257 中川の追い上げ
―――「よーう、アンドレよ」
中川は、このセットで向井に初めて口を開いた。
向井は黙ったまま、中川を見ていた。
「おめー、たかが5点差でいい気になるんじゃねぇぜ」
「なっていませんが」
「まあ、いいさね。ここからが本当の勝負だ。覚悟しな」
三神ベンチもそうだが、桐花ベンチにも、二人の会話は聞こえてなかった。
ただ、中川が何か喋ってるぞ、と。
さっきまでは、黙りこくっていたのに、どうしたんだ、と。
そこで阿部はなにを思ったか、すっくと立ち上がり、一歩前に出た。
「大番長!気にすることはねぇですぜ!次はナイフがズドーンですぜ!」
そう、阿部は、中川がまだ高原由紀に徹していると思っていたのだ。
無論、阿部だけではない。
桐花ベンチは、みながそう思っていた。
ちなみに阿部は文化祭の際、スケバングループの中堅幹部である「ガム子」を演じていた。
阿部の様子を見て、日置は唖然としていた。
それは小島らも同じだった。
けれども重富は違った。
阿部の意を察した重富は、ここは、元演劇部員である自分の出番だ、と。
「そうですぜ、大番長!いざとなりゃあ、大番長のために、いやっ、大番長のためなら「箱」に入る覚悟ですぜ!」
「箱」とは少年院のことだ。
「ゆ・・由紀はぁん!」
こう言ったのは森上だった。
森上も文化祭で、座生権太を演じていた。
そう、森上も阿部の意を察したのだ。
「由紀はんが勝ってくれたらぁ、わい・・嬉しおまんねぇん!」
「大番長!期待してますぜ!」
「活きのいいやつ、見せてください!」
「由紀はぁ~ん、わい、全力で支えますよって~~!」
彼女らの声援を聞いた中川は、胸が痛んだ。
おめーら・・
私が高原由紀になってるとわかったんだな・・
そうか・・うん・・
「おめーら!よく聞きな!」
中川がそう言うと、桐花ベンチは驚いた。
そう、反応したぞ、と。
「行動はよ、必ずしも幸福をもたらすものじゃねぇのさ。だがよ、行動のないところに幸福はねぇんだ!」
中川の言葉を聞いた皆藤は、思わず「えっ」と口走った。
「先生、どうしたんですか」
悦子が訊いた。
「ベンジャミン・ディズレーリですか・・」
ベンジャミン・ディズレーリとは、イギリスのかつての政治家であり、貴族であり、小説家である。
中川は、なんとベンジャミン・ディズレーリが残した名言を口にしたのである。
ちなみに中川が、なぜこの言葉を知っていたかというと、父親の孝文の座右の銘が「絶望とは愚か者の結論である」という、ベンジャミンの名言だからである。
「なに言うてんの・・」
阿部はポツリと呟いた。
「なんとなくやけど・・中川さんの言いたいことがわかる・・」
重富はそう言った。
「中川さんがぁ、高原由紀になったんはぁ、行動ってことやったんやなぁ」
森上が言った。
「でも今の中川さんは、高原由紀じゃないよね」
日置がそう言った。
「確かに・・。元に戻ってますよね・・」
阿部が答えた。
「さあ、試合はここからだ!行動しないと勝ちはない!」
日置が叫んだ。
「そうやで!行動や、行動!」
「ミスを恐れるな~~!」
「中川さんにはぁ~ズボールがあるよぉ~!」
阿部らもそう叫んだ。
そして小島は「止まったら死ぬで~~!」と、間寛平のギャグで励ました。
おっ・・それ、いいな・・
中川は、意外にもこの言葉が刺さった。
そして試合は再開された。
息を吹き返した中川は、前後に揺さぶられるも、懸命に動き続けた。
