259 常人と奇人
―――観客席では。
大河は正直、中川の奮闘ぶりに舌を巻いていた。
3セット目の中盤までは、あのうるさい中川が一言も発することなく試合に臨んだのは不可解だったが、それでも同点に追いついた。
三神相手に、なかなか出来ることではない、と。
「それにしても、中川さんさ」
森田が口を開いた。
「ん?」
「あんだけ監督に逆らうか?」
森田はそう言いながらも、半笑いだった。
「そやな」
「男子ならまだしも、女子やで」
「あの子は、相手が誰やとか、監督とか関係ないんやと思う」
「まあ、確かにそやな」
森田のみならず、中川の「空気を読まない」積極性は、滝本東の選手なら、みんな知っている。
「ほんまに、おもろい子や」
大河はニッコリと微笑んだ。
―――コートでは。
カウントは18-18のまま、中川は出すサーブを考えていた。
アンドレは・・またロビングを出して来やがるかもしんねぇ・・
するってぇと・・ここは短いサーブがいいのか・・
ここで長いラリーが続くと・・
体力が持たねぇ・・
やつのドライブをカウンターで返すか・・
そこで中川は「ふぅ~~」と大きく息を吐き、深呼吸した。
「向井ちゃん!しっかり!」
「先、1本取りますよ!」
「リードしますよ!」
「先輩、頑張りますよ!」
三神の彼女らの声は、次第に大きくなっていた。
ふふふ・・
三神野郎め・・焦ってやがるな・・
そして中川は、フォア前に短い下回転のサーブを出した。
向井はそれをツッツキでバック前に返した。
中川はドライブを打たせるため、フォアの深いところへ返した。
そして向井がドライブを打とうとした時だった。
なんと向井は床に落ちた汗で、足を滑らせて転んでしまったのだ。
ボールは、当然床に転がっていた。
「先輩!大丈夫ですか!」
慌てた関根はぞうきんを手にして、向井の元へ行った。
「大丈夫です」
向井はそう言って直ぐに立ち上がった。
そして関根は床を拭いていた。
「この1本はきついな・・」
悦子が呟いた。
「よーう、アンドレよ」
中川が呼んだ。
向井は返事をせずに、関根を見ていた。
「おめー、大丈夫か」
向井は小さく頷いた。
「それならいいけどよ。まあこっちとしちゃあ、最後まで万全でやってくれねぇと、張り合いがねぇってもんよ」
そこで関根は床を拭き終え、足元をキュッキュッと鳴らして、拭き落としがないか確認していた。
「関根ちゃん、もういいですよ。ありがとう」
向井はそう言いながら、両足首を捻っていた。
うん・・大丈夫や・・
向井は足の無事を確認した。
そして関根は元の位置に戻り、向井は「1本」と口にしてレシーブの構えに入った。
「よーし、行くぜっ!」
中川はサーブを出す構えに入った。
そして中川は、下回転のサーブを出したがネットに引っかかってミスをした。
「ああっ、いけねぇやな」
なぜか中川は、笑いながら頭を掻いていた。
向井は、簡単にサーブミスをした中川を、怪訝な表情で見ていた。
「中川さん」
向井が呼んだ。
「なんでぇ」
「あなた、わざとサーブミスしましたよね」
「ふっ・・お見通しってわけかい」
中川の言葉に、向井は唖然とした。
なぜだ、なぜなんだ、と。
「さっきのおめーは、不可抗力で1点を失った」
「だからなんですか」
「そんな「お情け」の点なんざ、こちとら欲しくもねぇのさ」
「えっ・・」
「だから、私はまた同点にした。それだけのこった」
「し・・信じられへん・・」
向井は思った。
いわばタダで1点取れたのだから、ここは一気に押すべきじゃないのか、と。
転んでミスをしたのは、中川のせいでも何でもない。
自分なら、流れが来たと思って畳みかけるぞ、と。
皆藤も悦子も、そして日置もわざとサーブミスをしたことはわかっていた。
「中川くん」
皆藤が呼んだ。
