254 規格外の中川
現在、カウントは21-20で、中川が一歩リードしていた―――
「1本」
向井はサーブの構えに入り、声を発した。
「来やがれってんでぇ!」
中川もレシーブの構えに入った。
そして向井はボールをポーンと高く上げた。
そう、投げ上げサーブである。
向井は三球目を狙っていた。
たとえ決まらなくても、ラリーで立て直せる。
そんな向井は、一か八かで勝負に出たのだ。
そして斜め回転のサーブは、フォアのネット前に入った。
中川は前に出てツッツキで返したが、ボールは少し高く上がった。
来た・・
向井は狙い通りのレシーブが来たことで、フォアへスマッシュを打ちに出た。
中川はすぐさま後ろへ下がった。
バカめ・・
またフォアかい・・
中川がそう思ったが早いか、なんと向井はバッククロスを逃げるような、なんとも緩いボールを送ったのだ。
そう、向井は速いボールだと、体に染みついた「リズム」で、中川は追いつくかもしれないと、裏をかいたのだ。
なにっ・・!
コースとタイミングを完全に外された中川だったが、懸命に体を逆に戻し、ボールを追いかけた。
「取れる!中川、取るんだ!」
日置が叫んだ。
「おおおおおお~~~~!」
館内はまた驚愕の声が挙がった。
ここに来て、あんなボールを打つのか、と。
くっそ~~~~!
アンドレぇぇぇ~~!
舐めんじゃねぇぞ!
そして中川は、やっとのことでボールに追いついた。
「うわああああ~~~!」
また歓声が木霊した。
そう、追いついたぞ、と。
そして中川は、不十分な体勢からラケットを複雑に動かした。
そう、ズボールである。
けれどもこれは、まさに一か八かだった。
曲がらねぇでもいい・・
単に返すよりは・・よっぽどマシさね!
中川はボールの行方を目で追っていた。
いや、中川だけではない。
この試合を観ている全員が、ボールを凝視していた。
そして向井は、回り込んで打つ体勢に入っていた。
ボールはバッククロスのギリギリでバウンドした。
するとボールはコートの端にあたりイレギュラーした。
そう、エッジボールである。
向井はタイミングを狂わされたが、それでも何とか打って返したものの、大きくオーバーミスをした。
「おおおおお~~~!」
館内は、三神が2セット目を落としたぞ、と言わんばかりの声が響き渡っていた。
けれども桐花ベンチからは、声が挙がらなかった。
そう、中川がまたボールを追いかけるのではないかとの一抹の不安があったからだ。
すると中川は、まるで「期待」に沿うように、あろうことかボールを追いかけたのだ。
「えええええええ~~~~!」
「こらーーーー!中川あああああ~~~!」
「信じられへん・・」
「なにやってんやーーーー!」
桐花ベンチから、怒声が挙がっていた。
そんな中、阿部は本当に失神しそうだった。
「阿部さん!大丈夫か!」
重富はオロオロとしていた。
「千賀ちゃぁん!」
森上は阿部の前にかがんでいた。
「うん・・大丈夫・・」
阿部は力なく頷いた。
そしてギャラリーも、植木も早坂も、三神ベンチも、大河と森田も言葉を失っていた。
なんなんだ、この子は、と。
それでも中川はラケットを大きく上げて、ボールを追いかけた。
そう、まるで飛ぶ蝶を追う少女のように。
「ダメだ・・こんな子・・もう無理・・」
日置は思わずそう呟いていた。
そしてボールは、中川のラケットをめがけて落ちて来た。
「あああ・・」
日置は頭を抱えた。
あら・・大河くん・・
呼んでくれないのね・・
そう、中川は大河に名前を呼んでほしかったのだ。
仕方がないわ・・
そして中川は、寸でのところで左手でボールをキャッチした。
「サーよしっ!」
中川は渾身のガッツポーズをした。
シーン・・
館内は、時が止まったかのように静まり返っていた。
「え・・」
中川は館内を見回していた。
「バカ者ーーーー!」
日置はそう叫んだ。
「バカとはなんでぇ!」
「コートに戻って、一礼して、ベンチに来い!」
「わかってらぁな!」
―――三神ベンチでは。
悦子も朝倉も、中川がボールを追いかけたことに、愕然としていた。
「あの子・・なんで追いかけたんや・・」
「よく左手で取ったわよね・・」
「竹林くん」
皆藤が呼んだ。
