274 大河の思いやり
―――「おい、大河・・」
チームメイトの森田は、顔面蒼白になってトイレから戻って来た。
「森田・・腹でも痛いんか」
「ちゃうやん・・お前、中川さんが・・」
「え・・」
「電車で刺されて・・殺されたらしいで・・」
事件のことは、選手らの間にも既に広まっていた。
けれども尾ひれがついて、なんと中川は死んだことになっていたのだ。
「え・・」
大河は愕然としていた。
「俺もう・・びっくりして・・」
「殺されたて・・ほんまなんか」
「そうらしい・・」
大河は思った。
あのうるさい中川が、自分のところへ全く来ないが、どうしたのか、と。
いや、期待していたわけではない。
けれども、当然「大河くん!」といって話しかけてくるものだと思い込んでいた。
来ないのは、殺されたからなのか、と。
頼むから嘘であってくれ、と。
「桐花の子・・誰も来てないみたいやしな・・」
「え・・そうなん・・」
「こんな酷いこと・・あり得へんよな・・」
「殺されたて・・どこでなん」
「それはわからんねん・・」
「そうなんや・・」
「お前・・大丈夫か・・?」
「あ・・ああ・・」
中川さん・・
きみ・・一緒に練習するて・・言うとったやん・・
約束破る気なんか・・
そこで大河は事実を確認するため、ロビーの公衆電話に向かった。
ほどなくして到着した大河は、電話帳を開いて番号を探した。
えっと・・桐花学園・・桐花・・あった・・
そして大河は受話器を手にしてダイヤルした。
「もしもし、桐花学園ですっ」
出たのは教頭だったが、まだ慌てた声だった。
「あの・・僕、滝本東高校の大河と申しますが、中川さんのことを聞いたんですけど・・」
「申し訳ないんですが、今、取り込み中でしてね」
「あの・・殺されたて・・ほんまなんですか・・」
「え・・」
「いや、あの・・そう聞いたんですが・・」
「まさか!そんな縁起でもない!」
「え・・」
「刺されただけです!」
「さ・・刺された・・それ、ほんまなんですか」
大河は思った。
刺されたのは本当なんだ、と。
だとしたら、死ぬかもしれないじゃないか、と。
「そうです。今、そのことで、こっちはてんてこ舞いなんです!」
「あっ・・あの病院、教えて頂けませんか」
「きみ、中川さんとどういう関係なんですか」
「卓球仲間です」
「そうですか・・住之江区のA病院です」
「わかりました。ありがとうございました」
そして大河は受話器を置き、監督の小川の元へ走った。
小川の姿を見つけた大河は「監督」と呼んだ。
「お前、次、試合やろ」
小川は、コートにも行かずになにをやってるんだ、と言いたかった。
「あの、僕、試合は棄権します」
「はあ?」
「友達が死ぬかもしれないんです」
「え・・?」
「すみません」
大河は一刻を争う事態に、そう言ったままバッグを取りに元の場所へ戻った。
そして「おい、大河」と呼ぶ森田も無視して、体育館を後にしたのである。
―――ここは病院。
「でよ、医者は、なんて言ってたんでぇ」
中川が訊いた。
「なんかぁ、今日は大事を取って入院せなあかんてぇ」
「ええええ~~~!入院かよ!」
「傷口がなぁ、開いたらあかんしぃ、炎症とかもあるてぇ」
「ダメだ、ダメだ!明日はダブルスがあるじゃねぇかよ」
「中川さん・・」
重富が呆れた風に呼んだ。
「なんでぇ」
「あんた、その腕で試合なんかできるはずないやろ」
「手は無事なんでぇ。っんなもん、どうってことねぇって」
「あかん。とにかく入院やし、試合も棄権する」
「くっそ~~あのクズ野郎のせいで、こんなことによ!今度会ったら、八つ裂きにしてやっからな!」
