252 窮地を救った大河
―――「うわあああああ~~~!」
館内は、まさに悲鳴にも似た叫び声が飛び交っていた。
なぜなら、ギャラリーの殆どが「ラケットミス」を知っているからである。
「中川さーーん!」
大河は椅子から立ち上がり、口に手を当てて大声で叫んだ。
えっ・・
今のは大河くんの声だわ・・
そう、中川は大声で叫びまくるギャラリーの中から、大河の声だけは聴こえたのだ。
そこで中川は、ボールに触れる寸前で観客席を見上げた。
かろうじてラケットにあたらなかったボールは、コロコロと床に転がっていた。
「ああああ・・・」
日置は眩暈がしそうになっていた。
「よ・・よかった・・」
小島がそう呟いた。
「危なかった・・」
浅野も他の者も、やれやれとばかりに胸をなでおろしていた。
「あの・・」
そこで阿部が小島に声をかけた。
「なに?」
「なにが・・よかったんですか」
「今の・・ラケットにあててたら、ミスを取られて中川さん、負けてたんやで」
「ええええええ~~~!」
阿部と森上と重富は、驚愕していた。
「オーバーミスのボール、ノーバウンドであてたら、ラケットミスいうて、相手の点になるんやで」
「そ・・そやったんですか・・」
阿部らは血の気が引く思いだった。
「中川さんも、きみたちも・・知らなかったんだね・・」
日置は首の皮一枚繋がったことで、心底安堵していた。
一方で中川は、大河に呼ばれたことが嬉しくて呑気に手を振っていた。
でも大河くん・・
なぜ、叫んだのかしら・・
きっと・・私のプレーを見て・・感激してくれたのね・・
そうよ・・
そうだわ~~~!
きゃ~~~!
そして中川はボールを拾って、コートへ戻ろうとした。
「中川さん!タイム取って!」
日置が叫んだ。
中川は、輝くような笑顔を見せて、タイムを取ってベンチに下がった。
「先生、なにかしら?」
「え・・」
日置は中川の話しぶりに驚いた。
「あっ・・ああ、なんでぇ」
「あのね、今のボールなんだけど、オーバーミスをノーバウンドでラケットにあてると、ミスを取られるんだよ」
「は・・?」
中川は意味がわからなかった。
「向井さん、オーバーミスしたでしょ」
「おうよ」
「きみ、それを打ち返そうとしたよね」
「それが、なんだってんでぇ」
「だから、そのボールをラケットにあてた時点できみのミスになるの」
「え・・」
「だから僕は必死で叫んだんだよ。聴こえてなかったの?」
「いや・・聴こえてたけどよ、なに叫んでんでぇと思ってたのさ」
「とにかくそう言うこと。だから、ノーバウンドのボール、打ちに行っちゃダメだよ」
「そ・・そうなのか・・私は危ねぇところだったんだな・・」
「よく、寸前のところで思い留まったよね・・まったく・・」
「あっ!」
中川は、何かを察したように突然叫んだ。
「どうしたの」
「そうか・・そうだったのかよ・・」
「なにが」
「いや・・大河くんが・・私の名前を叫んでよ・・」
「え・・」
「それで・・私はよ・・思わず観客席を見上げたんでぇ・・」
「そっか。きみが観客席を見上げて手を振ってたのは、そういうことだったんだね」
「大河くんが・・私を救ってくれたんだ・・そうだったのか・・」
日置は中川の話を聞いて、大河に感謝していた。
そして恋の力というのは、なんと凄まじいものかとも思っていた。
なぜなら、監督である自分の声は届かなくても、大河の声は届いた。
そのおかげで、中川は窮地を脱したからである。
―――観客席では。
「ああ~、まさに危機一髪やったな」
大河は席に座り、ホッとしていた。
「あはは、中川さん、ラケットミス知らんかったんやな」
「そうみたいやな」
「でも、お前が叫んだおかげで、救われたな」
「あんな負け方は、後々、引きずると思てな」
「確かにそうやな」
「これでデュースか・・」
「せやけど中川さんのあのカット、あれはなかなかやで」
