339 戸惑う中川
―――そして翌朝。
「お客様にお報せいたします。当船は、間もなく高松港に到着いたしますので、どなたさまもお忘れ物なきよう、お願い申し上げます。この度は、当船をご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご来船を心よりお待ち申し上げております」
入港十五分前に、船内放送が流された。
すると日置も彼女らも目を覚まして、まだ眠い目をこすりながら降りる準備を始めた。
「きみたち、よく眠れた?」
日置が訊いた。
「寝れんと思てたんですけど、結構寝れました」
阿部が答えた。
「私もです。一回も起きませんでした」
重富もそう言った。
「私はぁ、何度か目が覚めたんですがぁ、またすぐに寝れましたぁ」
森上が言った。
「私は船に慣れとるけに、横になったらすぐに寝れました」
和子もそう言った。
「そっか。それじゃ寝不足の心配はないね」
そこで中川は、まだ寝ている亜希子の肩をゆすった。
「おい、起きろよ」
すると驚いたのが彼女らだ。
なんで知らないおばさんを起こしてるんだ、と。
「中川さん・・なにしてんの・・」
阿部が小声で訊いた。
「おい、もう着くぞ。起きろって」
彼女らは、呆気に取られて中川を見ていた。
けれども何も言わない日置のことも、変に思っていた。
なにを笑ってるんだ、と。
「え・・」
亜希子はやっと目を覚ました。
「え・・えっ!ここ、どこっ?」
亜希子は起き上がって、室内を見渡していた。
「ったくよー、憶えてねぇのかよ」
「おはようございます」
日置はニッコリと微笑んでそう言った。
「え・・ああっ!そうだったわ」
亜希子はやっと気が付いたようで、彼女らを見ていた。
「あら~~あなたたちがチームメイトなのね!」
言われた彼女らは、唖然としていた。
誰だ、おばちゃんは誰なんだと。
「中川さん・・」
阿部は中川の肩を、チョンチョンと突いた。
「これ、私のかあちゃん」
「えええええ~~~!」
阿部らは一斉に叫んだ。
すると他の客は何事かと、彼女らを見ていた。
「ちょっと、愛子。これってなによ、これって」
「あのさ、わけはあとで話すけどよ、かあちゃんも一緒に行くから、よろしく頼むぜ」
中川は亜希子を無視してそう言った。
「一緒にて・・試合に・・?」
また阿部が訊いた。
「そうなんでぇ。ったくよ・・」
「あの、初めまして。私、阿部と申します」
「初めまして、重富です」
「初めましてぇ、森上ですぅ」
「初めまして、郡司です」
「うんうん、みんなの名前、知ってる!まあまあ、あなたたちがそうなのね~!」
「かあちゃん、うるせぇよ」
「私、精一杯応援するから、みんな、頑張ってね!」
「お母さん、もう降りますよ」
日置が言った。
「ああっ、そうなのね。嫌だわ、私ったら、ギリギリまで寝てたのね」
亜希子は手櫛で髪を整えていた。
「きみたちも、行くよ」
「はい」
そして一行は、乗降口のデッキへ向かった。
靴を履く際、阿部らはつっかけに驚いていた。
そしてなぜ、中川の母親がここにいるのかが、理解不能だった。
乗降口では船長を初め、船員たちが客を見送っていた。
「船長!」
増田がニッコリと笑って亜希子を呼んだ。
「おう、増田くん。早起きだね」
この会話を聞いた彼女らは、ますます混乱した。
なぜ中川の母親が船長なんだ、と。
「よく眠れましたか?」
「そうなのよ~、もう起こされるまで寝てたのよ」
「あはは。それはよかったですね」
「中川さん」
船長の亀井が呼んだ。
「はい~」
「またのご利用、お待ち申し上げております」
「もちろんよ!四国へ旅する時は、関西汽船以外考えられないわ!」
「ありがとうございます」
亀井はとても嬉しそうに微笑んだ。
「では、みなさん、お気を付けて」
亀井は帽子のつばを掴んで、少し頭を下げた。
日置と彼女らは、一礼してタラップを降りた。
「とても楽しかったわ。ありがとう~~!」
亜希子は桟橋から手を振っていた。
そして一行は、高松駅へ向かった。
道順は日置も和子も知っているため、迷うことはなかった。
「まだ街は眠っているみたいね~」
亜希子が言った。
今はまだ六時にもならない早朝だ。
車の往来もなく、歩いている殆どが、同じ船に乗っていた者たちだった。
「寒くないですか?」
