244 敵に塩を送る
―――「1本」
山科は小さな声を発し、台の下でサインを送った。
野間は黙って頷いた。
そして山科は、ボールをポーンと高く上げた。
そう、投げ上げサーブである。
ここまで山科も野間も、投げ上げサーブを出すことがなかった。
山科のラバーは表なので、ブチ切れというわけではないが、それでも回転はかかる。
ここは落ち着いてレシーブせんと・・
恵美ちゃんに繋いで・・あのボールを・・
すると山科は、ミドルラインぎりぎりのネット際に、小さなサーブを出した。
阿部には下回転に見えた。
阿部はツッツこうか、叩こうかと一瞬迷ったが、ミスを恐れてツッツキで返した。
するとボールは少し高く上がった。
しまった・・
横も入ってたんか・・
阿部は森上の邪魔にならないよう、レシーブしたと同時に、すぐに後ろへ回って移動した。
野間は、待ってましたといわんばかりに、スマッシュを打ちに出た。
森上も反射的に後ろへ下がった。
すると、森上の動きを見た野間は、寸でのところでストップをかけた。
チャンスボールなのだから、普通は打ち抜いて決めるのが常道だ。
事実、その方が決まる確率も高い。
けれども野間は、先に1点を取るためにけして慌てなかった。
そう、森上ならきっとここでロビングを打って来るに違いないとわかっていたからだ。
森上は全速力で前に走り寄り、なんとかボールを拾った。
ミドル前に入ったボールに、山科は頂点を叩いてフォアクロスへ打ち抜いた。
「おおおおお~~~~!」
ギャラリーからは、決まったぞといわんばかりの歓声が挙がった。
「チビ助~~~~~!動けーーーー!取れぇぇーーー!」
「走れーーー!」
阿部はベンチの声に押されたわけではなく、懸命にボールを追いかけた。
くそっ・・
絶対に諦めへん!
阿部はやっとのことでボールに追いつき、なんとかコートへ返球した。
「先輩!すごい~~~!」
阿部の奮闘ぶりに、和子も興奮していた。
けれども、そのボールは絶好のチャンスボールだ。
今度こそ打って来ると読んだ森上は、台から下がって構えた。
すると森上の読み通り、野間は万全の体勢からスマッシュを打ち込んできた。
フォアを逃げるようなスピードの乗ったボールに、森上は信じられない速さで追いつき、その場からドライブをかけた。
そう、ロビングである。
ボールは山なりに高く上がり、ラリーを観ている全員がボールの行方を目で追った。
中でも山科はボールを凝視し、打つタイミングを狙っていた。
合わせるだけでええんやろか・・
バウンドしてすぐに打てば・・
絶対に抜ける・・
そう、山科はカウンターで返そうと決めた。
そしてボールはバウンドした。
けれどもボールはバウンドした瞬間、ほんの少しだけ右へ曲がった。
森上のドライブは横回転も入っており、おまけに凄まじいほどの上回転もかかっている。
えっ・・
一瞬、困惑した山科は、寸でのところで合わせにいった。
するとボールは少し高く返り、阿部は全速力で前に走り寄り、バックストレートへ抜群のミート打ちで返した。
野間は抜かせてなるものかと、懸命にラケットを出したが、ボールは野間の少し横を抜けて後ろへ転がっていた。
「サーよしっ!」
阿部と森上は渾身のガッツポーズをした。
「よーーーし!ナイスボール!」
日置も俄然興奮していた。
「チビ助~~~~~!よく取った!よく取ったぜ!」
中川は、誰もが決まったと思った山科のスマッシュを、諦めずに返したことを言った。
「うわああ~~!すごいいいい~~~!」
和子は思わず中川の肩をポンポンと叩いていた。
「ナイスボール!」
「さあ~~~ラスト1本!」
小島と浅野も大きな拍手を送っていた。
―――三神ベンチでは。
「野間くん、山科くん」
皆藤は二人を呼んだ。
そして彼女らは黙って振り向いた。
「まだまだ、これからですよ」
皆藤は、まだ顔色一つ変えていなかった。
「はい」
二人は小さく頷き、コートへ向きを変えた。
「この1本は絶対に取って、デュースに持ち込みますよ」
野間はラケットで口元を隠しながらそう言った。
「はい」
山科は、あの瞬間、迷いが生じたことを悔いていた。
「山ちゃん」
「はい」
「さっきのことは忘れましょう」
「・・・」
「追い詰められているのは向こうも同じです」
「はい」
「頑張りますよ」
野間は山科の肩を軽くポンと叩いた。
そして山科はサーブを出す構えに入った。
山科は台の下でサインを送り、ボールを上げた。
ミドルラインぎりぎりのところへ出したサーブは、なんとも微妙な位置でバウンドした。
