321 手応えのない相手
―――「よーう、犬神野郎」
コートについた中川は、横溝に向けてそう言った。
横溝は、すぐに横溝正史のことだとわかった。
なぜなら、学校では「佐清」呼ばれているからだ。
佐清とは『犬神家の一族』という小説の登場人物の一人だ。
そして横溝は、開会式を「ぶち壊した」中川を警戒していた。
横溝は中川を無視して、台の下のポールにタオルをかけていた。
「けっ、無視かよ」
そして横溝は立ち上がり、何事もなかったかのように台についた。
「3本練習」
審判はそう言って中川にボールを渡した。
横溝はシェイクの攻撃型だ。
たとえるなら、三神の向井と同じタイプだ。
そして二人はボールを打ち始めた。
すると横溝は、気分を害しているのか、まるでスマッシュのような強いボールを打っていた。
「おいおい、おめー。練習段階でそれじゃあ、試合になったらバテんぞ」
「・・・」
「力を抜けよ、力をよ」
「・・・」
横溝は中川を睨んでいた。
おお・・犬神野郎・・
気合十分じゃねぇか・・
おうよ・・
そうでねぇとな・・
張り合いがねぇってもんよ!
やがてジャンケンをして勝った中川はコートを選択した。
「ラブオール」
主審が試合開始を告げた。
「お願いします!」
双方は一礼して、いよいよ試合が始まった。
この・・開会式ぶち壊し野郎め・・
よし・・まずは長いのんで・・後ろへ下げたる・・
横溝はバックコースから、フォアのロングサーブをバッククロスへ送った。
中川はなんなくバックカットで返した。
カーン
一枚ラバーの堅い音が鳴った。
そうか・・バックは一枚やな・・
そして横溝は、フォアに入ったボールを、フォアクロスへドライブを打った。
うーん、どうすっかな・・
早くもズボールで、クルクルダンスを踊らせてやってもいいが・・
ここは、バックへ送って・・ラバーを確かめねぇとな・・
そして中川はバックストレートへカットで返した。
すると横溝は、ツッツキでバックへ返した。
ほーう、裏か・・
中川はラケットを反転させ、フォアへ切って返した。
すると横溝はまたドライブを打った。
犬神野郎には・・ストップはねぇな・・
こいつぁ~・・楽だぜ・・
中川の思った通り、横溝にストップはなかった。
とにかくドライブを打ち続け、チャンスボールを作るというパターンの選手だった。
こうしてカットとドライブの応酬が、何球か続いた。
―――観客席では。
「中川くん、珍しく慎重ですね」
皆藤が言った。
「一回戦ですから、ズボールは封印してるんですかね」
予選の際、中川と対戦した向井が言った。
「あの子は、何回戦とか関係ありませんよ」
皆藤はニッコリと笑った。
「ほなら、緊張してるってことですか」
関根が訊いた。
「いえ、あの子の辞書に緊張という文字はありません」
「ですよね・・」
「はてさて・・何を考えているのか楽しみでなりません」
―――コートでは。
特に・・なんてことないカットやん・・
横溝はそう思っていた。
よし・・ここは思い切りドライブをかけて・・
そして横溝は、力一杯回転をかけたドライブをフォアクロスへ放った。
けっ・・鈍らドライブごとき・・
こちとら屁でもねぇぜ・・
そして中川は、なんと後方からロビングを放ったのだ。
「えっ」
こう言ったのは日置だった。
「中川さん、なんでロビングやねん!」
阿部が言った。
「あの子、なに考えてるんや」
重富もそう言った。
「なんのつもりやろぉ・・」
森上も心配した。
「先輩・・」
和子も唖然としていた。
一方、比較的背の高い横溝は、チャンスボールが来たとばかりにスマッシュを打った。
すると中川は、再びロビングで返した。
これはかなり山なりの高いボールだ。
けれども横溝は意に介さず、舐めるなとばかりに飛び上がってスマッシュを打った。
すると中川はなにを思ったか、全速力で前に駆け寄り、そのボールをカウンターで打ち返したのだ。
バックストレートにスピードの乗ったボールは、横溝の横を通り抜けて後ろへ転がっていた。
「サーよし!」
中川は力強くガッツポーズをした。
「ナイスボール!」
日置は拍手をしていた。
「ナイスボールやけどーーー!」
阿部はそう言った。
「あんなんするか・・」
「中川さぁん~もう1本やでぇ~」
「先輩・・なに考えてはるんやろ・・」
