304 日置の意思表示
―――そして翌日。
日置は朝から鍵屋を呼んで、ドアノブの交換を頼んでいた。
「えーっと、これで終了です」
鍵屋はドアノブをガチャガチャと捻って、ずれがないか確認していた。
「ありがとうございます」
「では、代金は――」
鍵屋は金額を言って、日置は代金を払った。
「では、こちらが領収書です」
「はい」
「まいど、ありがとうございました」
鍵屋は帽子のつばに手をやって、廊下を歩いて行った。
日置は真新しいドアノブを見ていた。
うん・・これでいい・・
その実、ドアノブを換えたのは、小島を拒否するためではなかった。
いや、ある意味、拒否になるのだが、日置は自身の気持ちにケリをつけるためにそうしたのだ。
なぜなら小島は合鍵を持っている。
何かの折に、来るかもしれない。
そうなると、気持ちが揺らぐ。
ドアノブを換えれば、来ても入れないし、自分が帰宅した時、僅かの期待もしなくて済む。
そう、来てるかもしれない、という期待だ。
それは日置にとって辛いことだった。
そして日置は、こうも考えていた。
小島が来て、玄関前で待ってることもあるだろう、と。
そうなると換えた意味がなくなる。
そこで、近々、引っ越そうと考えていたのだ。
引っ越し先は誰にも教えない。
すると、時間が経つにつれ、自然と忘れられる日が来る、と。
それが唯一、自分を保てることなのだ、と。
―――旅館では。
桂山化学一行は、朝食を済ませた後、ほどなくして出立していた。
中川ら四人は、「まとも」な女子高生として、朝から働いていた。
「きみ、高校生?」
客の男性が中川に訊いた。
「さようでございますわよ。見習いですの」
中川は客を部屋に案内していた。
「きみ、美人やなあ」
「そんな・・おほほ・・」
「なあ・・今晩、お酌してくれへんかな」
「いえ・・わたしくどもは下働きですので、それはできかねますのよ」
「そんなん言わんとさあ」
けっ・・スケベジジィがっ!
てめーの女のケツでも触ってろってんだ!
「ささっ、お客さま、お部屋はこちらでございます」
「うん」
「では、どうぞごゆっくり」
中川が去ろうとすると、男性は中川の腕を掴んだ。
「あっ、なにをなさるんですか」
「中まで案内して」
「いえ、ご案内はここまででございます」
「ええやん、ほら」
男性は中川を部屋へ入れようと引っ張った。
「お客さま、止めてください」
中川は、桐花の名を汚してはならぬと、懸命に我慢していた。
そこへ森上が客を案内してやって来た。
「ああっ、中川さぁん!」
「森上!助けれくれ!」
森上はすぐさま駆け寄り、「お客さまぁ!手を離してくださぁい!」と男性の腕を掴んだ。
「きみ、わしは客やぞ!」
「そんなん関係ありませぇん!」
そして森上は男性の腕を捻った。
「痛っ!なにすんねや!離せ!」
中川は焦った。
森上は頭に血が上ると、なにをしでかすかわからない。
予選の際、電車で不良男子に襲われた時がそうだった。
森上は拾ったカッターナイフで、男子を切りつけようと襲い掛かったからである。
「森上!わかった、わかったから、手を離せ!」
このままだと、腕を折りかねない。
中川は必死になって止めた。
すると森上はやっと手を離した。
「中川さぁん、大丈夫なぁん」
「おう、大丈夫だ」
「おい、きみら!」
男性が怒鳴った。
「はい、お客さま、なんでございましょう」
「ようも客であるわしに、こんなことしたな!」
「申し訳ございません」
「責任者呼んで来い!」
「あの」
そこへ森上が案内してきた客が声をかけてきた。
「なんやねん、お前ら」
その客は、男性二人連れだった。
「僕ら、見てましたけど、明らかにおたくが悪いですよ」
「なに言うてんねん!」
「この子、部屋へ連れ込もうとしてたやないですか」
「仲居なんやから、当り前やろ」
「どこの世界に、連れ込まれる仲居がいてるんですか」
「なっ・・」
「責任者を呼んでもええですよ。僕らが証人になります」
「ふんっ・・」
すると男性は、不満げに部屋へ入って行った。
「きみ、大丈夫か?」
「はい・・お客さま、ありがとうございました」
「客にも色々とおるから、大変やな」
「はい・・」
「でも、今みたいな時は、大声出して叫ぶべきやで」
「それにしても、きみやがな」
もう一人の男性が森上を見てそう言った。
「え・・」
「きみ、ええ体してるなあ」
男性は、森上を上から下まで見ていた。
「えっ・・」
「あの・・お客さま・・森上をそんな目で見られると困るのでございますよ」
「あはは、ちゃうちゃう」
「え・・」
「僕ら、自衛官やねん」
「えええええ~~!」
