32 コートに突き刺さるようなボール
それから季節は六月も中旬に差し掛かり、日置と森上、日置と阿部のマンツーマン練習は、ますます熱を帯びていた―――
森上は、フォア打ち、ショート、ツッツキ、ドライブと、最低限の基本は身に着けていた。
それでも応用には全く手をつけておらず、試合で勝たせるためには、応用は絶対である。
ドライブの次は、フットワーク、サーブ、サーブレシーブ、スマッシュの連打、等々、やることは山積していた。
朝の一時間練習では到底足りない。
いくら呑み込みの早い森上とはいえ、時間のなさに日置は頭を痛めていた。
「じゃ、今日からフットワークやるからね」
練習前に日置が言った。
「はいぃ、よろしくお願いしますぅ」
そこで日置は、台に着く森上の隣に立った。
「まず、構えて」
「はいぃ」
森上はフォア側に構えた。
「うん、それで、次はここ」
日置はバック側に森上を移動させた。
「その時にね、反復横飛びの要領で、フォアとバックに動くんだよ」
「わかりましたぁ」
「じゃ、やってみて」
そして森上は、フォア、バックと反復横飛びを繰り返した。
「そうそう。もう少し早く動いてみて」
すると森上はスピードを上げて動いた。
森上の身体能力は、やはり抜群だった。
見た目は動きが遅いと思われるような大柄な森上だが、森上の歩幅は普通の女子よりも大きく、それゆえ動く範囲も広がる。
加えてスピードもある。
「よし、じゃ、ボールをフォアとバック、一球ずつ交互に送るからね」
日置はそう言いながら台に着いた。
「返球は、全て僕のここね」
日置は、自分のコートのフォアを指した。
「わかりましたぁ」
そして日置はサーブを出し、森上は返球した。
そして直ぐにバックへ動いた。
打つと同時にフォアへ移動した。
これを何往復も続けた。
「そうそう、いいね」
次第に森上の息は上がりつつあったが、森上は動きを止めなかった。
「まだいけそう?」
日置は打ちながら訊いた。
「いけますぅ、ハアハア・・」
「よーし」
この子は、ほんとにすごい・・
特に、フォアからバックへ回り込むときの、足の動きが大きいし、スピードもある・・
その上、ミスをしないで、確実に僕のところへ返す・・
こんな子・・見たことないよ・・
「先生ぇ・・」
森上は打ちながら呼んだ。
「なに?」
「もっとスピード上げてもええですぅ」
「え・・」
日置は唖然とした。
ほんとか・・と。
「じゃ、速くなるよ」
「はいぃ」
そして日置は、返球のスピードを上げた。
すると森上は、打つ際に「うっ」と言いながらも、懸命に返し続けた。
そしてフットワークは、途中でミスもあったが二十分も続いたのだ。
並の選手なら、とっくにへばっているレベルだ。
「ハアハア・・」
森上は、腰に手を当てて、激しく肩で息をしていた。
「大丈夫?」
「はいぃ・・ハアハア・・」
「五分、休憩しようか」
「いえぇ・・一分でええですぅ」
「え・・」
「時間がもったいないですからぁ」
「無理しちゃダメ。この後、授業もあるんだからね」
「いえぇ・・私が練習できるんはぁ・・朝だけですからぁ・・ハアハア・・」
「森上さん・・」
「もう、休めましたぁ・・お願いしますぅ」
そう言って森上は構えた。
「ほんとに大丈夫?」
「私ぃ、早く覚えたいんですぅ。だからお願いしますぅ」
「わかった。じゃ、出すよ」
そしてまた、フットワークは二十分も続いたのだ。
森上は、今日から始めたばかりの「新しい練習」を、しかも誰もが体力の限界に苦しむフットワークを、まるでずっとやって来たような動きとスピードで、やりこなしたのだ。
「じゃ、今日はここまでね」
「はいぃ・・ハアハア・・ありがとうございましたぁ」
「授業、大丈夫かな」
「平気ですぅ・・ハアハア・・」
「じゃ、着替えて教室へ行くようにね」
「先生ぇ・・」
「なに?」
「私にぃ、遠慮せんといてくださいぃ」
「え・・?」
「もっと厳しくしてくれてもぉ、ええですからぁ」
「そんなこと、わかってるよ」
日置はニッコリと微笑んだ。
「え・・」
「きみが上達すればするほど、僕は厳しくなるから」
「そうですかぁ」
「覚悟しておいてね」
日置がそう言って笑うと、森上もニコッと笑った。
タレ目の森上の笑顔は、なんとも愛くるしく、日置の心を癒すようだった―――
この日、学校を終えて帰宅した森上は、慶太郎を連れて、『よちよち卓球クラブ』の前に立っていた。
「お姉ちゃん~また行くの~」
慶太郎が森上を見上げた。
「お姉ちゃんなぁ、なかなか練習できひんからなぁ、ここで練習しよと思てんねぇん」
「でもさ~前にあかんて言われてたやん~」
「だからぁ、また頼んでみるねぇん」
「ふーん」
慶太郎は、全く興味がなさそうだ。
そして森上は、扉を開けた。
「すみませぇん」
中にいたのは、小屋の主、秋川と、中年女性の中島だけだった。
二人は椅子に座って休憩をとっていた。
「あら~森上さんやないの」
中島がそう言った。
この中島は、比較的森上に好意的だった。
以前、森上が訪れた時も「打っていく?」と声をかけていた。
秋川は、また来たのかといった風に、森上と慶太郎を見ていた。
「あのぉ・・ここで練習させていただくことはぁ、無理ですかぁ」
「だから、前にも言うたけど、ここは老人クラブなんや」