森田はズボールのことを言った。
「うん」
「どんだけ練習したんやろな」
「あの子・・威勢だけとちゃうな・・」
「おっ、大河。お前、もしかして?」
森田はそう言いながら、いたずらな笑みを見せた。
「なに言うてんねん」
「あはは、まあええやん」
その実、大河は中川に特別な感情は抱いてなかった。
けれども以前の印象とは変わり、少なくとも嫌いではないし、だからこそ、かわいいと思ったのだ。
―――三神ベンチでは。
「中川くんは・・本当に不思議な子です」
皆藤がそう言った。
「ラケットミス・・知らなかったんですね」
野間が言った。
「まあ、寸前のところでミスは免れましたが、それにしても、オーバーしたボールを追いかけますかね」
皆藤は笑っていた。
「なぜ追いかけたんでしょうか・・」
「私にはわかりませんが、それが中川くんという子なのでしょう」
そして皆藤は「向井くん」と呼んだ。
向井は皆藤の前に立った。
「はい」
「ここは、絶対に取りなさい」
「はい」
「それとコースはバックですよ」
皆藤は、バックカットのズボールはフェイクだと言いたかった。
それは向井も十分理解していた。
「はい」
「おそらく、ラケットミスのことは日置くんから知らさせれてるはずです」
「はい」
「首の皮一枚繋がったと思っているところを、容赦なく叩きなさい」
「はい」
そして向井は、彼女らにも励まされながら、一礼してコートに向かった。
―――桐花ベンチでは。
「さあ、中川さん」
日置が呼んだ。
「おうよ!」
「ここは、絶対に取るよ」
「わかってらぁな!」
「きみがラケットミスしなかったのは、偶然じゃない。流れはこっちにある」
「そうでぇ!私はデュースにしたのさ」
「うん。だからしっかりね」
中川の肩に手を置く日置は、一層力が入った。
「おうよ!」
そして中川もみんなに励まされながら、ゆっくりとコートに向かった。
コートに着いた中川と向井は、改めて互いを見ていた。
「ふふふ・・アンドレよ」
「向井です」
「勝負の時だな」
「そうですね」
「一歩も引くつもりはねぇから、覚悟しな」
「そのままお返しします」
「おうよ!そうでねぇとな!」
そして中川は振り向いて三神ベンチを見た。
皆藤と彼女らは、また何事かと中川を見返した。
「よーう、須藤よ」
呼ばれた須藤は怪訝な表情を浮かべた。
「おめーにも、そのうちあだ名を付けてやっから、楽しみにしてな」
「えっ・・」
「どびきり・・ぴったりなのをよ。ふふふ・・」
「ちょっと、中川さん」
菅原が呼んだ。
「なんでぇ」
「いい加減、真面目に試合したらどうですか」
「なに言ってやがんでぇ。こちとら真面目も真面目、真面目が服を着てると、もっぱらの噂よ・・」
「あなたのような無礼な子、見たことありません」
「私もおめーのような、ガチガチの堅物、見たことねぇぜ」
「なっ・・」
「まあまあ、菅原くん」
皆藤はニッコリと笑って制した。
「いいではありませんか」
「先生・・」
「少なくとも中川くんは、プレーは真面目ですよ」
「・・・」
「おうよ!わかってんじゃねぇか、じいさんよ」
「で、いつ再開するのですか」
「え・・」
「きみ、時間稼ぎしてますね」
「そっ・・なーに言ってやがんでぇ」
そう、中川は、どう攻めようかと時間稼ぎをしていたのだ。
「気持ちを見透かされた時点で、きみは負けに近づいているのですよ」
「しゃらくせぇやね!こちとら、今にもおっ始めてぇ心境なのさね!」
「じゃ、始めてください」
「おうよ!」
そして中川は向きを変え、関根からボールを受け取った。
ぐぬぬ・・
さすがジジィだ・・
ふんっ・・
でもよ・・
勝負はこっからなんでぇ・・
ヘラヘラ笑ってられるのも・・今のうちさね・・
そして中川は「行くぜ!」と言いながらサーブを出す構えに入った―――




