253 悦子の複雑な心境
同じ頃、体育館の入り口では、悦子と朝倉が到着していた。
悦子は三神のことより、桐花が気になっていた。
リーグへは確実に上がれると思っていたが、「万が一」を考え、早めに観に来たというわけだ―――
「今やと、二回戦か三回戦やな」
悦子は時間のことを言った。
「そうね」
「中川さん、どんな試合してるんやろな」
「あの子なら、おめーを連呼してるわね」
「あはは、ほんまやな」
そして二人がロビーへ足を踏み入れると、館内は歓声でどよめいているではないか。
「え・・なんなん」
「なにかあったのかしら」
二人はフロアへ入ろうとしたが、第1コート付近の入口は、人の壁ができているではないか。
「これ・・なんなん」
悦子は唖然としていた。
「向こうへ行きましょうよ」
朝倉がそう言うと、二人は別の入口に向かった。
そしてフロアに入ると、第1コートの周りは人で塞がれていた。
「1コートて、うちのブロックやん」
悦子は第1シードのことを言った。
そして悦子は、皆藤と三神の彼女らが1コートの後方にいるのを見つけた。
「ええっ、うちやん」
「あっ、向こうは桐花よ!」
「なんやこれ・・もうあたってるんかいな・・」
「ちょっと、えっちゃん。デュースになってるわよ」
朝倉がそう言うと、悦子もカウントボードを見た。
「デュース・・」
悦子は唖然としていた。
「でも、1セットは三神が取ってるわね」
「というか・・中川さんやん!」
中川と向井は、互いに構えに入ったところだった。
「ひなちゃん、行くで」
「うん」
そして二人は三神ベンチに向かった。
ほどなくしてベンチ後方に到着した悦子は、「先生」と声をかけた。
ちなみに、フロアの中央には、入口から奥まで二重にフェンスで仕切られており、ここは選手らが使用するための通路になっていてる。
「おや、竹林くん」
皆藤は振り向いてそう言った。
すると彼女らも「先輩、こんにちは」と言って一礼していた。
「どうなってるんですか・・」
「今は、2-1でうちが負けています」
悦子は聞き間違いだと思った。
それは朝倉も同じだった。
「先輩」
野間が呼んだ。
「なに?」
「トップは勝って、二番は負けて、ダブルスも負けました」
「は・・はあ・・はあ?」
「そうなんですよ、竹林くん」
「そうなんですよて・・」
「今は1セット取っています」
「はい・・」
「でもこのセットはデュースになりました」
「1セット目は、何点やったんですか・・」
「0点で勝ちました」
「れ・・0点っ?」
悦子は混乱した。
なぜなら、0点で勝ったのに、なぜデュースなんだ、と。
なにがあったんだ、と。
「先輩、どうぞ座ってください」
野間は悦子と朝倉にそう促した。
「いや・・そんなんええねや・・」
「気を使わないでくださいね・・」
朝倉の表情は強張ったまま、そういうのが精一杯だった。
―――コートでは。
中川と向井は、一歩も引くことなくラリーの応酬を繰り広げていた。
ぜってー先に1点取るんでぇ・・
死んでもこのラリーは負けられねぇ!
疲れてるんは・・中川さんの方や・・
もっと動かしたる・・
二人は互いにこう思いながら、ボールを打っていた。
向井は左右にではなく、前後に動かしていた。
そしてドライブは徹底してバックコースへ送り、ストップはフォアとバック前を混ぜて取り入れていた。
中川は、息を荒くしながらも懸命に拾い続けた。
そして、ズボールを出すタイミングを見計っていた。
ここは・・バック前にストップしやがった時、叩いてやるしかねぇな・・
するとアンドレは・・バックにドライブすんだろ・・
それを打ちに行く・・
この時点で私は回り込んでるってわけさね・・
するとアンドレは・・ぜってーフォアに打って来る・・
それを、ズボールで返すって寸法さね・・
こう考えた中川は、ストップを叩きに行くと決めた。
そしてボールがバック前にストップされた時だった。
これだ~~~!
中川は全速力で前に駆け寄り、その勢いのままバックハンドで返した。
フォアに入ったボールを、向井はドライブでバックへ返球した。
すると中川は、後ろへ下がらず、打ちに出た。
これが決まれば儲けもんさね!
中川はバウンドしてすぐにカウンターで返した。
これもフォアコースだ。
中川は向井にわざと打たせるため、フォアへ送ったのだ。
すると向井は中川の思惑通り、がら空きになったフォアへドライブを打って来た。
バカめ~~~!
アンドレよ、まんまとひっかかりやがったな~~!
