270 諦める辛さ
―――そして放課後。
阿部は練習しようと服を着替えていたが、どうにも足が不安でならなかった。
歩行に不自由はなかったが、走るとまだ痛みを覚えていたのだ。
「阿部さん、どしたん?」
深刻な表情の阿部を見て、重富が訊いた。
「いや、なんでもないで」
阿部はニッコリと微笑んだ。
「そうなん?」
「うん」
阿部は週末に行われるシングルとダブルスに、どうしても出たかった。
特に、森上とのダブルスは優勝できると確信していた。
阿部は自分のことより、森上をトリプル優勝させたかったのだ。
「さーて、体操すんぞ」
部室から中川と森上が出てきた。
「ああ、うん」
そして彼女ら五人は、間隔を開けて体操を始めた。
ところがどうだ。
阿部はジャンプする際、顔をゆがめているではないか。
その表情を、重富だけは見ていた。
阿部さん・・もしかしたら・・
まだ足が治ってないんとちゃうんか・・
そこへ扉を開けて日置が入って来た。
日置は彼女らを見て、ニコッと微笑み、靴を履き替えて扉を閉めた。
「体操が終わったら、そのまま基本ね」
日置がそう言うと、彼女らは元気よく返事をした。
ほどなくして体操を終えた彼女らは、それぞれ分かれて台に着いた。
「郡司さん」
日置が呼んだ。
「はい」
「きみは僕とね」
「はいっ」
日置と和子はラケットを持って台に着いた。
「さーて、今日から特訓だよ」
「はいっ」
和子はとても嬉しそうだった。
そんな中、重富は阿部を心配していた。
日置に言った方がいいのではないか、と。
それでも阿部は、森上を相手にフォア打ちをしていた。
重富は時々、阿部を見ていたが、いつもの阿部なら走ってボールを拾いに行くはずが、なんと歩いているではないか。
そもそもボール拾いは、みんな走って行くのである。
やっぱりやん・・
重富はそう思った。
それは重富だけではなかった。
森上も中川も阿部が変だと思ったのだ。
「チビ助よ」
中川が呼んだ。
「なに?」
「おめー、足が痛てぇんじゃねぇのか」
「そ・・そんなことないで・・」
「どうしたの?」
日置はボールを打つのを止めて訊いた。
「チビ助、変だぞ」
「阿部さん、どうしたの?」
「どうもしません」
「足が痛いって聞こえだけど、ほとんなの?」
「痛くありません」
阿部は頑として否定した。
「それなら、走って見ろよ」
中川が言った。
「え・・」
「走れっつってんだよ」
すとる阿部は仕方なく走ったが、右足を庇っていた。
「阿部さん、ちょっと」
日置はそう言って、阿部を床に座らせた。
「きみ、一昨日、家で冷やした?」
「・・・」
「冷やしたの?」
「いえ・・」
「昨日は?」
「いえ・・」
「そうなんだ・・」
日置は思った。
捻挫してすぐに処置をしなかったから、悪化したのだ、と。
こうなると、治りは遅くなる。
果たして予選に間に合うのか、と。
「よし。今から病院へ行くよ」
「え・・」
「ちゃんと診てもらって、患部を固定した方がいい」
「そうですか・・」
「僕も注意を怠っていた。ごめんね」
「いえ・・そんな・・」
そこで日置は立ち上がった。
「じゃ、きみたちは練習してて。僕は阿部さんを病院へ連れて行くからね」
―――ここは整形外科病院。
日置と阿部は診察室にいた。
男性の医者は、阿部の右足首を手で触れていた。
「痛めたのはいつ?」
「一昨日です・・」
「なにやってたの?」
「卓球の試合です・・」
「なるほどね」
医者はカルテに文字を書き込んでいた。
「それで、患部は放置・・と」
「すみません・・」
「先生」
医者が日置を呼んだ。
「はい」
「あなた体育教師ですよね」
「はい」
「なぜ、すぐに処置しなかったんですか」
「すみません」
日置は頭を下げた。
「先生のせいやないんです。その・・試合が大変でして・・」
阿部が足を痛めたのは、ダブルスがまさに大詰めも大詰めで、さらには中川がトイレから戻って来た時には、大河のことでショックを受けて死んだようになっていた時だった。
「まあ、いまさら言っても仕方がないですね」
「あの・・週末に試合があるんですが・・出られますか・・」
阿部が訊いた。
「この足で?まさか」
医者は呆れたようにそう言った。
「すぐに処置しておけば、出られたかもね」
そう言って医者は、日置を見上げた。
「患部は固定します。それと体育の授業もダメですよ」
「あの・・どれくらいで治りますか・・」
阿部が訊いた。
「そうね・・十日くらいかな」
「そ・・そうですか・・」
その後、阿部は処置を受けて、病院を後にした―――
「先生・・すみません・・」
歩きながら阿部が詫びた。
「いや、僕がちゃんと対処してれば、悪化せずに済んだのに、ほんとごめんね」
「いえ、先生のせいやありません」
すると日置は苦笑した。
「せやけど・・恵美ちゃんに悪いことしたな・・」
「ダブルス?」
「恵美ちゃん・・おそらくシングルでも優勝するやろし・・」
「うん」
「私、ダブルス・・優勝する自信があったんです・・」
「うん」
