219 悦子の思いやり
―――ここは泉の広場。
「おーい、慎吾。ここや」
悦子は日置に手を振った。
悦子を見つけた日置は、小走りで駆け寄った。
「ごめん、待った?」
「100年待ったで」
「あはは、なんだよ、それ」
「どこがええ?」
悦子は行く店のことを言った。
「どこでも」
「ほなら、居酒屋でええか」
「うん」
そして二人は地上に出て、適当な居酒屋を探して中に入った。
二人は四人席に案内され、向かい合って座った。
「えっちゃん、練習で疲れてるのに、ごめんね」
「あんたな、私を誰やと思てんねや。疲れを知らぬ竹林とは、私のことやで」
「あはは」
そして二人は料理を適当に注文し、おしぼりで手を拭いていた。
「朝倉さんと板倉くん、よかったね」
「そやな」
「結婚すると、生涯のダブルスペアってことだよね」
「あんたは、小島さんとどうやねん」
「小島はまだ十九だよ」
「っんなもん、年なんか関係あるかいな」
「いやいや、せめて二十歳にならないとね」
「ということは、結婚、決めてるんやな」
「うん」
日置は照れ臭そうに微笑んだ。
「まあ~ごっつぁんですっ」
悦子は、力士が懸賞金を受け取る際の、手刀を真似た。
「あはは、えっちゃんって、相変わらず面白いよね」
「なんでやねん、それよりあんたやがな」
「え・・」
「え、やあらへんがな。なんかあったんやろ」
「うん・・まあね・・」
「ええから言うてみ。なんぼでも聞くで」
「あのさ、えっちゃん」
「なんや」
「中川が、三神へ偵察に行ったみたいなんだよ」
「あはは、それ、知ってる、知ってる」
悦子はあの日の中川を思い出し、手を叩きながら爆笑していた。
「えっ・・知ってるって、どういうこと?」
「あの子な、あははは、めっちゃおもろいねん。ああ~~おかし」
日置は何があったのか、全く想像もつかなかった。
「ねぇ、どういうことなの?」
「あの子な、体育館の横に隠れて、うちの子らの練習見とったんや」
「えっちゃんも、そこにいたの?」
「そや。ほんでさ、あははは、あかん、おもろすぎる」
「お待たせしました~」
そこへ店員が生ビール二つと、刺身の盛り合わせと鶏のから揚げを運んできた。
店員はそれらをテーブルに置いて「どうぞ、ごゆっくり~」と言って足早に持ち場へ戻った。
「ほな、乾杯な」
そして二人はジョッキをチーンと鳴らして、ビールを流し込んだ。
「ああ~~おいし~~」
「で、えっちゃん、話の続き」
「ちょっと、食べようや」
悦子はそう言って、割り箸を割った。
「ああ・・うん」
日置もそれに倣った。
「あんたさ、その話、中川さんから聞いたんか」
悦子は刺身を口に含んだまま訊いた。
「いや、違うんだよ」
「へぇー、そうなんや」
「それより、中川、どんなだったの?」
そして悦子は、あの日のことを面白おかしく話し始めた。
「でさ・・中川さん桜の木に登って隠れてたんや」
「・・・」
「でも私は、動かぬ証拠を持ってるやろ。愛と誠な」
「うん」
「ほんで、出てこーい!って脅かしたら、中川さん木から落ちてな」
「そうなんだ・・」
「あの子、どんな風貌しとったと思う?」
「さあ・・」
「眩暈がしそうなメガネかけて、マスクつけとったんや」
「・・・」
「もうな、今でも笑えるわ。あははは」
「えっちゃん・・その話、僕に言ってくれればよかったのに」
「なんでやねん」
「え・・」
「あんたに言うたら、怒るに決まっとるがな」
「別に・・怒りはしないよ」
「あんたさ」
悦子は少し呆れたように、日置を見た。
「なに・・」
「うちを舐めてもろたら困るんやけど」
「え・・」
「たかが偵察ごとき、三神は屁でもないで」
「うん」
「それより、あんたの話、せんかいな」
「うん。そのことなんだけど――」
日置は、事の経緯を詳しく説明した。
そして、なぜ自分が怒っているのかの理由も話した。
「なるほど、そういうことか」
「だってさ、隠し事はするなって何度も念を押してるのに、あの子たち、言わなかったんだよ」
「それがどないやねん」
「え・・」
「中川さんは、練習をサボって遊びに行ったわけやないやろ」
「うん」
「うちに、なんとかして勝とうと思たから、偵察に来たんや」
「わかってるよ」
「ほな、それでええがな」
「でもさ――」
「でももへったくれもない。あんた、まさか中川さんが辞める言うん、放っとくつもりやないやろな」
「それはそうだけど・・」
