218 逃げる
あの後、帰宅した日置は、ソファに寝そべり天井を見つめていた。
ほんとに・・中川は問題児だ・・
自分勝手に何でも決めて・・
僕に一言の相談もしないなんてこと・・何度あったことか・・
どうして中川は・・猪突猛進なんだ・・
度が過ぎるよ・・
でも・・ここで中川を辞めさせるわけにはいかない・・
ああ・・どうすればいいんだ・・
日置は立ち上がって、風呂へ入った。
そしてシャワーを全開にし、「きみって子は、どうしてそうなんだ!」と叫んでいた―――
一方で中川は、帰宅せずに梅田の繁華街を歩いていた。
そして行く当てもなく、所狭しと建ち並ぶ店を見るともなく見ていた。
するとビルの一階に、卓球専門店があるのを見つけた。
へぇ・・こんなところに専門店があったんだな・・
中川は立ち止まって、入口から中を見ていた。
ここは、西藤が経営する貧乏店とは全く異なり、フロアも広く、ユニフォームを着たマネキンが何体も置かれていた。
そして壁には、けして大きくはないが、歴代の世界チャンピオン、全日本チャンピオンのポスターも貼られていた。
床もピカピカで、眩しいくらいだ。
中川は少し入ってみようと思った。
「いらっしゃいませ」
人のよさそうな若い男性店員が、中川を迎えた。
「ああ・・どうも・・」
「何をお探しで?」
「いや・・特になにってわけでもねぇんだ」
店員は、中川の話しぶりに驚いていた。
無論、その美貌にもだ。
「そうですか。じゃ、ご用があれば呼んでくださいね」
「ここよ・・とても綺麗だけど、最近なのか」
「はい、昨年オープンしました」
「へぇ・・」
「では、ごゆっくり」
店員はそう言って、カウンターに戻って行った。
中川は、ユニフォームやスポーツバッグ、ラケットやラバーをゆっくりと見て回った。
そしてポスターにも目をやった。
ふーん・・世界チャンピオンか・・
知らねぇやつばかりだ・・
こっちは全日本か・・すげぇな・・
すると中川は、ある人物が目に留まった。
そう、日置である。
日置はレシーブの構えをし、眼光鋭く相手のサーブを待っており、思わず熱気が伝わってきそうなポスターだった。
え・・
嘘だろ・・
昭和○○年・・第○○代チャンピオン・・日置慎吾・・
おい・・先生って・・全日本のチャンピオンだったのかよ・・
「えええええええ~~~~!」
中川は大声で叫んだ。
すると驚いた店員は「どうかしましたか!」と慌てて走って来た。
「あっ・・いや・・なんでもねぇ・・」
「ああ~びっくりした。なにかありました?」
「いや、驚かせて悪かった」
そこへ一人の客が入って来た。
「あ、いらっしゃいませ」
店員はすぐに客を迎えた。
中川は何気に客を見た。
あああああ~~~!
あやつは、ジャガイモ!