方や向井も、絶対に負けられないこの対戦に、凄まじいほどの集中力で中川に襲い掛かっていた。
いわば本来の「ガチンコ」勝負に戻った二人に、ギャラリーの興奮も絶頂に達していた。
「中川さんーーー!ここやで!踏ん張れぇ~~~!」
通路では、植木が絶叫していた。
その横で早坂は、黙ったまま試合を観ていた。
そして中川は負ける、と思っていたのだ。
なぜなら、中川の息の上がり方が尋常ではないからだ。
試合も終盤に差し掛かり、カウントが18-15になったところで「タイム!」と日置が叫んだ。
けれども中川は首を横に振った。
「ダメだ!中川!タイムを取るんだ!」
「ハアハア・・うっ・・うるせぇよ・・」
中川は、両手を膝に置いて肩で息をしていた。
「聴こえないのか!タイムを取るんだ!」
「中川さん!タイムや!」
「ここ、大事やで!中川さん!タイムや、タイム!」
「中川さぁ~~ん!」
阿部らも必死で声を挙げていた。
それは小島らも同じだった。
「とっ・・止まったら・・ハアハア・・止まったら・・死ぬんでぇ!」
「中川!」
「今の私に作戦なんざ無意味よ!やるこたぁわかってる!水を差すんじゃねぇ!」
「先生・・」
阿部が呼んだ。
日置はコートを見たままだ。
「あと1本取られたら、私がコートへ行って無理にでも引っ張って来ます」
「あんなに息を荒くしてるのに、どうやって挽回するつもりだ・・」
日置は独り言のように呟いた。
「この1本は、中川さんに任せましょう」
阿部の言葉に日置は黙って頷いた。
よーし・・アンドレ・・
ここは・・ぜってーに・・
18-17にしてサーブチェンジでぇ・・
中川は「来やがれってんでぇ!」と言って、レシーブの構えに入った。
そして向井は「1本」と口にしてサーブを出す構えに入った。
向井はロングサーブを出した後、すぐにストップをかけた。
中川は、なかなかズボールを出せるボールが狙えずに、前後に揺さぶられ続けた。
向井の「それ」は、まさに中川の体力を消耗させるべく、ドライブとストップ、これを交互に出し続けた。
次はドライブ、次はストップとわかっている中川だが、とはいえ、その通りに動けばいいものではない。
なぜなら、ストップがドライブに変わり、その逆もまた然りがあるからだ。
向井は中川の動きを常に見ている。
裏をかくことなど造作もないというわけだ。
それゆえ中川は、いつ、どちらが来てもいいように構えなければならないのだ。
それだけに、二倍の体力が消耗されるというわけだ。
このままだと・・
こっちが倒れてお終いさね・・
っんなこたぁさせねぇぜ・・
ここは・・ストップを打ちに出るしかねぇ・・
そして向井がフォア前にストップを入れた時だった。
中川は力を振り絞って全速力で前に駆け寄り、そのままの勢いでバックストレートにスマッシュを打ち込んだ。
向井はバックハンドでバッククロスへ送った。
これしかねぇ!
なんと中川は、体を詰まらせながらも回り込んでフォアカットで対応した。
「おおおおお~~~~!」
ギャラリーから、驚嘆の声が挙がった。
あれを回り込むのか、と。
まだ体力が残ってたのか、と。
そして中川は、床スレスレのところでボールを拾い、ラケットを複雑に動かした。
ボールはフォアへポーンと高く上がった。
向井は、やはり空振りを警戒し、ボールより、右へ寄った。
バカめ・・
曲がらねぇぜ・・
バウンドすると、ボールは曲がらずに真っすぐ飛んだ。
向井は慌ててツッツキで返した。
中川はこのチャンスを見逃さなかった。
くらえ~~~!