これ・・ミスや・・
主審の福田はそう判断し、「ミスです」と手を挙げて告げた。
驚いた阿部は、レシーブを止めてボールを拾った。
今しがたのバウンドした位置は、ミスともとれるし、そうでないともとれる。
その実、重富も判断し兼ね、そのまま続行が妥当だと思っていたのだ。
その意味で、重富は福田の潔い判断に感服していた。
なぜなら、大事な1セットを三神は落としてしまうからである。
ミスと告げられた山科は呆然としたまま、その場に立ち尽くしていた。
「サーよしっ!」
阿部と森上は、少し遅れて声を挙げた。
「すみません・・」
山科は肩を落として野間に詫びた。
「どんまいですよ」
野間はニッコリと微笑んで、山科の肩を抱いてベンチに向かった。
「よーーーし!」
日置は1セットを先取したことで、大きな声を挙げた。
「やった~~~!」
和子も手を叩いて喜んでいた。
「こらあ~~~~!オスカルきよし!」
中川は大声で山科を呼んだ。
山科には中川の声が届いていたが、振り向くことはなかった。
「山科あああーーーーー!」
中川は苗字を呼んだ。
すると山科は少しだけ振り向いた。
「おめー、王者三神の選手だろうがよ!」
「・・・」
「こちとら肩を落とされると、張り合いがなくなるんでぇ!」
「・・・」
「最後まで堂々としてやがれってんだ!サーブミスがなんだってんでぇ!」
中川の言葉に、阿部も森上も和子も、更には小島も浅野も仰天していた。
なにを言ってるんだ、と。
ここは一気に追い詰めるチャンスじゃないか、と。
けれども日置は違った。
そうなんだよね・・
中川は・・そういう子なんだよ・・
勝ち負けとか以前に、相手が三神であろうと素人集団であろうと、この子は関係ないんだよ・・
すると山科は、なんと桐花ベンチまで歩いて来たのだ。
その様子を、この場にいる者は唖然としながら見ていた。
何が起こるんだ、と。
そして山科は中川の前に立った。
「次のセットも3セットも取りますので、どうぞご心配なく」
山科はニッコリと笑ってそう言った。
「なに言ってやがんでぇ!2-0でうちの勝ちだ!」
「いいえ、そうはさせません」
「おうよ!それくれぇでねぇとな。倒し甲斐がねぇってもんよ!」
そして山科は軽く一礼して、ベンチに戻って行った。
「ふふふ・・きよしめ、立ち直りやがったな」
「ほんまに・・あんたって子は・・」
阿部は、いよいよ呆れていた。
「なんでぇ」
「精神的プレッシャーをかけるんも、立派な作戦や!」
「ふっ、チビ助、なに言ってんでぇ」
「なによ」
阿部はむくれていた。
「こっちも100%、向こうも100%。これで戦ってこそ、真の命のやり取りってもんよ」
「試合はメンタルな部分で大きく左右されるんや!そこを突くのも命のやり取りのうちや!」
「四の五のはいいさね。よーーし、これでおめーら、勝った方が真の勝者だ。徹底的に叩きのめしてやんな!」
「わかってるちゅうねん!」
「まあまあ・・千賀ちゃぁん」
森上は、落ち着けといわんばかりに阿部の肩をポンと叩いた。
「さて、きみたち」
日置は二人を呼んだ。
そして二人は日置の前に移動した。
「最後のサーブミスはラッキーだったけど、それまでの試合運びは五分五分だね」
「はいっ」
「はいぃ」
「おそらく次のセットも競ると思う」
「はいっ」
「はいぃ」
「いずれにせよ、1セットを落とした向こうの方が追い詰められたことは確かだ」
「はいっ」
「はいぃ」
「ここは一気に畳みかけるよ。出だしからガンガン行こう」
「はいっ」
「はいぃ」
「よし。じゃ徹底的に叩きのめしておいで」
日置は二人の肩をポンと叩いて送り出した。
「森上さん、阿部さん、しっかりな!」
「このセットで決めるよ!」
小島と浅野も檄を飛ばした。
―――三神ベンチでは。
「中川くん・・あの子はほんとに掴みどころのない子ですね」
皆藤は笑っていた。
「そうですね」
野間は、半ば呆れながらそう答えた。
「山科くん」
皆藤が呼んだ。
「はい」
「訊くまでもありませんが、大丈夫ですね」
「はい」
山科はサーブミスで1セットを落としたことで気持ちが沈みつつあったが、今しがたの中川の言葉で本当に立ち直っていたのだ。
落ち込んでいる暇などない、と。
「さあ、勝負はここからです。強い者が勝つ。わかっていますね」
「はい」
「頑張りなさい」
「はい」
そして野間と山科は、チームメイトにも励まされながら、ゆっくりとコートへ向かった―――




