300 一発逆転の時
日置が姿を現したと同時に、森上は大久保と安住の肩に手を置いて、「声を挙げるんじゃねぇぜぇ・・」と耳元で囁いた。
そして阿部と重富も、浅野と蒲内の肩に手を置いて「静かにしろ・・声を挙げるんじゃねぇ・・」と囁いた。
すると大久保も安住も、浅野も蒲内も振り向いて唖然としていた。
なんなんや、と。
「大久保さん・・安住さん・・私ぃ、森上ですぅ」
大久保が叫びそうになると、森上は慌てて大久保の口を塞いだ。
「なにやってんねや・・」
安住はそう言うのが精一杯だった。
「すみませぇん・・これにはよんどころなきぃ、事情がありましてぇ」
「事情て・・」
そこで森上は大久保の口から手を離した。
「森上ちゃん・・どういうことなの・・」
「お願いしますぅ、ここは黙って見ててくださいぃ・・」
「うん、わかったわ。安住、あんたも黙っとき」
「はい・・」
そして浅野も、重富を唖然として見ていた。
「先輩・・私、重富です・・」
「えっ」
「しーっ・・ここは、声を挙げんといてください・・」
「ちょ・・これ・・なんなんよ・・」
「よんどころなき事情がありまして・・」
「よんどころなき・・て・・」
「お願いします・・ここは黙って見ててください・・」
「それに・・先生も・・なにやってんねや・・」
「あとで説明します・・」
「意味・・わからん・・」
狐につままれたような浅野だったが、ここは「事情」を察して重富に従った。
そして蒲内も阿部を見て絶句していた。
「先輩・・私、阿部です・・」
「えっ」
「お願いします・・よんどころなき事情がありまして・・ここは黙って見ててくれませんか・・」
「あ・・あ・・阿部さんなん・・」
「そうです・・」
「な・・なんで・・」
「あとで説明します・・」
そして浅野と蒲内は顔を見合わせて、重富と阿部を改めて見ていた。
ここで驚いたのが小島である。
先生・・
なにやってんや・・
っていうか・・これ・・なんなん・・
そして西島も驚いていた。
小島の彼氏じゃないか、と。
なぜ、ここにいるんだ、と。
新人歌手って、なんなんだ、と。
「えー、改めてご紹介します。新人歌手の、岩窟屁太郎さんです!」
中川が日置を紹介した。
けれども、この場の者は目が点になっていた。
なぜ、ジャージなんだ、と。
歌手ならせめて、スーツだろう、と。
「きゃ~~岩窟さん、かっこええわ~~」
「名前と正反対やん~~」
「素敵~~私、ファンになったわ~」
女性らからは、このような声が挙がっていた。
「ジャージって、なんやねん」
一人の男性がそう言った。
「あああ、お客さま、それはですね、衣装を忘れましてね」
中川は慌てて答えた。
「マネージャーは、どしたんや」
「岩窟さんはですね、新人なもので、まだマネージャーはついてないのでございますのよ」
「へぇ」
「ああっ、岩窟さん、ささっ、みなさまにご挨拶を」
すると日置は、戸惑いながら口を開いた。
「岩窟屁太郎です・・」
「ささっ、みなさま、大きな拍手をお願いします!」
そこで阿部ら三人は「よーーーっ岩窟さん!」と言って、拍手をしていた。
すると他の者も、つられて拍手をしていた。
とくに女性陣は、「きゃ~~岩窟さーーん」と叫んでいた。
「屁太郎ちゃ~~~ん、素敵よ~~~」
大久保は日置を後押しした。
「そやそや、岩窟さん!ジャージでもええですよ!」
安住もそう言った。
「ありがとうございます、ありがとうございます。岩窟でございます。岩窟、みなさまに最後のお願いにやって参りました!」
中川は、何の反応もしない日置に代わって、手を振って応えていた。
「あはは、選挙か!」
「川中さん、やっぱりおもろいわ!」
