35 試合までの一週間
その後、森上が日置の教え子だと知った後藤は森上に好意的で、他の「年寄り」を相手にするよりも、森上に時間を割いてやった。
日置は相手が後藤なら、ラリーを行う分にはある程度、練習になるだろうと安心していた。
なぜなら日置は三年前、後藤と対戦した時、日置はコンディション作りとして、後藤に返しやすいボールを送り続けた。
いくら返しやすいボールといえども、後藤がラリーの実力を備えてなければ続く、続かない以前の問題だ。
この時点で、日置は後藤のラリーの上手さを知っていたのだ。
それでも日置は「僕が教える以外のことは習っちゃダメ」と釘を刺していた。
森上も、日置の教えを忠実に守り、フォア打ち、ショート、ツッツキ、以外はやらなかった。
ドライブも、やろうと思えばできたが、そもそも森上のドライブを返せる者などいなかったので、森上はドライブを封印していた。
そしていよいよ、一年生大会は一週間後に迫っていた―――
月曜日の朝、日置は森上に「今日からサーブと、サーブレシーブをやるからね」言った。
試合でサーブとレシーブが出来なければ、話にならないからだ。
日置は、下回転、横回転、斜め回転、ナックル、上回転のサーブ、それを深いところ、ネット際、フォア側、バック側、ミドルに出すことを説明した。
さすがの森上も、頭が混乱していた。
「じゃ、まず下回転ね」
日置は、フォアの下回転を出した。
「これは最も基本中の基本ね」
「はいぃ」
森上は日置の横に立って見ていた。
「ボールの下を擦るんだよ」
日置はそう言いながら、もう一度出した。
「やってみる?」
「はいぃ」
そして森上はボールを手のひらに乗せ、ラケットにあたった瞬間、ボールの下を擦った。
ポコンポコン
ボールは高く跳ねた。
「うん、それだとチャンスボールになってしまうから、台と平行に持って来て。で、姿勢も腰を低く前傾ね」
「はいぃ」
森上は、同じ動作をした。
するとさっきよりも、ボールはススッと低く入った。
「うん、それね」
「はいぃ」
「じゃ、籠のボールがなくなるまで出し続けて」
そして森上は、下回転のサーブを出し続けた。
「はい、それじゃ今度は、コースを変えて」
籠が空になり、ボールを拾いながら日置が言った。
このボール拾いも、短い練習時間に於いては、かなりのロスだった。
森上がサーブを出している間、日置がボール拾いをする手もあるが、日置は森上のフォーム、ボールの高さなど見なければならない。
そして今は、単に下回転だけだ。
出すサーブは山ほどあるが、それを全てこの短期間で教えるのは無理だ。
よって日置は、最低限でも、あと横回転、斜め回転だけを教えることにした。
出すのはフォアだけではない。
同じ回転でバックサーブも必要だ。
「ねぇ、森上さん」
日置が呼んだ。
「はいぃ」
「お昼休み、練習できる?」
「ああ、はいぃ、ほな、ここで食べてもええですかぁ」
「うん、いいよ」
日置は、とにかく時間が欲しかった。
例え十分でも二十分でもいい。
とにかく一球でも多くサーブを出し、それを身につけさせたかったのだ―――
朝練を終えた森上は、教室へ入った。
「恵美ちゃん、おはよう」
阿部が声をかけてきた。
「千賀ちゃん、おはよぉ」
「今日は、どうやった?」
阿部は朝練のことを訊いた。
「うん、今日からサーブ練習やねぇん」
「へぇーそうなんや」
「でなぁ、昼休みも練習することになってぇん」
「ええ~~ほなら、私も行くわ」
「おお~千賀ちゃんもぉ~」
「私さ、まだショートできひんし、サーブも全く知らんしな」
「やっと千賀ちゃんと練習ができるんやなぁ」
「ほんまやな」
二人はとても嬉しそうだった。
それもそのはず、同じ卓球部員でありながら、別々で練習し、互いの様子など知らないに等しいからである。
こうして日置は、これから一週間、昼休みに森上と阿部にサーブを教えた。
無論、阿部には放課後にもサーブ、サーブレシーブ、朝練では森上にも同じように教えた。
そして金曜日を迎えた頃には、森上は日置が教えたことは、全てマスターしていた。
阿部は、まだまだ森上に及ばなかったが、それでも懸命になって着いて行った。
「さて、森上さんの練習は、今日で最後だね」
金曜の昼休みに日置が言った。
「はいぃ、すみませぇん」
森上は、土曜日も学校が終わった後、アルバイトをしている。
日置は、土曜日の朝練は、行っていなかった。
なぜなら、仕事は立ちっぱなしで大変だろうと森上の体を心配していたからだ。
「日曜は、府立体育館の別館に、八時半に集合ね」
「はいぃ」
「試合は九時からなんだけど、練習できる時間があるからね」
「わかりましたぁ」
「で、阿部さんは、放課後も練習。そして明日も調整程度に練習するからね」
「はいっ」
「じゃ、教室に戻ってね」
日置はそう言って、先に小屋を出て行った。
「なあ、恵美ちゃん~」
阿部はそう言いながら、森上の右腕にぶら下がった。
「なにぃ」
森上は阿部を、ブラブラと前後させて振ってやった。
「あはは、すごい力やなあ~」
「こんなん、軽いでぇ」
「うへぇ~すごい筋肉~」