阿部は、夏といえども早朝は冷えるので、Tシャツだけの亜希子を気遣った。
「ありがとう~。でも平気よ」
そこで中川はジャージの上着を脱いで、亜希子に渡した。
「愛子~お母さんはいいのよ」
「風邪なんざ引かれちゃ、たまったもんじゃねぇからな」
「あら~そうなの。じゃ」
そう言って亜希子はジャージを着た。
「あはは、私が試合に出ようかしら」
「なに言ってんでぇ」
「あんたが勝ったの、天地だっけ?イカゲルゲだっけ?」
「アンドレだよ」
「ああ、そうだったわ。じゃ、私は天地と対戦ってことで」
「だからー、今日は、天地らは出てねぇっつってんだろ」
二人の様子を見ている彼女らは、日置と同様、この親にしてこの子ありだと思った。
そしてクスクスと笑っていた。
ほどなくして駅のコンコースに到着した一行は、ベンチにバッグを置いた。
「あそこの水道で、顔を洗おうか」
日置はそう言って、バッグの中から歯ブラシと歯磨き粉とタオルを出した。
彼女らも日置に倣い、それらを出していた。
「あら、私、なにも持ってないわ」
「あの、よかったら、これ使ってください」
重富が歯ブラシを亜希子に差し出した。
「いえいえ、私はいいのよ」
「これ、使い捨てのなんです。何本も持ってますので」
重富は自分の歯ブラシを見せた。
「あら~なんて用意のいい子なの。愛子、あんたも見習いなさい」
「うるせぇよ」
「じゃ、遠慮なく使わせてもらうわね」
そして一行は水道へ行った。
日置らから遅れること、十分。
そこへ滝本東の一行が現れたのだ。
当然のように、中川は大河を見つけた。
けれども声をかけたくてもかけられない。
なぜなら亜希子がいるからである。
「小川さん、おはようございます」
日置はベンチから立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
「おお、桐花さん。おはようございます」
「同じ船だったんですかね」
「僕らは加藤汽船やけど、きみらも?」
「いえ、僕たちは関西汽船です」
弁天ふ頭から出る船は、二社あった。
その一つが加藤汽船である。
そこで大河も中川を見つけた。
二人は互いに顔を見合わせ、大河はニッコリと笑った。
けれども中川の顔が強張っているではないか。
ぐぬぬ・・
今すぐにでも駆け寄って・・
おはようと言いたい・・
それにしても大河くん・・早朝から、なんて素敵なの・・
不思議に思った大河は、中川の傍へ行った。
ああっ・・
来ないで・・
来てはダメよ・・
「中川さん、おはよう」
「え・・」
「どしたん。具合でも悪いんか?」
「いえ・・」
そこで大河を見た亜希子は、また娘に言い寄る男だと勘違いした。
「ちょっと、あなた」
亜希子が大河を呼んだ。
大河は黙ったまま亜希子を見た。
「この子は大事な試合があるのよ。余計なことしないでほしいんだけど」
「え・・」
「娘に言い寄らないで」
「おい、かあちゃん!なに言ってんでぇ!」
大河は驚いた。
母親が付いてきたのか、と。
しかもなぜ、つっかけを履いているんだ、と。
「すみませんでした」
大河はそう言って、チームメイトの元へ戻った。
あああ・・
大河くん・・違うのよ・・
どうしよう・・
おのれ・・クソババア・・
余計なこと言いやがって・・
この様子を見ていた日置も彼女らも、中川がどうするのかと心配していた。
「おい、かあちゃん!」
「なによ」
「ずっと、何度も何度も言い寄ったのは、私だ!」
「はあ?」
「私が大河くんを好きになって、何度もしつこく、言い寄ったんでぇ!」
「え・・なに、その名前」
亜希子は、当然のように苗字に反応した。
「大河くん!大きいにさんずいの河!」
「あんたさ、名前にほだされたんでしょ」
「ちげーって!ったくよ、だから嫌だったんだよ!」
「なにがよ」
「ったくよ、一生、船長やってろってんだ!」
そして中川は慌てて大河の元へ行った。
「先生、これ、どういうことなんでしょう」
亜希子が訊いた。
「ああ・・それはですね・・」
「あの、おばさん」
阿部が呼んだ。
亜希子は黙ったまま、阿部に目を向けた。
「中川さん、大河くんのこと、ずっと好きやって。ほんで中川さんが言うてたんがほんまです」
「あらら・・そうだったの・・」
一方で中川は、「母がごめんなさい」とひたすら頭を下げて謝っていたのである―――