「それにしても、森上さん」
重富が呼んだ。
「なにぃ」
「あんた、すごかったな・・」
重富は森上の奮闘ぶりを言った。
「ああ~・・」
「それさね!おめー、私が止めなかったら、えらいことになってたぞ」
「なんかぁ、もう夢中でぇ」
「でも私は、おめーのおかげで助かったんでぇ。まさに命の恩人さね」
「そんなことないよぉ」
「ほんとにありがとな。でもよ、あんな無茶は、ぜってーすんじゃねぇぞ」
「中川さんのぉ、綺麗な顔に傷がついたらぁ、あかんと思てなぁ」
「森上・・」
「私やったらぁ、関係ないしなぁ」
「バカッ!なに言ってんでぇ!」
中川は思った。
まさに森上は座王権太のようだと。
権太は、愛してやまない高原由紀が自殺未遂の際、顔を岩にぶつけて酷い傷となって残ったことに心を痛め、自分の顔に硫酸をかけた。
そして「これで由紀はんと同じやでぇ」と言って高原を驚かせたのだ。
―――ここは桐花学園。
ようやく学校に辿り着いた日置は、慌てて職員室に入った。
すると一時間目の授業を終えた教師らは、電話対応に追われていた。
「日置先生!」
教頭が呼んだ。
「教頭先生、中川はどうなったんですか!」
日置は慌てて教頭の元へ行った。
「病院で手術を受けた後、眠っているようです」
「どこですか」
「住之江区のA病院です」
「それで、中川の容態はどうですか」
「まだわかりません。もう少ししたら、連絡するつもりです」
「電車で刺されたと聞きましたが、無差別の犯行なんですか」
「それもまだわかりません」
「校長先生は?」
「警察署に出向いています」
「阿部は、どこですか」
「担任の東原先生と一緒に、病院へ向かいました」
「そうですか・・じゃ、僕も今から向かいます」
「はい、そうしてください」
そして日置はそのまま学校を後にした。
―――再び、病院。
ようやく病院に到着した東原と阿部は、受付けで病室を聞き、すぐに向かった。
「中川さん・・中川さん・・」
阿部は、中川が死ぬのではないと勘違いしていた。
「阿部さん、落ち着いて。大丈夫やからね」
「どこを・・刺されたんでしょうか・・」
「きっと、致命傷ではないよ」
「それやとええんですけど・・」
「あ、ここやね」
東原は病室の名札を見た。
阿部はすぐにドアを開けて「中川さん!」と叫んだ。
するとどうだ。
中川を囲む彼女らは「あははは」と笑っているではないか。
阿部が来たことを確認した彼女らは、入口に目を向けた。
「千賀ちゃぁん~びっくりしたやろぉ」
「阿部さん、それに先生も!」
「先輩~早かったですね!」
そこで阿部は、ベッドまで走った。
すると中川は「よーう、チビ助」と笑っているではないか。
「あんた・・」
阿部の体はワナワナと震えていた。
東原は中川の元気な様子を見て、心底安堵していた。
「中川さん、刺されたって聞いたんやけど、どこを刺されたの?」
東原が訊いた。
「刺されたんじゃねぇんだよ。切られたんでぇ。ほらよ」
中川は右腕の包帯を見せた。
「あらまあ・・大変やったね」
「ううっ・・ううう・・うわあ~~ん」
阿部は突然泣き出した。
「おいおい、チビ助よ。おめーガキみてぇに泣くんじゃねぇよ」
「そっ・・そやかて・・そやかて・・ううっ・・」
「切られたっつってもよ、てぇしたことねぇのさ」
「もう・・めっちゃ・・心配したんやから・・ううっ・・」
「千賀ちゃぁん」
森上は阿部の肩を優しく抱いた。
「とりあえず不幸中の幸いでよかったわ。それでね、親御さんに連絡したんやけど、お留守みたいやのよ」
「ああ~父ちゃんは仕事だし、母ちゃんは朝からお隣さんと出かけるっつってたし」