秋川は、突き放すように言った。
「ちょっと、秋川さん。別にええやないの。で、私は老人ちゃうし」
「学校に、クラブないんか」
「はあ~これやから、老人はあかんのよ。この子、前に言うてたやんか。弟の世話せんならんて」
「そうやったかいな」
「今は二人だけやし、ええんと違う?」
「きみ、卓球歴は、なんぼほどやねん」
秋川が森上に訊いた。
「まだぁ、始めたばかりでぇ素人なんですぅ」
「なんや、素人かいな」
秋川は、後藤には手も足も出ないが、卓球の実力は上の方だと自負していた。
実際、秋川は、よちよちでは二番手だった。
「素人はなぁ、かなんねや」
「もう、秋川さん。若い子にそんなん言うたったらかわいそうやんか」
「せやけどな、わしら、ピンポンやっとるんとちゃうで。卓球や、卓球」
「そらそうやけど」
「ラリーでけんことには、練習にならんのや。今度、試合もあるしな」
秋川らは、七月の初旬に『ランラン・ベテラン卓球大会』を控えていた。
市内からのクラブチームが集まり、その殆どが老人クラブだが、特に年齢規定は定めておらず、中には稀に中年や若者もいた。
けれども、その中年や若者も、みな初心者レベルだ。
なぜなら、経験者はそもそも、老人の大会になど興味もないし、出場することがないからだ。
「今回は優勝やで」
「ああ、後藤さんが入ってくれたからな」
「そうや。やっと念願の優勝や」
「こんにちは」
そこに、一人の中年男性が現れた。
「おう!待ってたで。コーチ」
その男性は、森上を横目で見ながら中へ入って行った。
「いやあ~いらっしゃーい」
中島は、この男性がお気に入りだ。
自身や、よちよちの老人よりずっと若く、なによりコーチを頼むほどの実力者だからである。
「瀬戸さん、こないだの試合、どうやったん?」
中島が訊いた。
この瀬戸は、中高を卓球部で汗を流した。
さほど強いチームではなかったが、老人相手にコーチする程度の実力は備えていた。
「まあ、軽く優勝ですわ」
「やっぱり~!さすがやねえ」
瀬戸が出た試合は、町内の小さな大会だった。
殆どが素人の中、当然のように瀬戸は優勝した。
「ほな、きみな、悪いけど帰ってくれるか」
秋川が森上に言った。
「この子、誰ですか」
瀬戸が訊いた。
「なんや、練習させてくれ言うてな」
「へぇーいいんとちゃいますか」
「ねぇー瀬戸さんもそう思うやろ~」
「せやかて、素人なんでっせ」
秋川は、いかにも邪魔だと言いたげだ。
「きみ、素人なん?」
瀬戸が森上に訊いた。
「はいぃ、素人なんですぅ」
「でも、練習したいということは、興味はあるんやな」
「ありますぅ」
「僕と打ってみる?」
「ちょっと、瀬戸さん、あかんて」
秋川が止めた。
「まあ、ええやないですか。後でちゃんとコーチしますから」
「しゃあないなあ・・」
それでも秋川は不満げだった。
「森上さん、おいで、おいで」
中島が入るように手招きした。
「なんか、すみませぇん」
そして森上は、慶太郎を連れて中へ入った。
「ぼく、こっちおいで」
中島が慶太郎を呼んだ。
慶太郎は、森上の後ろに隠れて動かない。
「慶太郎ぉ、今からお姉ちゃん、練習するからぁ、おばちゃんとこ行っといてぇ」
「そやそや、ぼく、ええもんあげよ。ほら」
中島は、ポケットの中から飴玉を出した。
すると慶太郎は、森上を見上げた。
「うん、もらったらええよぉ」
すると慶太郎は嬉しそうに中島のところへ行き、隣に座った。
「ほな、きみ、打とか」
瀬戸はバッグを椅子に置き、中からラケットを出した。
「あのぉ」
そこで森上は、中島を呼んだ。
「ん?」
「ラケット・・貸してもらえますかぁ」
「ああ、はいはい、どうぞ」
中島のラケットはペンの裏だ。
けれどもラバーは「薄」を使っていた。
そう、スポンジの厚さが森上と違うのだ。
「ボールの打ち方――」
瀬戸がそう言いかけると、瀬戸は森上の構えを見て唖然としていた。
なんだ、この玄人はだしの構えは、と。
背の高い森上は、腰をかがめ、前傾姿勢を保ち、今にも襲い掛かって来そうではないか。
「サーブ・・出すけど」
「はいぃ」
「打てる・・?」
「多分・・」
そして瀬戸は、普通のロングサーブを出した。
これも打ち返せないだろうと思って出したのだ。
そう、構えくらい素人でもできるだろう、と。
するとどうだ。
森上のボールは、スパーン!と音を放ち、瀬戸のフォアコースへ刺さるようにバウンドした。
驚いた瀬戸は、思わず見送ってしまった。
「きみ・・素人ちゃうやんか・・」
瀬戸は、呆然としながら呟いた。
後ろで見ていた秋川も中島も、言葉を失っていた。
「ほな、サーブ出すで」
瀬戸は気を取り直して言った。
「はいぃ」
瀬戸がサーブを出すと、森上はさっきと同様刺さるようなボールを打ち返した。
瀬戸もなんとか打ち返した。
そして森上も打ち返し、何球かラリーが続いた。
森上は、正直、遅いボールやなぁ、と思っていた。
そこで瀬戸は、ミスをしない森上に業を煮やしたのか、倍以上のスピードで返球した。
すると森上は、いとも簡単に打ち返し、瀬戸はオーバーミスをした。
よちよちの小屋では、時間が止まったかのように、秋川ら三人は仰天していた。
そんな中、慶太郎だけが、飴玉を美味しそうに食べていたのだった。