あらかじめ前に寄っていた中川は、十分な体勢から矢のようなスマッシュをバッククロスへ打ち込んだ。
するとボールは、向井の横を通り過ぎて後ろへ転がっていた。
「サーよしっ!」
中川は足を踏ん張って、渾身のガッツポーズをした。
「よーーし!ナイスボール!」
日置もガッツポーズをしていた。
桐花ベンチも「よっしゃあ~~~!」と飛び上がって喜んでいた。
これでカウントは18-16になった。
よし・・あと1点だ・・
アンドレは、またバックにドライブを打って来るに違いねぇ・・
いや・・ドライブだけじゃねぇ・・サーブもだ・・
よし・・ここは回り込むしかねぇな・・
中川はバックカットでズボールを、とも考えたが、この大詰めでの「賭け」は危険だと判断した。
倒れてもいいやね・・
やることやんねぇとよ!
中川は回り込んでのフォアカットは、諸刃の剣だとわかっていた。
なぜなら、フォアががら空きになるからである。
たとえズボールが成功したとしても、向井にすれば、慌てることなく最悪でも緩いボールをフォアへ入れればいいのだ。
これが、中川の懸念した諸刃の剣だった。
果たして、自分は動けるのか、と。
そして向井は気を取り直し、「1本」と声を出した。
「おめーのナイフは、痛くも痒くもねぇぜ!」
中川はそう言ってレシーブの構えに入った。
そして向井は、バッククロスへ上回転のロングサーブを出してきた。
やっぱりな・・
中川はそう思ったが早いか、回り込んでフォアカットで対応した。
まさかサーブレシーブから回り込むとは思いもしなかった向井は唖然としたが、それでも打つ構えに入った。
そして中川は、台の下で複雑にラケットを動かした。
今度は・・どっちや・・
曲がるんか・・曲がらんのか・・
向井はボールを凝視した。
悦子も朝倉も、中川の手の動きを目を皿にして見ていたが、どちらへ回転をかけたのかが見抜けなかった。
そしてボールは、ミドルでバウンドした。
右さね・・
中川は、カットした時点で向井の立ち位置を見ていた。
向井はさっきのカットが曲がらなかったことを警戒し、右へ寄っていなかったのだ。
するとボールは、ククッと右へ曲がった。
なにっ・・
慌てた向井は、空振りだけはするまいと、ポコンと合わせるだけの返球になった。
中川は余裕でボールに追いつき、打たずに再びカットした。
無論、フォアカットのズボールである。
打たへんのか!
向井は当然、打ってくるものだと思っていた。
いや、むしろ打ってほしかった。
それなら、いくらでもカウンターで返せるからだ。
そしてボールは、逃げるようにバッククロスへ入った。
向井は回り込まずに、左へ曲がることを警戒した。
なぜなら、とても厳しいコースだったからである。
ここで左へ曲げられると、それこそ空振りをしてしまう恐れがあるのだ。
ふっ・・右さね・・
そしてボールは、中川の思惑通り、ククッと右へ曲がった。
なっ・・!
完全に裏をかかれた向井は、大きく空振りをし、ボールは後ろへ転がっていた。
「サーよしっ!」
中川は、振り向いて三神ベンチにガッツポーズをしていた。
三神ベンチは、なんとも言えない表情で中川を見ていた。
「ふふ・・おめーら、なんてツラしてやがんでぇ」
「・・・」
「私は言ったはずだぜ。震えて見てやがれ、とな」
中川は悦子に向けてそう言った。
さすがに悦子でも、ここにきて魔球を連発されると、きついぞ、と。
なぜなら、返せたとしても、それはチャンスボールでしかない。
そして今のように、チャンスボールにもかかわらず、二球目の魔球を出されると、むしろ打ってほしい向井は混乱するぞ、と。
方や桐花ベンチでは、1点差まで追い上げたことで蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
まだ1点リードされているものの、今の点の取り方は相手を追い詰めるに十分だったからである。
「向井くん」
皆藤が呼んだ。
「はい」
「タイムを取りなさい」
向井は小さく頷いてタイムを取り、ベンチに下がった。
一方で中川は、ベンチに下がると思いきや、なんとその場で立ったまま、三神ベンチを見ていたのだ―――




