ中だったが、10コートで試合をする浅草西を時々見ていた。
その際、前原と目が合うことも何度かあった。
そして前原はニッコリと微笑んでいたのだ。
「重富よ」
中川は小声で呼んだ。
「なに?」
「浅草西の監督よ、うちのマジメルゲにも負けねぇくれぇ、ヘラヘラと笑ってやがんぞ」
「マジメルゲ・・久しぶりやな。忘れとったわ」
「あやつは、さも余裕をぶっこいてると見せかけているが、その実・・内心は焦っているのさね・・」
「そうなん?」
そして重富は前原を見た。
すると前原は視線を感じたのか、重富を見てニッコリと笑った。
「うわ・・ほんまや」
重富はすぐに視線を逸らした。
「気持ちわりぃったらありゃしねぇぜ」
「先輩」
和子が二人を呼んだ。
「なんでぇ」
「1コートにいる人、トーマスじゃないですかね」
「えっ」
二人は増江ベンチに目を向けた。
すると白人男性が、これまたニコニコと笑いながら椅子に座っているではないか。
「あやつが、トーマスか」
「トーマス・・」
そして中川は日置を見た。
すると日置もコートを見て、ニコニコと笑っているではないか。
「しかしよ、うちのマジメルもそうだがよ、笑ってるやつばかりだな」
「マジメル・・なんか、ゲを省くだけでかわいくなるな」
「ほなけんど、日置先生の笑顔には、力を貰えます」
「っんなこたぁいいやね。それにしてもトーマスが実在してるのは本当だった。するってぇと、森上よりでけぇ女子がいるってのもほんとだな」
「そやな・・」
「きみたち、なにコソコソ言ってるの」
日置は彼女らを見た。
「先生よ」
「なに」
「あっちに、いんぞ」
「え?」
「トーマスさね」
中川は1コートを指した。
日置はそこへ視線を移した。
あ・・
ほんとだ・・
白人男性がいる・・
そうなんだ・・
あの人がトーマスさんなんだね・・
日置はこの時点で、卓球人としての勘とでもいうべきか、トーマスはかなりの実力者だと感じた。
―――観客席では。
「ほーう、白人男性ですか」
皆藤が言った。
「これは・・意外でしたね・・」
さすがの野間も、唖然としていた。
「察するに、おそらくヨーロッパの人でしょう」
「そうですか・・」
「チェコかハンガリー、或いはスゥエーデンあたりです」
皆藤らの近くに座っている亜希子には、この会話が耳に届いた。
そこで亜希子は席を移動し、なんと皆藤の前列に座った。
「あなた」
亜希子が振り向いて呼んだ。
「はい?」
皆藤は見知らぬ女性に声をかけられ、少々面食らっていた。
「あの男性は、トーマスよ」
「トーマス・・」
「ええ。スゥエーデンから来たトーマスなのよ」
「そうなのですか」
「増江の監督なのよっ」
「はい、そのようですね」
「あなたたち、ここに座ってるってことは、もう負けたの?」
亜希子は彼女らを見てそう言った。
「いえ、団体戦には出ていません」
野間が答えた。
「あら、そうなの。じゃ、応援に来たの?」
「それもありますが、明日と明後日のシングルとダブルスに出ていますので、前倒しで来ました」
「まあ~どこの応援?」
「大阪代表の桐花学園と小谷田高校です」
「えっ!桐花の応援に?」
「はい」
「まあ~~なんていい子たちなのかしら!私も桐花の応援に来たのよ!」
「そうなんですね」
「でもね~実は来る予定はなかったのよ」
「そうですか」
「私ったらさ~、間違って船に乗っちゃってね。いわば連れて来られたっていうか」
「はあ・・」
この辺りで野間は、早く会話を終わらせたいと思った。
「でもさ~、ついでっていったらなんだけど、試合を観るのもいいかな~って」
「そうですか・・」
「あっ、桐花にはね、うちの娘も出てるのよ!」
「え・・娘さんが・・」
「中川っていうの。中川愛子」
「えっ!」
皆藤も彼女らも、この女性が「あの」中川の母親なのかと、ある意味ものすごく納得していた。
「知ってるの?」
「ああ・・まあ・・」
「知っていますよ」
皆藤はニッコリと微笑んだ。
「まあ~~おじさんったら、嬉しそうに笑っちゃって~」
「おじさん・・」
ジジィよりは・・いいですかね・・
皆藤は「プッ」と笑った。
「なに笑ってんのよ~」
「いえ、失礼しました」
「おじさんたちは、どこの学校なの?」
「三神高校です」
「え・・」
「三神です」
「えええええええええええ~~~~~!」
亜希子は絶叫した。
すると周りの者は無論、試合中の者たちも何事かと打つ手を止めたほどだ。
「中川さん・・落ち着いてください」
皆藤は小声で囁いた。
「さっ・・三神って・・きゃあ~~~!」
「中川さん・・声を抑えて・・」
「あの・・落ち着いてください・・」
野間も必死で止めた。
「ねぇ、どの子が天地?どの子がイカゲルゲ?」
そう言われた彼女らは、絶句した。
けれども関根だけは笑っていた。
「あっ、クチビルゲってどの子?愛子が対戦したクチビルゲよっ」
「あの・・私ですけど・・クチビルゲやなくて、アンドレです・・」
向井が答えた。
「まあ~~あなたがそうなのね!」
亜希子は思わず向井に手を伸ばした。
向井も仕方なくそれに応えて、二人は握手を交わした。
「アンドレさん!娘と試合してくれてありがとう!」
「え・・」
「あの子ね、一生忘れられないって。アンドレはいいやつだったって」
「そうですか・・」
「あなただけじゃないの。三神はみんないいやつばかりだって。強いだけじゃねぇって」
その言葉に、皆藤は嬉しそうに笑った。
「あっ、ゼンジーはどの子?」
「ゼンジーくんは、卒業生ですよ」
皆藤が答えた。
「あら~そうだったの。ゼンジーもいいやつだって」
「そうですか」
「あっ、ということは、おじさんがクラブ探しジジィね!」
「はい、そうです」
「まあ~~あなたが~」
「ちなみに、皆藤と申します」
「そうなのね。皆藤さん、これからもよろしくね」
「こちらこそ」
「あら、やだ~~喋っている間に、もう2セット目が始まってるわ~」
亜希子はコートに目を向けた。
「こら!かあちゃん!」
そこへ慌てて中川がやって来た。
「あら~愛子。あんた次、試合じゃないの?」
「おめー、さっき絶叫してただろ!」
「だってさ~この人たち、三神なのよ。そりゃ叫びもするわよっ」
「じいさん、おめーら、大体の想像はつく。かあちゃんの無礼を許してくんな」
中川はそう言って頭を下げた。
「あはは。中川くん、いいのですよ。きみは試合に集中しなさい」
「そうやで、中川さん。しっかりな」
野間が言った。
「はよ戻らんと」
「頑張りや」
「しっかりな」
「応援してるからな」
他の者も中川を励ました。
「うん。ありがとな」
そして中川は亜希子を引っ張って、別の席へ連れて行った。
「ここで大人しくしてな!」
「まあ~酷い子ねっ」
「うるせぇ!ぜってー叫ぶんじゃねぇぞ」
「わかってるわよ~試合、頑張ってね~」
「ったくよー!」
中川は辟易としながら、慌ててフロアへ戻ったのである―――