中川は、その場で振り向いた。
「なんでぇ」
「きみは、まだまだ甘いですね」
「はあ?」
「勝負は貪欲でなければなりませんよ」
「かっ。おめーに言われなくとも、こちとら先刻ご承知よ」
中川は皆藤の言いたいことはわかっていた。
ここは、相手の「弱み」に付け込む絶好の時だ、と。
けれども中川は、こんな時だからこそ、力と力のガチンコ勝負がしたかったのだ。
全力でぶつかり合って勝ってこそ、真の勝者なんだ、と。
「私があめぇかどうか、試合が終わってから判断しな」
「ええ、そうしますよ」
皆藤はニッコリと微笑んだ。
―――桐花ベンチでは。
「先生」
阿部が呼んだ。
「なに?」
「中川さん・・今のサーブミス・・」
阿部も、わざとではないかと思い始めていた。
「うん、そうだね」
「やっぱり・・」
阿部は、それこそ呆れていた。
なにをやってるんだ、と。
「あの子は・・ほんとに曲がったことが嫌なんだね」
「曲がったことて・・全然、曲がってませんやん」
「そうなんだけど、あの子にとっては、そう思えるんだよ」
「1点の重みを・・なんて考えてるんや・・」
「そうだよね。わざとサーブミスすることはないよね」
日置はそう言って苦笑した。
―――通路では。
「今の・・わざとちゃいますか・・」
植木もそう思っていた。
「そやろな」
早坂は笑っていた。
「なんでそんなこと・・」
植木は当然のように呆れていた。
「やっぱり中川は、おもろいわ」
「おもろいですか?」
植木は、なぜが早坂に食って掛かった。
「わしらのような常人には理解できんおもろさがあるで」
「せやけど、今の1点で負けるかもしれんのですよ!」
「あの子は、勝敗云々より、試合の中身が大事なんやろな」
「試合て、勝ってなんぼやないですか!」
「知らんがな!中川に訊けよ」
早坂はそう言って、植木の頭をパーンと叩いた。
―――コートでは。
さあ・・マジで勝負の時だぜ・・
中川はサーブを出す構えに入っていた。
「1本」
向井はそう口にして、レシーブの構えに入った。
先輩・・頑張れ・・頑張れ・・
和子は中川を見ながら、そう念じていた。
そして中川はボールをポーンと高く上げ、「由紀サーブ」を出した。
中川は一か八かで三球目を狙っていた。
そう、ラリーが続くと不利だからである。
中川の考えは向井もすぐに理解した。
そうはさせじと向井は、フォアの深いところに入ったボールを渾身の力でドライブをかけに行った。
するとボールはバック前でネットインした。
おのれぇ~~~!
タイミングを狂わされた中川であったが、ラケットを前に出してなんとか拾った。
すると、なんとこのボールもネットインしたのだ。
慌てた向井も懸命にラケットを出したが、一歩間に合わず、ボールは台上でコロコロと転がっていた。
「サーよしっ!」
中川は、また三神ベンチに向けてガッツポーズをした。
「よーーーし!よーーーし!」
日置は興奮していた。
あと1点だ、1点だと。
「よっしゃあ~~~~!」
彼女らも飛び上がっていた。
「よーう、アンドレよ」
呼ばれた向井は黙ったまま中川を見た。
「今のネットインは、お互い様ってことで、恨みっこなしだぜ」
「・・・」
「しかしよ、この勝負所でネットインはねぇよな」
中川はそう言って笑った。
「向井ちゃん!」
悦子が呼んだ。
向井は中川から目を逸らして悦子を見た。
「こっからやで!挽回するよ!」
「はい」
向井は小さく頷いた。
そして館内は、いよいよ勝敗が決する時が来たといわんばかりに、歓声が木霊していた。
「あと1点やで」
「せやけど、まだ1点差や」
「三神が負けるかもしれんぞ・・」
「ここはデュースや、デュース!」
ギャラリーは、果たして三神が追いつくのか、桐花がこのまま逃げ切るのかを、目を凝らして見守っていた―――