「さて、岩窟さん、今宵、歌っていただけるのは、なんという曲でございますか」
「同じ道・・です」
「あらまあ!なんて素敵なタイトルじゃございませんか。それでは準備いたしますので、お待ちくださいませ」
小島は思っていた。
先生・・
歌て・・なんなん・・
最も苦手な分野やん・・
しかもこんな大勢の前で・・
信じられへん・・
ほんま・・どういうことやねん・・
「蒲ちゃん・・」
浅野が呼んだ。
「なに・・」
「やっぱりあの人・・中川さんやったやん・・」
「ほんまやな・・」
中川は、カラオケセットにカセットテープを挿し込み、日置にマイクを渡した。
テープには、中川のピアノ演奏が録音されているのだ。
「それでは、岩窟屁太郎、渾身のデビュー曲であります、同じ道。みなさま、どうぞお聴きくださいまし」
そして中川は再生ボタンを押した。
すると、とても優しい音色の前奏が流れた。
日置の顔は引きつっていたが、もう後へは引けない。
そして日置は小島に目を向けた。
「ねぇ彩ちゃん・・僕を見つめたまま・・大切なことを・・聞いてほしいんだ・・」
日置の歌は、まさに棒読みだ。
小島らは、日置の下手さを知っていたが、他の者はあまりの歌唱力に唖然としていた。
どこが歌手なんだ、と。
「それはなに?」
この部分は、中川が歌った。
「慌てなくていいよ・・きみと僕との・・愛の物語さ・・」
大久保と安住は、ある程度の事情を知っているため、日置の心情を想うと胸が張りさけそうになっていた。
一方で浅野と蒲内は、理解不能だった。
この歌詞は、明らかに小島に向けてのものだ。
それをわざわざ、なんで、と。
しかも岩窟屁太郎などという、怪しげな新人歌手を装ってまで、と。
「あの日のきみは・・小さな肩を震わせて・・僕の胸に顔を埋めていた・・」
小島は思わず日置から目を逸らした。
なにをしらじらしく歌ってるんだ、と。
女性と二人でここに泊まっているくせに、なんなんだ、と。
「やっとお互い・・素直になれたこと・・憶えているかい?」
すると小島は立ち上がって、部屋から出て行った。
日置は小島を目で追いながら、呆然としていた。
曲はまだ続いているのだ。
けれども日置は次の歌詞を歌えなかった。
そして浅野と蒲内は、慌てて小島を追いかけた。
「岩窟さん・・岩窟さん・・」
中川が呼んだ。
日置は中川に目を向けた。
「続き・・いやっ、もういい」
中川は小島がいないと無意味だと判断し、停止ボタンを押した。
「おいおい、どしたんや!」
「それで終わりか!」
「へったやのう~~」
「そんなん言わんといてくださいよ、岩窟さん、素敵ですやん!」
「そうやそうや。歌唱力なんて、ええですやん!」
男女の間で言い争いが始まっていた。
「みなさま、みなさま、お静かになさいませ!」
中川が叫んだ。
「ちょっと、川中さん、なんやねんこれ」
「申し訳ございません。岩窟、緊張しておりまして」
「しょーもないのう!」
「ほんまや。王様ゲーム、やろうぜ!」
「そやそや、割り箸、割り箸や!」
おのれ・・野獣どもめ・・
まだ言いやがるか・・
「おめーら、いい加減にしやがれってんだ!」
中川は突然叫んだ。
するとこの場の者は、唖然として中川を見ていた。
「さっきから聞いてりゃ、王様ゲームを連呼しやがってよ!っんな、くっだらねぇクソゲームなんざ、てめーら男どもでやりやがれってんだ!」
「きみ、なんや、その無礼な態度は!」
「けっ。無礼もへちまもあるかよ!女性は嫌がってんだ!このスケベ野獣どもめ!なんなら、私が相手になってやんぞ!」
「中川さん、もう止めなさい」
日置が止めた。
「みなさん、お騒がせして申し訳ありませんでした」