「あの子、技術はまだまだやけど、ええ根性しとるで」
「・・・」
「気も強いし、やる気もある。せやけど相手はいうても高校生やんか」
「うん」
「あんたは監督。あんたが折れんでどないすんねや」
「やっぱりそうだよね・・」
「そうや!ここで変な意地張って、あの子が戻れんようになったら、あんたは一生後悔するで」
「うん」
「っていうかさ、私、あの子めっちゃ好きやねん。あの子を泣かしたら、私があんたを泣かすからな」
「げ・・」
「ほらほら、話は終わりや。あら~唐揚げ、冷めてしもとるがな」
悦子はそう言いながら、唐揚げをパクパクと頬張った。
その実、悦子は日置の気持ちを十分理解していた。
日置とて人間だ。
感情的になるのも仕方のないことだ、と。
けれども日置に「きっかけ」を与えてやらねば、中川は本当に戻らないかもしれない。
それゆえ、悦子は日置に折れるよう、背中を押してやったのだった―――
―――そして翌日の土曜日。
「愛子!もう起きないと遅れるわよ!」
母親の亜希子は、中川の部屋のドアを叩いてていた。
中川はベッドから起き上がり、寝ぼけ顔でドアを開けた。
「あらっ・・愛子、その顔、どうしたのよ」
中川はうつ伏せになって寝ていたため、顔がむくんでいたのだ。
おまけに髪も乾かさずに寝たため、ボサボサだった。
「母ちゃん、今日は休むわ・・」
「え・・具合でも悪いの?」
「うん、ちと・・だりぃ・・」
「そうなんだ。風邪かしら」
そう言って亜希子は、中川のおでこに手を当てた。
「熱はないわね・・」
「今日休んだら、明日日曜だし、月曜には行けると思うぜ」
「明日、練習があるんじゃないの?」
「ああ・・そうだったな・・」
亜希子は、熱もないのにだるそうにしている娘を見て、何かあったのかと心配した。
なぜなら、いつも「三神の野郎をぶっ潰す!」や「ズボールの完成まで、あと少しでぇ!」などと、うるさいくらい話していたからである。
「愛子・・何かあったの?」
「なんもねぇよ・・」
「そう・・。じゃ、学校に電話しとくから、ゆっくりと休みなさい」
「うん・・そうする・・」
そう言って中川はドアを閉めた。
―――ここは、二年六組。
阿部と重富と森上は、中川が来るのを待っていた。
「中川さん来たら、普通にしとこな」
阿部が言った。
「そやな・・変に辞めたらアカンて言うと、余計に意固地になってしまうかもしれんしな・・」
重富が言った。
「それがええと思うよぉ。ほんでぇ、放課後になったらぁ、先生にも謝りに行こなぁ」
「うん・・先生に謝らんとな・・」
「そやな・・」
次々とクラスメイトが教室に入ってくる中、いつまで経っても中川は姿を現さなかった。
そして始業ベルが鳴ったのだった。
「嘘やん・・中川さん、休んだんかな・・」
阿部はとても心配していた。
「どうなんやろ・・遅刻かもしれんし・・」
「先生が来たらぁ、わかるんと違うぅ」
「ああ・・そやな」
そして三人は、それぞれ自分の席に着いた。
ほどなくして、担任の東原が教室に入って来た。
東原は担当が数学の、ベテラン女性教師だ。
「みんな、おはようー」
東原は、教壇に立って生徒たちにそう言った。
「あの、先生」
そこで阿部が手を挙げた。
「はい、阿部さん。どうぞ」
「中川さん、来てませんけど、休みなんですか」
「ああ、中川さんな、体調が悪いってことで、今日はお休みなんよ」
「そ・・そうですか・・」
そこで阿部は、重富と森上を見た。
すると二人も、沈んだ表情になっていた。
「えー、それで今朝のホームルームですが――」
東原は、黒板に内容を書いて説明していた―――
―――ここは、一年五組。
一時間目が終わり、休み時間に日置が教室を覗いた。
「神田さんっている?」
日置がそう言うと「きゃ~~日置先生や~~」と生徒たちは騒ぎ始めた。
日置に呼ばれた神田は「あのことか」と思った。
なぜなら、今朝、神田は和子から「あんたみたいな卑怯な子、もう口も利かんけに!」と言われていたからである。
事実を知った市原も、神田に怒りを覚えていた。
「はい」
神田は立ち上がって返事をした。
「ちょっと来て」
日置はそう言って、神田を廊下に連れ出した。
「なんですか」
「僕がきみを呼んだ意味、わかってるよね」
「・・・」
「今は時間がないから、放課後、職員室まで来なさい」
「・・・」
「必ず来るんだよ」
「わかり・・ました・・」
そして日置は放課後、神田と話をすることになったのである。