「はい・・」
「あの子ね、さっきまではラケットミスを知らなかったんですよ」
「さっきまで・・?」
「実はね、さっきも同じようなことがあったのですが、寸前のところでミスは免れたんです」
「ど・・どういうことですか・・」
「でも、日置くんに注意されたはずです。ラケットミスのことね」
「はい・・」
「なのに、今も同じことをしました」
「・・・」
「でも今のは、最初から左手で取るつもりのようでしたね」
「それになんの意味が・・」
「それは私にもわかりません」
皆藤や悦子や朝倉のみならず、三神の彼女らも「規格外」の中川に、まるで宇宙人を見るような思いがしていた。
「そういや、山科ちゃん」
悦子が呼んだ。
「はい」
「あんた、きよしってなんなん」
「いえ・・なんか、中川さんが私のこと、きよしとか・・オスカルて呼ぶんです」
「へ・・?」
「私は天地です」
野間が言った。
「私なんか・・クチビルゲです・・」
仙崎が言った。
「私は、イカゲルゲです」
磯部が言った。
「向井ちゃんは?」
「アンドレです」
野間が答えた。
「先輩・・ゼンジーですよね・・」
山科が訊いた。
「ああ・・なるほど、そういうことか」
悦子は、中川がやたらと変な呼び名を付けることに気が付いた。
「私はクラブ探しジジィですよ」
「えっ」
「ジジィは酷いでしょう」
皆藤は苦笑した。
そこへ、コートを離れた向井がベンチに下がって来た。
「先輩、こんにちは」
向井は悦子と朝倉に一礼した。
「向井ちゃん」
悦子が呼んだ。
「はい」
「次のセット、ドライブはいらんで」
「え・・」
「ラリーは無駄や」
「はい」
「早めに勝負に出るんやで」
「はい」
「前に寄せて、コースを狙い撃ちや」
「はい」
そして向井は皆藤に目を向けた。
皆藤は「うん、頑張りなさい」とだけ言った。
―――桐花ベンチでは。
「きみは!一体、何を考えてるんだ!」
日置が怒鳴った。
「なに怒ってんだよ!」
「オーバーしたボールは打っちゃいけないって、僕、言ったよね!」
「うるせぇな」
「うるさいってなんだよ!」
「先生よ」
「なんだよ」
「ちったぁ落ち着けって」
中川は日置の肩を軽くポンと叩いた。
「これが落ち着いてられるか!」
日置は中川の手を跳ね除けた。
「へっ、わかってねぇな」
「なにがだよ」
「私はさ、こんなにたくさんのギャラリーの方々によ、サービスしたんでぇ」
「はあ?」
「あそこで私はボールを追いかけただろ。んで寸前で左手で取っただろ」
「・・・」
「見てるやつらはどう思うんでぇ」
「バカだと思うよ!」
「ったくよー、これだから先生はいけねぇやな」
「なにがだよ」
「演出って知らねぇのか」
そこで中川は重富を見た。
重富は「え?」と訊き返した。
「重富はよ、元演劇部だからわかってるよな」
「えぇ・・」
重富は、ここで私に振るのか・・と困惑した。
「私は最初から打つつもりなんざ、なかったのさね」
「・・・」
「まあ、そういうこった。どうでぇ、おめーら、ヒヤヒヤしただろ」
中川は彼女らを見て笑った。
「二度とそんな演出なんかするな!」
「まだ怒ってやがるぜ」
「もし!あたったらどうするんだ。絶対にあたらない保証があるのか!」
「はいはい、わかったわかった」
「きみ、阿部さん、倒れそうになったんだぞ!」
「え・・」
そこで中川は阿部を見た。
阿部は、情けない表情を見せていた。
「チビ助・・おめー、大丈夫なのかよ」
「中川さん・・」
「なんでぇ」
「めっちゃ・・心臓に悪いから・・あんなんせんといて・・」
「そ・・そうか・・」
「頼むから・・普通に試合して・・」
「・・・」
「ラスト・・出られへんし・・中川さんにかかってるねん・・」
「おう、わかってらぁ」
「頼むわな・・」
「中川さん」
日置が呼んだ。
「なんでぇ」
「このセットだよ」
日置は何とか怒りを抑えていた。
「わかってらぁな!」
「いいかい。絶対に焦らないこと」
「おうよ!」
「追い込まれているのは向こうも同じ」
「そうさね!」
「とにかく、無茶はしない」
「しねぇって!」
「じゃ、最後まで徹底的に叩きのめすこと、いいね」
そして日置は中川の肩をポンと叩いて送り出した―――