そして中川は、全速力でボールを追った。
「中川ーーー!絶対に諦めるな!」
日置が叫んだ。
「中川さん・・」
阿部は直視できないほど、心臓が破裂する思いだった。
「走れ~~~~!」
重富も叫んだ。
「中川さんやったらぁ~~追いつけるよぉ~~!」
森上も懸命に檄を飛ばした。
「取れ~~~~!」
「走れ~~~走れぇぇ~~~!」
「きゃあ~~~~!」
「あかん・・寿命が縮まる・・」
小島らも祈るような気持ちで、試合を見守っていた。
誰に言ってやがんでぇ~~!
取るに決まってんだろうがよ!
中川はボールに追いつき、一瞬、向井の立ち位置を見た。
ミドルに立ってやがる・・
ここは・・バックストレートに入れて・・
左に曲げてやんよ・・
そして中川は、床スレスレのところでラケットを複雑に動かした。
ボールはバックコースへ真っすぐ飛んで行った。
向井は、ほぼミドルに立ったままだ。
そう、向井はやはり右へ曲がることを恐れていたのだ。
そしてボールがバウンドすると、ククッと左に曲がった。
えっ!
向井はツッツキで返そうとしたが、ミドル寄りに立っていたため、ラケットを出すのが精一杯だった。
そしてなんと、向井は空振りをしたのだ。
「サーよしっ!」
中川は、見たかといわんばかりに、また振り向いて渾身のガッツポーズをした。
すると、悦子と朝倉が立っているではないか。
「よーう!ゼンジーにクラクラのねぇさんじゃねぇか!」
悦子は愕然としながら、中川を見ていた。
それは朝倉も同じだった。
「ゼンジー・・」
皆藤がポツリと呟いた。
―――桐花ベンチでは。
「よーーーし!ナイスカットだ!」
日置は両手でガッツポーズをした。
「よっしゃあーーーーー!」
「ズボール!ここに極まれり!」
「ナイスカット!」
「さあさあ~~!ラスト1本!」
「あああ・・」
そこで阿部は倒れそうになり、足元がふらついた。
「阿部さん!」
重富が阿部を支えた。
「千賀ちゃぁん!大丈夫ぅ?」
「阿部さん、どうしたの」
日置が心配をした。
「す・・すみません・・なんか貧血かな・・」
「きみ、座ってなさい」
「は・・はい・・」
そして阿部は、重富に支えられたまま椅子に座った。
「阿部さん、大丈夫か?」
小島が声をかけた。
「はい・・すみません・・」
「救護室に行って、横になるか?」
「いえ・・ここにいてます・・」
他の者も「大丈夫か?」と阿部を心配していた。
その実、阿部はラストに出られなくなったことで、責任を感じていた。
それゆえ、中川に負担をかけていることが、たまらなく辛かったのだ。
その意味で、他の者とは違う精神状態に陥り、軽い貧血を起こしたというわけだ。
―――三神ベンチでは。
「向井ちゃん、どんまいですよ」
「次、1本取りますよ」
「挽回ですよ」
彼女らは、変わらず冷静な声を挙げた。
「今のカット・・なんなんですか・・」
悦子は皆藤に訊いた。
「浅野くん直伝の、魔球です」
「そ・・そうですか・・」
「なんでも、ズボールというらしいですよ」
「ズボール・・?」
「変な呼称ですね」
皆藤はそう言って笑った。
「ふふふ・・」
中川は悦子を見て笑った。
「ゼンジーよ・・」
「なんや」
「ズボールは・・いわば三神が教えてくれた秘技さね・・」
「えっ・・」
「うちが教えたとは、聞き捨てなりませんね」
皆藤が言った。
「じいさんも、よく聞きな」
皆藤や悦子のみならず、三神の彼女らも朝倉も、中川の次の言葉を待っていた。
「あれはいつだったか・・」
中川は、またあさっての方を向いた。
「ボールがユラユラと・・」
「・・・」
「すると・・きよしは空振りをした・・」
山科は、自分のことか?と思った。
「きよして、誰よ」
悦子が訊いた。
「わ・・私です・・」
山科は思わずそう答えた。
「はあ?」
「すみません・・」
なぜか山科は謝った。
「それを見た私は・・ズボールを思いついたんでぇ・・」
「関根くん」
皆藤が呼んだ。
呼ばれた関根は、また右太ももをきつく抓っていた。
「試合を再開しなさい」
「はい」
そして関根は「中川さん・・」と、少し震えた声で呼んだ。
「おうよ、わかってらぁな」
そして中川は、コートに着いた―――