日置はみんなに向かって深々と頭を下げた。
「どういうことやねん!」
「これ、なんなんや!」
「岩窟さんを責めんといてよ!」
「川中さんの言う通りですよ!王様ゲームなんか嫌です!」
また男女の間で言い争いが始まった。
そこで大久保が立ち上がった。
「あんたら!醜い言い争いはそこまでにしぃや!」
大久保がそう言うと、この場は静まった。
「私らは天下の桂山の社員やで!恥ずかしないんか!」
「虎太郎・・」
日置が呼んだ。
大久保はそのまま日置に目を向けた。
「僕の責任だ。申し訳ない」
「なに言うてるんよ」
「みなさん、せっかくの懇親会を台無しにしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。私は日置慎吾と申しまして、教師をやっております」
「なに~~~!教師!」
「教師たるものが、なんちゅう所業や!」
「なにが岩窟屁太郎やねん!」
「言い訳は致しません。心よりお詫びいたします」
日置はそう言って、この場で土下座をした。
「おいおい、先生よ、やめてくんな!全ては私の責任だ」
「先生~~!」
阿部も重富も森上も、日置の元へ駆け寄った。
「慎吾ちゃん、そんなんやめて!」
「日置さん!」
大久保と安住も日置に駆け寄った。
日置の土下座には、さすがに誰も口を開けなかった。
「先生よ、頼むから止めてくれ・・」
中川は日置を立たせようと必死だ。
そして阿部らも手を貸した。
「慎吾ちゃん・・お願い・・やめて・・」
「日置さん・・顔を上げてください・・」
「ちょっと、あんたら!」
大久保が他の者に向けて叫んだ。
「もうええんと違う?文句あるやつは前に出て」
「いや・・文句なんか・・」
「うん・・別に・・」
「土下座なんて・・なあ・・」
「日置さん、でしたか」
庶務課の課長が口を開いた。
「はい・・」
日置はまだ頭を下げたままだ。
「もう結構ですから、立ってください」
すると日置は、ゆっくりと立ち上がった。
「なにがあってこんなこと仕組んだんか知りませんけど、あなた、教師ならやっていいことと悪いことの分別はつきますよね」
「はい・・」
「学校はどちらですか」
「桐花学園です・・」
「桐花・・うちから近いな・・」
誰かがそう呟いた。
「このことは校長に報告しますので、そのつもりで」
「はい・・」
「ちょっと待ってよ、課長~」
大久保が口を開いた。
「なんやねん」
「そらね、私らかて、びっくりしたわよ。せやけど、大した問題でもないやないの」
「いや、大した問題やろ」
「慎吾ちゃんの人柄は、私が一番よく知ってるの。ここは、目を瞑ってほしいわ~」
「きみ、どうやら知り合いみたいやけど、これは見過ごすわけにはいかん」
「課長・・」
そこで、西島が口を開いた。
「なんや」
「もう、ええやないですか」
「きみまでなに言うてんねや」
「別に犯罪を犯したわけやないですし、生徒のこの子らも仲居にまでなって・・」
西島は小島と日置の「不仲」を知っている。
おそらく日置は小島に未練があり、今回のことを仕組んだに違いない、と。
けれども中川を初め、彼女らの行動は、日置に命令されてやったとは思えない。
これには、なにか特別な事情があるのだろう、と。
「お気遣いには及びません」
日置がそう言った。
「僕、自ら校長に報告します」
「慎吾ちゃん・・」
「先生・・」
「本当に申し訳ありませんでした」
日置はそう言って部屋を出て行った。
一方で小島は、トイレで泣いていた。
「彩華、なにがあったんよ」
「これって・・なんなん~」
浅野と蒲内は、小島の横で謎だらけの「事件」に困惑していたのである―――




