281 らしくない中川
一回戦を、あっという間に完勝した榎木のことを、市原はノートにメモしていた。
――三神の榎木は、勝ったのも当然というように、さして喜ぶでもない。とにかく冷静沈着で礼儀正しい。ベンチに着いていた宇都宮と共に、早々とコートを去る。
その横では、和子がコートに向かう準備をしていた。
「さて、郡司さん。頑張るで」
阿部がそう言うと、重富も森上も中川もベンチに着いた。
「はい」
和子は緊張している様子だ。
「ほらほら・・肩に力が入ってるで」
重富は和子の肩を揉んだ。
そして3コートの付近には、徐々に人が集まり始めていた。
なぜなら、三神を倒した四人がいるからである。
「あの人が、森上さんやで・・」
「重富さんもいてはる・・」
「阿部さん・・小さくてかわいいな・・」
「中川さん・・あんな顔やったっけ・・」
このような声が、あちこちから挙がっていた。
ギャラリーの中には、森上にサインを求めた女子も当然いた。
「郡司さぁん、ファイトやでぇ」
森上がそう言うと、その女子は「きゃ~・・」と小さく黄色い声を挙げていた。
「しっかりな!」
「1本ずつ取ったらええで」
阿部と重富も檄を飛ばした。
「郡司よ」
中川が呼んだ。
「はい」
「徹底的に叩きのめす気持ちを忘れんなよ」
「はい」
そして和子はコートに向かった。
阿部ら三人は思った。
いつもの中川なら、「あんな雑魚なんざ、とっとと片付けちまいな!」と、最低でもそう言うはずだ、と。
それがどうだ。
声に張りがなく、「当たり前」のことしか言わない。
けれども昨日の今日だ。
それも仕方のないことだ、と。
コートでは3本練習が始まっていた。
和子のフォームはとても美しく、ギャラリーたちも「へぇ~・・」という感想を漏らしていた。
そう、さすが桐花だと。
一方、神田はコートから離れた場所で見ていた。
神田に卓球のことなどわかるはずもなかったが、緊張しつつも堂々と打つ和子の顔は、教室での「それ」と違うことはわかっていた。
やがて試合が始まったが、手本のような和子のフォームから放たれるボールは狙った場所へ確実に入り、地味ながらも点を重ねて行った。
どの試合に於いても一回戦というのは、緊張もするし、あり得ないミスも少なくない。
彼女らのように一年生であれば、尚更だ。
そんな彼女らにとって最も嫌なのが、和子のような相手である。
派手にスマッシュを決めるわけでもないが、とりあえず返してくる。
スマッシュは、決まれば派手だし相手を威圧できるが、ミスのリスクも高くなる。
けれども和子は「冒険」をしない代わりに、ミスは少ない。
緊張の中、一球でも早くミスをしてほしい相手は、確実性が一番厄介というわけだ。
対戦相手の桑原も例外ではなかった。
そもそも桑原は、和子よりもレベルが下だった。
そんな桑原にとって、なかなかミスをしない和子はやりにくい相手だったのだ。
「郡司さん、そのまま押すで!」
「よーし!ナイスコースや!」
「もう1本やでぇ~!」
阿部ら三人は日置不在の中、なんとか一回戦を勝たせようと、責任を果たすべく必死に応援していた。
中川も「そのまま行け」と声を出してはいたが、いつもの「それ」ではなかった。
「郡司さんて・・上手いよな・・」
「派手やないけど・・ミスが少ないな・・」
「綺麗なフォームやなあ・・」
ギャラリーからは、このような感想が漏れていた。
―――本部席では。
「郡司くん・・成長しましたね」
皆藤がポツリと呟いた。
三善は、また桐花か、と苦笑した。
「手強いですか」
三善は、返答がわかりつつも、わざと訊いた。
「今は全く話になりません」
「そうですか」
三善は「今は」という言葉に、桐花に対する皆藤の本心を見た気がした。
三善も確かにそうだと思った。
いわば、桐花の嘘のような成長ぶりは、自分もこの目で見た。
ゆえに、郡司も例外ではない、と。
「それにしても中川くん・・」
「え・・?」
「いえ・・あの顔といい、いつもの中川くんらしさが全く見られませんね」
「ああ・・」
「なにかあったのでしょうか・・」
「日置監督もいませんね」
「あ、そういえばそうですね」
そこで皆藤は立ち上がり、3コートへ向かった。
―――コートでは。
「ラスト1本やで!」
和子は20-12で大きくリードしていた。
「はい」
和子の顔にも、ようやく緊張から解かれた表情が見られた。
「阿部くん」
