251 知らなかったルール
―――「中川さん、息を吹き返したな・・」
観客席で見守っている大河は、独りでに呟いた。
それにしても・・
1セット目の後半・・
全くやる気がなかったけど・・
あれは、このセットを取るための芝居やったんやな・・
とすれば・・桐花の監督は、なかなかの軍師やな・・
「大河」
そこへチームメイトの森田がやって来た。
この森田は、千里中央の駅前の本屋で、大河と一緒にいた男子である。
「おお、森田」
「中川さん、どないや」
森田はそう言って大河の横に座った。
「1セットは0点で負けたで」
「えっ、0点?」
「でも、このセットは今のところ、五分五分やな」
「お前、なんて言うたったんや」
「別に、特別なことは言うてへんで」
「中川さん、お前にぞっこんやで」
「そんなん関係ない」
「ええなあ~あんな美人に好かれて」
「僕には関係ない」
それにしても中川さん・・
なんで三神ベンチに向かってガッツポーズしてんねやろ・・
ほんま、おもろい子やな・・
―――そして通路では。
「なんや・・あのカット・・」
植木はズボールを見て、驚愕していた。
「どうやって編み出したんや・・」
早坂も呆然としていた。
「浅野さんに習ったんかな・・」
「魔球か?」
「はい。でも、浅野さんのカットより、上な気がします」
「へぇ・・」
「これ・・三神は手を焼くんとちゃいますか」
「でもやで、1セット目のあれは、なんやねん」
「それは僕にもわかりませんが、とにかく中川さんが息を吹き返したことは確かです」
「せやけど、このセット取らな、桐花は負けやで」
「取りますって!絶対に取って、セットオールになりますって!」
植木は、俄然元気が出てきた。
「セットオールになってもやな、まだ勝ったわけやないで」
「編集長!」
植木は早坂を見て怒鳴った。
「なんやねん」
「桐花が負けたらええと思てるんですか!」
「ちゃうがな。わしは最後まで勝敗の行方はわからんて言うてんねや」
「そらそうですけど、頑張れって思わへんのですか!」
「お前な・・」
「なんですか」
「わしはファンとちゃうねん。公平な立場のジャーナリストや」
「僕かてそうですけど・・」
植木は不満げな表情を見せながら、コートに目を向けた―――
驚いたのは植木らだけではない。
大勢のギャラリーは、中川の豹変ぶりに言葉を失っていた。
「あの子・・さっき、0点やったよな・・」
「一体、何がどうなってんねん・・」
「なんや途中で・・男子と話してたけど・・」
「彼氏か・・?まさかな・・」
この者は、中川と大河の見た目を言った。
このカップルは、地球がひっくり返ってもあり得ないぞ、と。
そして中川から声をかけられたギャラリーたちも、驚きの声を挙げていた。
「観んと損するて言うてたけど・・ほんまや・・」
「あんな、わけのわからんカット・・見たことないぞ・・」
「おもろなってきたな」
「頑張れよ~~!」
そして試合は一進一退を繰り返し、まさにデッドヒートの展開となっていた。
向井はツッツキからのミート打ちで攻めるも、中川は悉く拾い、その返球を向井はドライブをかけて返していた。
そう、一発では決まらないのだ。
中川はドライブをズボールで返し、向井は空振りをすることもあったが、どうしてもタイミングが合わずに、当てて返すだけのボールも多かった。
それを中川は、悉くスマッシュで決めていた。
その意味でズボールは、完全に向井を翻弄したのだ。
けれども向井も負けてはいない。
疲れの溜まってきた中川に対し、ドライブからのストップを織り交ぜ、少しでも高く返ってくると抜群のミート打ちで決めていた。
そしてとうとう、カウントは19-19の同点となっていた。
「ハアハア・・」
中川は肩で息をしていた。
「中川さん!ここ1本だよ!」
日置は懸命になって叫んでいた。
「絶対に取るで!」
阿部も椅子に座らずに、ずっと立って応援していた。
「中川さぁん~!しっかり~~~!」
「何度も立ち上がれ~~!何度でも立ち向かえ~~~!」
重富は『栄光を掴め』の歌詞を言った。
おうさね・・重富よ・・
こんなところで負けてられねぇよな・・
なにがなんでも・・このセットは取るぜ・・
そして中川は「1本!」と大きな声を発し、レシーブの構えをした。
向井も「1本」と声を挙げてサーブを出す構えに入った。
向井は、バックコースへ上回転のロングサーブを出した。
中川はすぐさま下がって、バックカットで返した。
フォアに入ったボールを、向井は思い切りドライブをかけに行った。
けれどもバックコースだ。
くそっ・・
ズボール・・出さねぇと・・
そして中川は、「にわか仕込み」のズボールで返した。
ダメだ・・曲がらねぇ・・
中川の思った通り、ボールは曲がらずにミドルへ高く上がった。