「そうやったの・・」
「夕方には戻るだろうし、私から連絡すっから、心配いらねぇぜ」
「それで、なにがあったんよ・・」
阿部が訊くと、彼女らは電車内での騒動を話した。
すると阿部も東原も「うわ・・カッターナイフて・・」と、身震いしていた。
「でも、森上さんも危なかったんやね・・」
「先生よ、こいつったらよ、拾ったカッターで、襲い掛かろうとしたんだぜ」
「えええええ~~~!」
二人は同時に叫んだ。
「恵美ちゃん!そんな危ないこと!」
「なんかぁ、もう必死でぇ」
「あかん、あかんで!今後、そんなことしたら、絶対にあかんで!」
「わかってるよぉ」
そこでドアがスーッと開いた。
みんなが振り向くと、なんと悲壮な顔をした大河が立っているではないか。
「え・・大河くんやん・・」
阿部が言った。
すると中川は「ええっ!」と言って起き上がった。
「た・・大河くん・・どうしたの・・」
中川は、夢でも見ているのではないかと思った。
「中川さん・・無事やったんや・・」
大河の表情は、一気に安堵したものに変わっていた。
大河くん・・私を心配して来てくれたのね・・
なんて優しいのかしら・・
「ううっ・・ぶ・・無事ではないの・・ああっ、苦しいわ・・」
中川は、ここぞとばかりに大河の気を引くため、芝居を打った。
そして胸を押さえていた。
「えっ!」
大河はベッドまで駆け寄った。
「寝てた方がええんとちゃうか」
「胸を・・心の臓を刺されたの・・」
「ええっ」
「今にも・・死にそうよ・・」
「心臓刺されたら、こんな一般病棟にはいてへんで」
「え・・」
「ICUに入ってるはずや」
「あっ・・そうだったわ・・ううっ、心の臓ではなくて・・肺だったわ・・」
「肺でも同じ」
「そ・・そうなのね・・」
「で、ほんまは、どこを刺されたん」
「刺されたのでなくて・・切られたの・・」
「え・・そうなんや」
「これよ」
中川はそう言って右腕を見せた。
「うわあ・・大変やったな」
「そうなの・・とても怖かったの・・」
「きみ、殺されたて僕は聞いたんや」
「殺された?」
「うん。体育館では、そうなってるで」
「あら・・嫌だわ」
そこで東原と彼女らは、気を使って病室を出ようとした。
「あ、僕、もう行きますから」
「いやいや・・二人で話してて」
重富がそう言った。
「いや、そんなんちゃうし」
「せっかく来てくれたんやし」
阿部がそう言うと、五人は外へ出て行った。
二人になった大河は、居心地が悪そうに立っていた。
「大河くん」
「なに」
「わざわざ来てくれてありがとう」
「いや・・別に」
「あっ!試合はどうなったの」
「棄権した」
「えっ・・」
「僕が勝手に来ただけやし、気にせんでええよ」
「そんな・・棄権だなんて・・」
「でも、かなり元気そうで安心したわ。ほな、お大事に」
大河はドアへ向かおうとした。
「あのっ!」
「なに」
「私のせいで・・棄権だなんて・・」
「だからええねん。来年もあるし」
「ごめんなさい・・」
「きみが謝ることとちゃうよ」
「私って・・どうしていつもみんなに迷惑ばかりかけるのかしら・・」
「迷惑ちゃうし」
「ほんとに・・ごめんなさい・・」
そして中川はポロポロと涙を流した。
「中川さん・・」
「ううっ・・」
そこで大河は中川の傍へ寄り、「気にせんといてな」と言って、なんと頭を撫でたのだ。
中川はもう、気絶しそうだった。
そして大河の優しさが、この上なく嬉しかった。
その頃、病室の外では日置が到着していたが、阿部が事情を話し、日置と東原と彼女らは待合室へ向かったのであった―――