そう、客は大河だった。
大河は中川に気が付かず「こんにちは」と店員に一礼していた。
「大河くん、先日注文してくれた靴、まだやねん・・ごめんな」
「あ、そうなんですか」
「せっかく来てくれたのに、悪いな」
「いえ、監督からユニフォームの新調を頼まれてきましたので、いいんです」
「一年生のか?」
「はい」
「きみ、よう下働きするな。偉いわ」
「そんなことないですよ。ラバーも替えんとあきませんし」
大河は照れて笑っていた。
「ほな、こっちに来て」
店員はそう言って、大河を連れてカウンターへ向かった。
中川は大河の後姿を見ていた。
そして、自分の居場所はここではないと、静かに店を出ようとした。
「ありがとうございました。また来てくださいね!」
店員が中川にそう言った。
すると大河は振り向いた。
あっ・・
中川さんやん・・
「あの、ちょっと待ってもらってもいいですか」
大河は店員にそう言った。
「うん、ええけど」
そして大河は中川を追った。
「中川さん」
大河は後ろから声をかけた。
「おう、大河じゃねぇか」
「僕、言いたいことあるんやけど」
「は?」
「あの日、僕はセンターへ行ったんやけど、用事を思い出して帰ったんや」
あの日とは、中川が大河を呼び出して対決しようとした日のことだ。
「そうかよ」
「だから、僕は逃げたんやないから」
「そうか」
中川は「逃げたんやない」と言った大河の言葉が胸に刺さった。
「言いたいことはそれだけ」
そう言って大河は店に戻ろうとした。
「ちょっと待ってくれ」
「なに」
大河は立ち止まった。
「おめーが逃げたんじゃねぇってことくれぇ、知ってらあな」
「え・・」
「だけどよ、私はもう、おめーと対戦しねぇ」
「へぇ・・」
大河は中川の言葉が意外だった。
中川なら、次はいつでぇ!くらい言うと思ったからだ。
「だから・・私はもう、卓球ともおめーとも、これっきりだから安心しな」
「安心て・・」
「んじゃ、頑張んな」
「聞き捨てならんな」
「え・・」
「安心て、どういうことやねん」
「だからよ・・もう対戦しねぇっつってんだろ」
「それやと、僕が逃げたってことになるやん」
「ならねぇって」
「というか、きみ、卓球もこれっきりて、どういうことやねん」
「辞めたんだよ」
「えっ」
「そういうこった。じゃな」
中川が立ち去ろうとすると、大河は腕を掴んで止めた。
「なにすんだよ」
「きみさ・・卓球から逃げたんやな」
「・・・」
「結局、僕の勘違いやったんやな」
「なに言ってんでぇ」
「勢いばかりでは続かんかったってことや」
そこで大河は手を離した。
「まあ、ええんちゃうか。逃げる奴なんて五万とおる。きみもその一人や。なんも珍しないで」
「・・・」
「だから気にせんと、女子高生やったらええんちゃうか」
「・・・」
「ほな、これっきりやな。さよなら」
大河はそう言って店の中へ入って行った。
くそっ・・
ジャガイモめ・・
何様のつもりでぇ・・
中川は、なんとも表現のしようがない気持ちに襲われていた。
そして握り拳が、プルプルと震えていたのだった―――
―――ここは日置の自宅。
夜になって、日置はずっとベッドであおむけになったまま、天井を見つめていた。
そして、まだ塞ぎ込んでいた。
プルルルル・・
そこで電話が鳴った。
日置は、阿部だと思った。
そりゃ・・心配してるよね・・
僕・・帰っちゃったし・・
日置は起き上がって電話台へ移動した。
「もしもし・・日置ですが」
「ありゃ、慎吾、おったんか」
「え・・えっちゃん?」
そう、相手は悦子だったのだ。
「いや、まだ帰ってないと思たんやけど、試しにかけてみたら、おったがな」
「ああ・・うん」
「あんた、練習はどうしたんや」
時間は、まだ午後七時だった。
「いや・・ちょっと・・」
「具合でも悪いんか?」
「別に・・そうじゃないけど・・」
日置は、ある意味具合が悪かった。
「で、なにか用事でもあったの」
「ああ、それやねんけどな、ひなちゃんと板倉の結婚が早まって、ほんで慎吾にも出席してほしいって」
「ああ・・そうなんだ・・」
「いうても秋なんやけど、こういうことは、早よ報せた方がええと思てな」
「そうなんだ。朝倉さん、よかったね・・」
「ちょっと、慎吾。ほんまにどないしたんや」
「えっちゃん、今どこからかけてるの」
「会社やけど」
「ああ・・そうだよね」
「なんやねん」
「いや、いい・・」
「ちょっと待ちぃな。もう練習終わったし、あんた梅田に出ておいでぇや」
「え・・」
「ええから、出て来い。えっと~、泉の広場な」
悦子は待ち合わせの場所を言った。
「でも・・」
「でももへったくれもない。ほな、待ってるからな!」
そして悦子は電話を切った。
日置は悦子の気遣いを申し訳なく思ったが、事は三神にも関わっているし、悦子に相談してみようと部屋を出たのだった。




