275 親の想い
その後、中川と話をした日置も、意外なまでに元気な中川を見て安堵していた。
そして大事を取っての入院であることにも、まさに不幸中の幸いだったと胸をなでおろしていた。
日置は、病院を出たあと体育館へ戻り、皆藤に事の経緯を詳しく説明すると、皆藤は我がことのように一安心していた。
そして明日のダブルス二組も棄権だということを報せて、日置は学校へ戻ったのである。
夕方になって事件を知った中川の両親は、慌てて病院へ駈け込んでいた―――
「愛子・・あんたほんとに・・顔じゃなくてよかった・・よかった・・」
亜希子は泣いていた。
「母ちゃんよ、っんなことくれぇで、泣くんじゃねぇっつーの」
「お前さ、母さんの言う通りだぞ」
父親の孝文が言った。
「父ちゃんまで、なに言ってんでぇ」
「女の子が顔に傷なんかあれば、一生辛い思いをするんだぞ」
「わかった、わかったから」
「それで、さっき看護婦さんに訊いたんだけど」
亜希子が言った。
「なにをだよ」
「付き添いは必要ないって言うんだけど、私、泊まるからね」
「ああっ?ガキじゃあるめぇし、あり得ねぇっつーの」
「ダメダメ。傷口が悪化してみなさい。大変だわよ」
「悪化するわけねぇだろ。痛くなったらこれで呼べばいいんでぇ」
中川はナースコールのボタンを指した。
「いやいや、あんたはきっと、病院内を探検するに決まってるわ」
「むっ・・」
その実、中川はそうしようと思っていたのだ。
「あんたが黙って寝てるわけないでしょ。ある意味、元気なんだし」
「ったくよー、仕方ねぇやな」
「よし。決まりね」
亜希子はこう言ったものの、看護婦から泊まることは反って迷惑だと拒否され、二人は仕方なく病院を後にしたのであった―――
そして夜になり、中川は亜希子が買ってきた週刊誌に目を通していた。
「くそつまんねぇな・・」
中川はすぐに本を閉じて、「あ~あ、退屈だなぁ・・」と天井を見ていた。
コンコン・・
するとそこでドアを叩く音がした。
むっ・・誰でぇ・・
中川は起き上がって入口を見ていた。
ドアがスーッと開くと、そこには皆藤と野間が立っていた。
「ああああ~~!クラブ探しジジィと、天地じゃねぇか!」
「あはは、お元気そうでよかったです」
二人は中へ入ってドアを閉め、ベッドの傍へ行った。
「中川くん、今日は大変でしたね」
「じいさんよ・・わざわざ心配して来てくれたのかよ」
「当然です」
「え・・」
「だってきみは、大阪の宝ですからね」
「なっ・・なに言ってんでぇ・・」
「中川さん、大変やったね。最初、聞いた時はびっくりしたで」
野間はそう言って、見舞いの果物籠を渡した。
「天地・・済まねぇな・・」
中川は、申し訳なさそうに籠を受け取った。
そして皆藤と野間は、事件の様子を聞き、改めて背筋が寒くなる思いがしていた。
「ところでさ、なんで私は天地なん?」
「それさね。おめー、天地真理に似てんだろ。言われねぇか?」
「ああ、やっぱりそうやったんや」
その実、野間は何度か似ていると言われたことがあったのだ。
「私は、天知茂かと思ってましたよ」
「ぎゃはは、じいさん、渋過ぎんだろうがよ」
天知茂とは、この時代、渋い演技が売りで人気を博していた個性派俳優の名前である。
「ところで、試合はどうだったんでぇ」
「天地くんが優勝。きよしくんが準優勝。三位がクチビルゲくんです」
「あははは、じいさん、面白すぎるぜ~~!」
野間も皆藤の言葉に爆笑していた。
「アンドレは、どうだったんでぇ」
「アンドレくんは、惜しくも四位です」
「するってぇと、三神が全部持って行ったってわけか」
「そうですね」
皆藤は余裕の笑みを見せた。
「くっそ~~、私がこんなことにならなけりゃあ、桐花が全部かっさらってたのによ」
「慌てなくていいです。来年がありますよ」
「おうよ!須藤に、首根っこ洗って待ってなと伝えてくんな」
「はい、そうしますよ」
「先生、そろそろお暇しましょうか」
「そうですね」
「じいさん、天地。ほんとにありがとな」
「いいえ、お大事にね」
二人はニッコリと笑って病室を後にした。
じいさんも、天地も・・いいやつだな・・
そういや・・ゼンジーもいいやつだ・・
三神ってのは・・実力だけじゃねぇんだな・・
そして中川は横になり、探検することも諦めて、大河が頭を撫でてくれたことを思い浮かべながら、やがて眠りについたのであった―――
―――ここは日置のマンション。
小島はシングルの試合結果が気になって、部屋に訪れていた。
そして今しがた、「事件」の話を聞き終えたところだった。
「そんなことになってたやなんて・・」
小島は驚愕していた。
「僕も、中川が刺されたと聞いたから、もうどれだけ心配したか」
「そらそうですよ・・」
「でも、大事に至らなくて、ほんと、やれやれだよ・・」
「ほんま、不幸中の幸いでしたよね・・」
「そうだね」
「先生、疲れはったでしょう」
「いや、安心したから疲れも吹っ飛んだよ」
「よし。ここはいっちょ、腕を振るいますか!」
小島はそう言って、腕をまくって立ち上がった。
「いや、きみも疲れてるだろうし、いいよ」
「いえいえ、なにを仰いますやら」