「あの・・ダブルスだけ出たらあきませんか」
「ダメだよ」
日置は間髪入れず、否定した。
「今はしっかりと治すこと。シングルもダブルスも来年がある。それに七月には近畿大会、八月にはインターハイ。大事なのはこっちだよ」
「はい・・」
「きみ、森上さんにトリプル優勝させたいんだよね」
「そっ、そうなんです!恵美ちゃんやったら、それが可能です!」
「僕もね、高校三年生のインターハイでトリプル優勝って言われてたの」
「えっ!」
「で、団体とシングルは勝ったんだけど、ダブルスは、組んでた子が風邪を引いちゃってね」
「・・・」
「それで棄権したんだよ」
「えええ・・そんな・・」
「その子は、ほんとに何度も何度も謝ってくれてたけど、僕は怨みもしなかったし後悔もしてないよ」
「・・・」
「だってね、辛い体を押して出ても勝てるはずもないし、それで負けちゃったら、その子はどうなると思う?」
「どうなるて・・」
「自分を責めるに決まってるでしょ」
「はい・・」
「きみが無理して出て負けたら、森上さん、辛いと思うよ」
「・・・」
「だから、いいね。シングルとダブルスは諦めること」
「はい・・」
「その分、近畿とインターハイで暴れまくるといい」
日置はニッコリと微笑んだ―――
その後、阿部は見学という形で練習に参加していたが、多球練習のボール出しは手伝っていた。
「郡司さん。あんたもシングルに出るんやからな、頑張らんといかんで」
阿部はボールを出しながら檄を飛ばしていた。
「はいっ」
「もっと強く!それっ」
「はいっ」
「ミートを効かせて!」
「はいっ」
阿部のコートと一台空けた台では、日置と森上がペアを組んで、中川と重富の相手をしていた。
「よし。じゃあ、今から10本ハンディで試合をするからね」
日置がそう言った。
「おいおい、先生よ」
中川が呼んだ。
「なに?」
「情けねぇったらありゃしねぇぜ」
「え・・」
「10本も欲しいのかよ、ったくよー」
「え・・」
「まあいいさね。10本くれぇ、のし付けて差し上げるってもんよ」
「きみ・・なに言ってるの」
「中川さん・・ちゃうで・・」
重富が小声で言った。
「なにが違うんでぇ」
「私らが10本貰うってことやで」
「なにっーーーー!」
中川が叫ぶと、日置と森上は笑っていた。
「おいおい!そんなお情けなんざいらねぇって!」
「勝ってから言ってね」
日置はニッコリと微笑んだ。
「なっ・・よーーーし!やってやろうじゃねぇか!」
こうして試合が始まったが、日置と森上のコンビネーションは抜群だった。
まさに、この二人が立つべきは全日本の試合が相応しいくらいだ。
阿部と和子も、ボールを打つのを止めて、試合に見入っていた。
「ほーら、10対8になったよ」
中川らは、まだ1点も取れずにいた。
「しゃらくせぇやね!リードしてんのは、こっちさね!」
「ズボールはどうしたの、ズボールは」
中川はまだズボールを出してなかった。
というより、出させてもらえなかったのだ。
「ぐぬぬ・・」
「ズボールを出すためには、重富さんにどんなボールを打たせるか、どこへ返すのかをちゃんと考えないとね」
「わかってらぁな!」
そして中川は日置らに背を向けた。
「重富よ」
「なに・・」
「ここは、奇策に出るしかねぇぜ・・」
「奇策て・・どうするんよ・・」
「おめーがサーブを出したと同時に、私も出す・・」
そう言って中川は、短パンのポケットからボールをそっと出した。
「えっ・・なに言うてんの」
「いいんでぇ。ここは驚かせてだな、精神的動揺を誘うんでぇ」
「いや、そもそも違反やし、そんなん、怒られるで・・」
「いいってことよ・・じゃ、やるぜ」
そして重富は、戸惑いつつもサーブを出す構えに入った。
レシーブは日置だ。
「1本・・」
重富は小さな声を発してサーブを出した。
するとバック側に立っている中川も、同時にサーブを出した。
「えっ」
日置も森上も、阿部も和子も当然驚いていた。
ルール違反じゃないか、と。
あんたはアホか、と。
それでもなんと、日置は重富のサーブを返球したのだ。
けれどもそれは、単なるカット打ちの甘いレシーブだった。
来た来た~~~!
こう思った中川は、台の下でラケットを動かした。
するとボールは、ポーンと高く上がり、ミドルでバウンドした。
ふふっ・・右さね・・
空振りが目に浮かんだ中川だったが、それを森上は、なんとボールが曲がる前にスマッシュで打ち抜いたのだ。
「ぎゃあ~~~!」
その威力に重富は思わず叫んだ。
そして日置と森上は「サーよし」と顔を見合わせて声を発していた。
「中川さん」
日置が呼んだ。
「なっ・・なんでぇ・・」
「姑息なことしないの」
「ぬぬっ・・」
「さて、1点差になったよ」
中川は思っていた。
森上の身体能力、そして動体視力のよさを。
アンドレですらズボールを打ちあぐねていたのに、こいつはなんなんだ、と。
そんな森上は、何事もなかったかのように、「中川さぁん、ルール違反やでぇ」とニコニコと笑っていたのである。