二人は同時に声を挙げた。
「今日は非番でな」
「まあ~~お国のために、日々、ご苦労様ですっ!」
中川が敬礼した。
そして森上も中川に倣った。
「案内、ご苦労さん」
「いえっ!当然の任務でありますっ!」
「あはは、おもろい子やな」
そして男性らは部屋へ入って行った。
「かあ~~自衛官たぁ、驚き桃の木さね」
「ほんまやなぁ」
「それにしてもよ、客商売っつーのは、大変だよな」
「そやなぁ」
「客にも色々でよ、仲居の仕事っつーのは、私らが思ってたより何倍もの苦労があんだな」
中川と森上は、ほんの短期間ではあったが、客に何を言われても耐え抜く体力と精神力が必要なのだと、働く大変さを学んだのである。
それは阿部と重富も同じだった。
やがて午後を迎えるころには、彼女らは仕事の全てを終えて、フロントで清算を済ませようとしていた。
「今回は、私たちの無理を聞いてくださって、ありがとうございました」
阿部が男性にそう言った。
「いえ、よく頑張りましたね」
「ありがとうございます」
「ちょっと待っててね」
男性はそう言って奥に入って行った。
ほどなくして男性は、蓮川を連れて戻って来た。
「ああ、きみたち。ご苦労様でした」
「こちらこそ、大変いい経験をさせていただきました。それで、清算をしたいんですが」
「うん、それなんやけど、よう働いてくれたので、お代は結構です」
「えっ」
阿部ら四人は顔を見合わせて驚いていた。
「おいおい、蓮川の旦那」
中川がそう言うと、蓮川と男性は目が点になっていた。
「旦那・・」
「こちとら、タダ飯食らう気はねぇぜ」
「え・・」
「働かせてくれただけでも、ありがてぇんだ。だから払うもんは払うぜ」
「あはは、きみ、江戸っ子?」
「おうよ」
「きみらの気持ちはようわかる。それで、はい、これ」
蓮川は、封筒を四枚カウンターに置いた。
「これ、なんでぇ」
「お給料です」
「ええええええ~~~!」
彼女らは一斉に声を挙げた。
「給料って・・」
「労働には報酬が発生します。当然の措置ですよ」
「いやいや、いいって。こんなもん、もらえねぇやな」
「遠慮せんと、受け取ったらええよ」
男性がそう言った。
「その代わり、またここを利用してください。もちろんお客さまとしてね」
蓮川がそう言った。
「おうよ!伊勢と言やぁ、伊勢清風と、神代の昔から決まってらぁな!」
「あははは」
蓮川と男性は、声を挙げて笑った。
「よし、おめーら、ありがたく頂戴しな」
中川がそう言うと、彼女らは蓮川からそれぞれ封筒を受け取っていた。
こうして彼女らの「小島奪還作戦」は、幕を閉じたのである。
―――一方、小島は。
伊勢からの帰り、その足で日置のマンションへ向かっていた。
小島は急いで階段を駆け上がり、305号室に到着した。
あれ・・
小島はドアノブが違うことに気が付いた。
なんでや・・
これ・・どういうことなん・・
そこで小島は、呼び鈴を押した。
けれどもなんの反応もない。
いてへんのかな・・
小島はドアノブに触れ、ガチャガチャと捻ってみた。
当然、鍵はかかっていた。
「先生!小島です」
呼んではみたものの、なんの返答もない。
小島は試しに合鍵を鍵穴に挿し込もうとしたが、入りすらしなかった。
嘘やん・・
これって・・そういうことやんな・・
もう・・来るなってことやんな・・
先生・・
違うんです・・
誤解なんです・・
お願いやから・・出て来て下さい・・
「先生!先生!」
小島は何度もドアを叩いたが、うんともすんとも言わなかった―――
一方で日置は、小屋にいた。
籠を台の上に置き、連続でスマッシュを打っていた。
そう、家でこもっていると、耐えられなかったのだ。
日置は気持ちを切り替えようと懸命だった。
月末には・・近畿大会だ・・
翌月すぐには・・インターハイだ・・
僕のやるべきことは、これなんだ・・
あの子たちを全国優勝させることなんだ・・
パシーン!
パシーン!
日置の放つスマッシュの音だけが、小屋に響いていた。
けれども日置の頭の中には、中川が作ってくれた『同じ道』の歌詞が浮かんでいた。
――ねぇ彩ちゃん・・僕を見つめたまま・・大切なことを聞いてほしいんだ・・「それはなに?」慌てなくていいよ・・きみと僕との愛の物語さ・・
「はあ・・」
日置はため息をついた。
そしてラケットを台の上に置き、その場に座った。
考えるな・・
もう忘れるんだ・・
どこに引っ越そうかな・・
もう・・ずっと遠くへ行っちゃおうかな・・
インターハイが終わったら・・
ここを辞めて・・
東京へ戻ろうかな・・
こんな風に考える日置であった―――