そして小島は冷蔵庫へ向かった。
ドアを開けた小島は「ええっと~、なにがあったかな~」と、食材を探していた。
「簡単なものでいいよ」
「はいはい~えっと~これと・・これと・・」
日置は小島の姿を、目を細めて見ていた。
そして小島は、食材を手にして台所に立った。
「そういえばさ」
日置がそう言うと、「なんですか~」と小島は背を向けたまま返事をした。
「秀幸と白鳥さん、六月に結婚するんだって」
「えっ!」
小島は思わず振り向いた。
「よかったよね」
「いやあ~~そうなんですね!」
小島は日置の元へ来て座った。
「式に出てほしいって言われたんだけど、一年生大会があるんだよね」
「郡司さんですか」
「うん」
「いや、先生。ここは式に出席すべきですよ」
「そうなのかな」
「郡司さんのことは、阿部さんらに任せたらいいですよ」
「そうなんだけど・・」
「あ・・中川さんのこと、心配してるんでしょ」
小島はほんの少し笑った。
「ああ・・それもあるよね・・」
「それもって、他にも何かあるんですか?」
「郡司さんにも、インターハイで頑張ってもらわなくちゃいけないよね」
「はい」
「一年生大会で、ある程度の成績を収めると、かなり自信がつくと思うんだよ」
「ああ・・そうですね」
「僕は、その自信をつけさせてあげたいんだよ」
「だからそれは、阿部さんらでも大丈夫ですって」
「うーん・・」
「先生」
「ん?」
「舐めたらあきませんよ」
「え?」
「三神に勝ったあの子らですよ」
「ああ・・」
「結婚式は一生に一度やないですか。しかも八代さんでしょ」
「うん」
「それにしても結婚かぁ~いいなあ~」
小島は特に「催促」したわけではなかった。
単に、羨ましいと思っただけなのだ。
「彩ちゃんは、まだ若いし。それに未成年だしね」
「え・・」
「いや・・その・・結婚のこと」
「いやっ、先生、勘違いせんといてください」
「え・・」
「私は、まだまだ結婚なんて考えてませんから」
その実、小島は一日でも早く日置の奥さんなにりたかった。
けれども、それを言ってしまえば、インターハイを控えている日置に負担をかけると思ったのだ。
「そうなの?」
「先生と違って~若いですし、遊びたいですからね~」
「またそんなこと言って。悪い子だね」
「さてさて~」
そう言って小島は立ち上がり、台所へ行った。
先生・・
私はずっと待ってますから・・
先生が・・プロポーズしてくれはるまで・・
ずっとずっと・・待ってますから・・
小島はそう思いながら、野菜を切り始めた―――
そして阿部家、重富家、森上家、郡司家では、事件の話を聞いた親たちは、その内容に愕然としていた。
そしてどの親も「顔やなくてよかった・・」と中川を心配していた。
けれども森上家では違った。
「恵美子・・あんた・・そんな無茶をして・・」
母親の恵子は、一つ間違えれば森上も被害に遭っていたかと思うと、生きた心地がしなかった。
「で、恵美子、ケガはないんか?」
慶三が訊いた。
「うん、大丈夫やでぇ」
「恵美子、頼むから、そんな無茶はせんといてな・・」
恵子は森上の手を触っていた。
「お母さぁん、ごめんなぁ」
「もう・・あんたは・・」
恵子はポロポロと涙を零した。
「もうせぇへんからぁ、安心してなぁ」
「うん・・うん・・」
「せやけど、お父さんは、ある意味嬉しいで」
「ちょっと、お父さん、なに言うてんのよ」
恵子は慶三の言葉に呆れていた。
「だってな、ええ大人がようさんいてたのに、誰も助けんとやな、恵美子が助けたんやろ」
「今回は、それで済んだだけやないの」
「わしは、恵美子を誇りに思うで」
「あんた・・ようそんなこと・・」
「せやけど、恵美子」
「なにぃ」
「お母さんが言うように、今後はあかんで」
「うん、わかってるぅ」
「お前は、偉い!よう助けたな!」
そう言って慶三は森上の頭を撫でていた。
「お姉ちゃん~」
慶太郎が呼んだ。
「なにぃ」
「愛子ちゃん、どうなったん~」
「ケガしたけどなぁ、大丈夫やねんでぇ」
「ほんまなん~」
「うん、ほんまやでぇ」
「お姉ちゃんが、愛子ちゃん、助けたん~」
「うん」
「すごいな~僕、そんけいする~」
「あはは、慶太郎ぉ、難しい言葉知ってるんやなぁ~」
「だってな~よちよちのおばちゃんらな~、いっつも日置先生、そんけいする~って言うてるねん~」
「あはは、そうなんやぁ」
「そんけいって、すごいって意味なんやろ~」
「そやなぁ~、素晴らしい人のことやなぁ」
「素晴らしいってなに~」
「うーん、優れてる人のことかなぁ」
「優れてるってなに~」
「えぇ~きりがないなぁ」
森上は、困った風に笑った。
「慶太郎」
慶三が呼んだ。
「なに~」
「素晴らしい人ってな、相沢のおっちゃんみたいな人のことやで」
「ああっ!そうなんや~わかった~」
慶太郎は、誘拐犯から自分を救ってくれた相沢のことで、その意味を理解したのだった。
そして翌日、中川は無事に退院を済ませた。
帰宅する途中、「病院の飯ときたら、食えたもんじゃねぇって」と不満を言った中川に、孝文と亜希子は安心も手伝って、高級中華レストランへ連れて行ったのであった―――