向井は絶好のチャンスボールを、どっちへ打ってやろうかといわんばかりに、中川の動きを見ていた。
よし・・ここはミドルやな・・
そして向井は中川の体をめがけて、弾丸スマッシュを打ちこんだ。
中川は咄嗟に足を右へ動かしたが、ボールは中川の顔にあたって下に落ちた。
「サーよし」
向井は、憎らしいくらいの冷静な声を静かに発した。
「ナイスボールですよ」
「ラスト1本ですよ」
「ここ、締まりますよ」
チームメイトも静かにそう言った。
これでカウントは20-19になり、いよいよ中川は、桐花は崖っぷちに追い込まれた。
「中川!絶対に諦めるな!」
日置はそう叫んだ。
「わかってらぁな!」
中川は追い込まれたにもかかわらず、まだまだ意気軒昂だった。
「お願いします・・神様・・神様・・」
阿部は手を合わせて祈っていた。
「大丈夫や。阿部さん」
重富は阿部の肩を抱いた。
「中川さぁん~~!こっからやでぇ~~~!」
森上も懸命に檄を飛ばしていた。
そして小島ら八人も、声も枯れんばかりの声援を送っていた。
「アンドレよ・・」
中川が呼んだ。
向井は黙ったまま中川を見た。
「勝ったと思ってやがるだろ・・」
「愚問です」
向井には、勝ったなどという気の緩みなどなく、最後まで攻める覚悟でいた。
「ここからだぜ・・」
「そのつもりです」
「ぜってー追いついてやる・・」
「1本」
向井はサーブを出す構えに入った。
「来やがれってんでぇ!」
そして中川はレシーブの構えに入った。
向井は、フォア前に短いナックルサーブを出した。
けれどもこのサーブは切ったように見えた。
中川はすぐさま前に出て、ツッツキで返した。
するとボールは、フォアへ少し高く返った。
し・・しまった・・
そう思った中川だったが、すぐにカットの構えに入った。
「ああ・・」
阿部は思わずそう呟いた。
そう、万事休すだと。
それは重富も森上も、小島らも同じだった。
フォアに打ってくるよ・・
中川さん・・
絶対に拾うんだ・・
日置はこう思っていた。
すると向井は日置の思った通り、フォアへスマッシュを打ち込んできた。
「中川!動け!」
日置が叫んだ。
先生よ・・
私を誰だと思ってやがんでぇ・・
アメリカまで動いてやらぁな!
中川は懸命にボールを追った。
そして何とかラケットにあててカットで返した。
けれどもこれはズボールではない。
よし・・ここは・・バックへ行くと見せかけて・・
こう思った中川は、わざとバックへ動くふりをした。
すると中川の動きを見た向井は、再度フォアへドライブをかけてきた。
よーーし・・アンドレよ・・
かかりやがったな・・
中川はすぐさま足を止め、フォアへ移動し、十分な体勢からラケットを複雑に動かした。
ズボールは向井のミドルでバウンドした。
しまった・・
打つコースを読んでたんやな・・
どっちや・・どっちへ曲がるんや・・
そしてボールはククッと右へ曲がった。
右か!
向井は空振りしてなるものかと、ラケットを出してなんとか打ちに行ったが、ボールはラケットの端にあたり、大きくオーバーミスをしたのである。
桐花ベンチは「よっしゃ~~~!」と声を挙げた。
ところが、その時だった。
なんと中川は、ラケットにあてて返そうと、ボールを追いかけたのである。
ボールはまだ高く上がったままだ。
無論、ボールはコートのはるか横を飛び、完全なオーバーミスなのだ。
「中川~~~~~!」
日置は血相を変えて絶叫した。
「あああああ~~~!」
小島らも大声で叫んでいた。
阿部と重富と森上は、一体どうしたんだと、唖然としながら日置らを見ていた。
「中川~~~~!ダメだ!ダメだああああ~~~!」
先生よ・・なに叫んでやがんでぇ・・
これでデュースになったぜ・・ふふっ・・
どんなもんでぇ・・
中川は不思議に思いながらも、まだボールを追いかけていた。
「中川~~~~!落とせ!ラケットを落とすんだ!」
日置がそう叫べども、中川は無視してラケットを出していた。
そしてボールはゆっくりと、中川のラケットをめがけて落ちてきたのだ。
なぜ、日置や小島らが絶叫してでも止めたかというと、ミスをしたボールに対してノーバウンドでラケットにあてた場合「ラケットミス」といって相手のポイントになるからだ。
現在では、このルールは廃止されているが、この時代はこのようなルールがあったのだ。
そうとは知らない中川は、無邪気にボールを追いかけてしまったのだ。
そして阿部らも、このルールは知らなかったのだ。
ここで中川がボールにあててしまうと、自動的に向井の点となり、桐花は負けてしまうのだ。
中川は、果たしてラケットにあてるのかどうなのか。
ボールはあと数センチのところまで落ちて来ていた―――