「そうかぁ~ほれ~ほれ~」
森上は、もっと振ってやった。
「恵美ちゃん」
そこで阿部は手を外してピョンと下りた。
「なにぃ」
「私な、部室に置いてある卓球日誌、読んでみたんや」
卓球日誌は、蒲内が二年間、毎日書き続けた日誌だった。
「へぇ~」
「練習時間とか、すごいで」
「そうなんやあ~」
「なんかさあ、日置先生な、恵美ちゃんの練習時間が足りひんて、思てるんとちゃうかなあ」
「まあなあ・・」
「私らがやってる練習もな、ほんまに基本の「き」やねん」
「そやなぁ」
「恵美ちゃん、もっと練習できひんのか?」
「うん・・無理やねぇん」
「なんかさ、以前は、たった一台で八人が使うてはってさ」
「え・・一台ぃ?」
「うん。一台を八人で交代してやってはったんよ」
「そうなんやぁ」
「でも今は、四台もあるのに・・」
「そうかぁ・・もったいないなぁ・・」
キーンコーンカーンコーン
そこで始業ベルが鳴った。
「あっ、授業や!」
「ほんまやぁ、はよ着替えな遅れるぅ」
二人は急いで着替えて、教室へ向かった。
―――この日の夜。
小島は日置のマンションに訪れていた。
「それでね、よちよちクラブに、ササクレの後藤さんがいてね」
日置と小島は、ソファに並んで座り、テレビ画面を見るともなく見ていた。
「ああ、ササクレいうたら、確か去年のオープン戦にも出てはりましたよね」
「そうなの。去年は秀幸と対戦してたけどね」
八代秀幸は、日置と高校時代の同級生である。
二人は高校時代、ケンカ別れして会うこともなかったが、約十年後、八代が大阪への転勤をきっかけに再会し、昔のわだかまりを解消して、今でも親友として交流があった。
「それで森上さんは、そのクラブで練習をしてるんですね」
「ほんとは僕が出向きたいくらいだけど、そうもいかなくてね」
「阿部さんがいますもんね」
「それもそうだし、まあ色々とね」
小島はその言葉で、直ぐに悟った。
おそらくクラブの者が日置に嫉妬したか、女性部員がいて日置に熱をあげたのだろう、と。
「でも後藤さんは、森上をよくみてくれているみたいで、安心だよ」
「よかったですね。やっぱり今は、多くボールを打つことが大事ですもんね」
「そうなんだよ」
「それで、明後日は、いよいよ試合ですね」
「二人がどんな試合をするのか、楽しみだよ」
「そうですね」
「彩ちゃん、日曜は練習あるの?」
「はい、練習です」
実際、練習はあるが、小島は、日曜には森上に代わって、バイトをやらなければならないので、休むことを既に彼女らや、キャプテンの遠藤に伝えていた。
「そうなんだ」
「応援に行きたかったですが、もうすぐ実業団の予選がありますしね」
「実業団」とは、全日本実業団卓球大会の大阪予選のことである。
「ああ、そうだね」
「私ら、桂山に入って初めての試合ですから、頑張らんとあきません」
「監督は、彩ちゃんが兼ねてるの?」
「いえ、監督はいてないんです」
「そうかあ」
「そのこと、前に、あの子らと話し合ったんですけど、あてがなくて」
「誰かいい人、いないのかなあ」
「蒲内がね、私がやる~言うて」
そこで小島は、プププと笑った。
「あはは、蒲内さんらしいね」
「蒲内は、ほんま、時々面白いことを言います」
「あの子は、見た目と違って、度胸もあるしね」
「山戸辺の上田監督に食って掛かったことや、叩いたこともありましたね」
「あった、あった。あれは驚いたよ」
「そういえば、山戸辺の監督て、誰なんですかね」
山戸辺高校の上田監督は、自身の指導の厳しさから、選手の中で精神的な病気を患う者が出た。
そのことをきっかけに、上田は山戸辺を辞めていた。
その後、日置の大学時代の同期が監督に就いたが、日置に嫉妬を抱いていた富坂は、選手をまるで「道具」のように扱い、結局、大学時代も、監督としても日置に最後まで勝てなかった富坂も、山戸辺を去っていた。
「僕も知らないんだよ」
「そうですか」
「でも、あの山戸辺だから、素人監督が就くとは思えない」
「確かに、そうですよね」
「ま、日曜日には、わかることだよ」
そこで日置は小島と向き合った。
「彩ちゃん」
「はい」
「練習、頑張るんだよ」
「あ・・はい」
小島は、休むことを隠しているのに、少し胸が痛み、日置から目を逸らした。
「彩ちゃん?」
「なんですか」
小島は日置を見た。
「なんか、隠してない?」
「え・・」
「僕に秘密にしてること、あるでしょ」
「もう~先生、なに言うてるんですか~」
そこで小島は日置の胸をバンバンと叩いた。
「言いなさい」
「ないですってば~」
小島は叩く際に力が入り過ぎて、日置を倒した。
「げ・・すみません」
「すごい力だね・・」
日置はそう言いながら起き上がった。
「さて、そろそろ私は帰りますね」
「そっか。駅まで送って行くね」
「ええですって。駅まで近いし、一人で帰れます」
「ダーメ。ほら、行くよ」
日置はそう言って立ち上がった。
そして小島も立ち上がった。
「先生、森上さんと阿部さんの健闘を祈ってます」
「ありがとう」
日置は小島の頭を優しく撫でた。
そして二人は部屋を出てから、手を繋いで駅へ向かった。