そこで皆藤は、ベンチの後方から声をかけた。
「あ、おはようございます」
阿部は振り向いて一礼した。
「郡司くん、頑張ってますね」
皆藤は優しく微笑んだ。
「はい」
「ところで日置くんはどうしたのですか」
「先生は、友達の結婚式に出席してはりまして、今日はいてないんです」
「そうでしたか」
そこで皆藤は中川に目を向けた。
中川は前を向いたまま、コートを見ていた。
「中川くん」
皆藤が呼んだ。
すると中川は振り向き、「よう、じいさん」と力なく答えた。
「きみ、いつもの元気はどうしたのですか」
皆藤は顔のことには触れなかった。
「ああ、えっと、この子、体調が悪いんです」
阿部がすぐに答えた。
「おやおや、風邪ですか」
「そうなんです、風邪ひいてるんです」
「それにしては、Tシャツ一枚とは、不用心ですよ」
「ああっ、そやった!」
阿部は急いでジャージの上着を脱いで、中川の肩にかけてやった。
「無理してはいけませんよ」
皆藤はそう言って、この場を去った。
「チビ助、すまねぇ」
「いや・・ええねんけど・・」
「よーーし!取った、取った!」
重富が手を叩いて喜んでいた。
すると阿部と中川もコートを見て、和子が1セットを取ったことを確認した。
「よしよし!郡司さん、ようやった!」
「よう頑張ったでぇ~!」
和子はベンチに下がり、彼女らに称えられていた。
「次のセットも、今の調子でな」
阿部が言った。
「はい」
「郡司さぁん」
森上が呼んだ。
「はい」
「ミスが少ないんは、ええねんけどなぁ、やっぱりスマッシュ打たんとあかんよぉ」
「はい」
「攻撃は最大の防御っていうやろぉ。打ってミスしてもぉ、相手はラッキーでしかないねぇん。次は打たれまいと甘いボールは返せへんようになるねんなぁ。そのぶん、ミスも増えるってことやねぇん」
「はい」
「だからぁ積極的に行かんとぉ、強い相手には勝たれへんよぉ」
「はい」
「あんたが倒すべき相手はぁ、榎木さんやでぇ」
「はいっ」
そこで市原は、森上の言葉をメモしていた。
その実、市原は、今のでよかったと思っていた。
けれども森上の言うように、勝ち方にも内容が大事なんだ、と。
果たして郡司は、次のセットを森上のアドバイス通りに戦えるのか、と。
「そやな。森上さんの言う通りや。次は打って出よか」
重富が言った。
「はい」
そこで和子は中川を見た。
「おう。森上の言う通りにやんな」
「はい」
そして和子はコートに向かった。
阿部は、和子のことより中川を心配していた。
なんなら、本当に風邪で具合が悪くあってくれ、とさえ思っていた。
中川さん・・
これまで何度も大河くんにフラれたけど・・
今回は・・なんか違う気がする・・
いや・・昨日の今日やし・・
私の思い過ごしかもしれん・・
そう、阿部は、今度こそ中川は卓球を辞めるのではないかとの、直感が働いていた。
そして、どうか外れてくれ、と願っていたのである。
―――その頃、体育館の外では。
小島が今しがた到着していた。
今日は日置が不在ということで、和子や彼女たちが気になって来たのだ。
ちょっと遅れてしもたけど・・
まだ負けてへんよな・・
そして小島は足早にロビーに入った。
えっと・・桐花・・桐花・・郡司・・どこや・・
小島はロビーに貼り出されてある、トーナメント表を見ていた。
「あっ、3コートか。ええっ、第二試合て・・」
小島は時計を見て、慌ててフロアへ足を踏み入れた。
そして3コートを見ると、まさに和子が試合をしているではないか。
「えらいこっちゃ」
小島はそのまま3コート後方まで走った。
「阿部さん」
小島が声をかけると、阿部は振り向いた。
「先輩!来てくださったんですね」
「おっ、郡司さん、1セット取ったんやな」
小島はカウントボードを確認した。
「小島先輩、おはようございます」
「おはようございますぅ」
重富も森上も一礼した。
「よう、先輩」
中川の顔を見た小島は、仰天していた。
「あんた・・その顔、どしたんよ」
「まあ・・色々とあってさ・・」
「え・・」
「いや、こっちのことだ」
勘のいい小島は、大河と何かあったのだと悟った。
なぜなら、見た目がボロボロになる原因は、大概が男性関係だからである。
何を隠そう、かつて自分もそうだった、と。
日置を疑い、挙句には身なりを派手に変えて破局寸前にまでなった。
小島の心配をよそに、コートでは和子が「サーよし」と声を挙げていた―――