「よーう、犬神よ」
中川が呼んだ。
横溝は黙ったまま中川に目を向けた。
「ふふふ・・」
中川は不気味に笑った。
「おめー、私を並のカットマンだと思うなよ」
「・・・」
「今の攻撃なんざ、ほんのご挨拶さね・・」
「・・・」
「まあ、楽しみにしてな・・」
そう、中川は初めからズボールを出すのはもったいないと思っていたのだ。
横溝程度のドライブやスマッシュなど屁でもない中川は、カウンターで返せると読んだ。
攻撃も出来ると見せた後で、とどめのズボールを出し、相手をとことんまで追い詰めるという「寸法」だったのだ。
その頃、別の観客席では選手宣誓をした男子が観ていた。
「変なカットマンやな・・」
男子はこう思っていた。
なぜなら、とりあえずカットに徹するのがカットマンだ。
これが互いに一歩も譲らない展開になっているなら、あるいは「打開策」としてロビングもありだ、と。
けれども試合はまだ始まったばかり。
ロビングは、攻撃型にとってチャンスボールでしかない。
なにを考えているんだ、と。
中川にとって、いや、カットマンにとってストップのない攻撃型ほど楽な相手はいない。
その後も中川は徹底的に拾い続け、最後に打ちミスをするのは横溝だった。
「おいおい、犬神よ!」
中川が呼んでも横溝は返事すらしなかった。
「おめー、練習してんのか」
「えっ」
横溝は初めて口を開いた。
「これ、試合だぜ?試合」
「言われんでもわかってるし」
「こちとら、命のやり取りやってんだ」
「命のやり取りて・・」
「ったくよ・・おめーらみてぇなもんが代表で、三神が予選落ちたぁ、どういうこった」
「中川さん!」
日置が呼んだ。
中川は振り向いて日置を見た。
「四の五のはいいから、試合を続けなさい」
「わかってらぁな」
「中川さん!」
阿部が呼んだ。
「なんでぇ」
「中川さんの寸法でやったらええねや!」
「そうそう、寸法や、寸法!」
「段取りでもええよぉ~」
中川は思わず笑った。
「はいはい」
この後、中川は結局、ズボールを出すまでもなく、横溝のミスを引き出していた。
そして20-6とラストを迎えた時であった。
相変わらずカットとドライブのラリーが続いていた。
すると中川はフォアに入ったボールに対して、台の下低くでラケットを複雑に動かし、ようやくズボールを出したのだ。
ボールは横溝のミドルでバウンドし、絶好のチャンスボールと見た横溝は、思い切りスマッシュを打ちに出た。
「右だぜ」
中川がそう言った。
横溝は一瞬、なんのことだと思ったが、迷うことなくラケットを振った。
するとボールは右へククッと曲がり、横溝のラケットは空を切った。
「サーよし!」
中川は手応えがない、といった風に小さくガッツポーズをした。
これで驚いたのが、紀伊南ベンチであり、横溝だった。
なんだ、今のは、と。
たまたまなのか、と。
けれども中川は曲がる方向を予測していたぞ、と。
「犬神よ・・」
中川が呼んだ。
横溝は唖然としたまま中川を見た。
「言ったよな。私は並のカットマンじゃねぇと・・」
「・・・」
「次のセットは、おめーを踊らせてやっからよ、楽しみにしてな」
中川はそう言ってベンチに下がった。
―――観客席では。
「ラストに一球だけですか」
皆藤はズボールのことを言った。
「中川さんらしくないですね」
野間は、中川なら全球ズボールを出しても不思議ではないと思っていた。
「確かにそうですが、横溝くんにはストップがありませんので、ズボールを出すまでもなかったのでしょう」
「なるほど」
「でもこれで、横溝くんは、成す術がなくなりました」
「あのカットを見せられたら、簡単にドライブは出せませんからね」
「ほな、次はツッツキに代えるんですかね」
一年生の一人が訊いた。
「そやね。ツッツキからの速攻しかないよな」
「でも・・最後のカット・・あれがズボールですか・・」
別の一年生が言った。
「あれな、自在に曲げられるんやで」
向井が答えた。
すると一年生はみな驚いていた。
一方で、宣誓をした男子は、今しがたのカットを見て驚愕していた。
なんだあれは、と。
あんなの見たことがないぞ、と。
血へどを吐くような練習て言うてたけど・・
なるほど・・
いまようやくわかったで・・
そして男子は試合時間が近づき、階段に向かって歩いていた。




