216 神田の罠
―――そして翌日。
一年五組の生徒たちは、音楽の授業のため、音楽室に向かっていた。
「卓球はどう?」
歩きながら市原が訊いた。
「うん。この間から、打たせてもろうとるんよ」
和子は嬉しそうに答えた。
「へぇー、結構、早かったな」
「私、中学の時から卓球しよったけに、なんか筋がええて、先生が言うてくれたんよ」
「おおっ、ほなら、郡司さんもインターハイ行けるな」
「あはは、そがなことやこ、まだわからんけに」
そこで彼女らの横を、神田が通り過ぎた。
「なにが卓球や」
神田は和子に聴こえるように、わざとそう言った。
和子は、とても嫌な気持ちがしたが、聴こえないふりをした。
「郡司さん、あんなん気にせんとき」
「うん。気にやこせん・・」
「なんか、あの子、演劇部でも孤立してるみたいやで」
その実、神田は演劇部でも上級生らと上手くいってなかった。
なぜなら、もともと協調性が乏しい神田は、上級生の指示にも従わず、度々衝突していたのだ。
「そうなんや・・」
「まあ、あの子のことはええとして、はよ行かな、ベルが鳴ってしまうで」
「うん、そうじゃの」
そして二人は駆け足で廊下を走った。
―――昼休み。
和子と市原は、一緒に弁当を食べていた。
「なんかさあ、郡司さんの話聞いてたら、卓球部て、なかなか面白いなと思てさ」
「先輩じゃろ?」
「そうそう。特に中川さん。私、新聞部やん?クラブ活動の記事も書かんとあかんねんけど、今度、卓球部を取材しよかな」
「えぇ~取材て、なんか本格的じゃな」
「今日の放課後にも、小屋に行ってみよかな」
「あ・・それは・・ちょっと・・」
「え・・?」
和子は、日置と阿部らの間で、表面化していないものの問題を抱えていることを知っている。
取材ともなると、そんな余裕などないと思った。
「あの・・今は止めといた方がええけに・・」
「なんでなん?」
「うん・・それが・・先輩たち、先生に秘密にしとることがあってな。それがどうなるか、まだわからんのよ」
「秘密て・・どういうこと?」
「なんでも・・三神とかいう学校に、偵察へ行ったぁ言うて、それを先生に言えんままなんよ・・」
「三神て、なんなん」
「大阪でもすごい強いチームじゃあ言うて、それで実力を知るために、偵察に・・」
「へぇ・・」
「誰にも言わんでよ。新聞部の先輩にも・・」
「うん、言わへんけど、色々とあるんやなぁ・・」
「勝つためじゃけに、私は仕方がないと思うとるんよ」
「そっか。わかった」
この話を聞き逃さなかったのが、神田だった。
神田は常に、和子のことを気にかけていた。
というより、どうやって泡を吹かせてやろうかと常々思っていた。
それゆえ、和子と市原の話を、いつも耳をそばだてて聞いていたのだ。
秘密か・・
これはええネタが入ったで・・
そこで神田はノートの紙を一枚ちぎって、シャーペンを手にした。
『日置先生へ。先生は知らないと思いますが、先輩たちは三神高校へ偵察に行き、そのことを内緒にしています。私も黙ってろと言われたんですが、このままだと先生は何も知らないことになります。先輩たちは言うつもりはないので私が告白することにしました。郡司和子』
なんと神田は、和子の名を悪用し、日置に手紙を書いたのだ。
そして神田は紙を折りたたみ、封筒に入れて糊で口が開かないようにした。
「郡司さん」
神田は和子の席へ移動した。
和子は驚いて神田を見上げていた。
「あの、悪いんやけどな、これ、日置先生の机に置いてきてくれへんかな」
「え・・なんで私なら・・」
「ちょっと神田さん」
市原が呼んだ。
「なに?」
「これ、なんなんよ」
「ラブレターやねん」
神田はいとも簡単に嘘を言い、そして恥ずかしそうな演技をした。
「自分で渡せばええやろ」
「私かて女やで。直接いうんは恥ずかしいやん・・」
「だから、なんで郡司さんなんよ」
「だって、郡司さんは卓球部やん」
「こんな時だけ勝手やな」
「今までのこと・・ごめんな・・」
神田は辛そうな表情を見せた。
無論、これも演技だ。
「いや・・ええけんど・・」
「ほな、頼まれてくれる・・?」
「うん、わかった」
「あっ、それと、直接は渡さんといてほしいねん・・先生がいてなかったら置いて来てくれる・・?」
なぜなら、直接渡すと「神田さんからです」と言われてしまうからである。
「おったらどないするんなら」
「持って帰って来てくれたらええよ」
神田はそう言って、優しく微笑んだ。
「うん」
和子はあまり気が進まなかったが、今後、神田の態度が変わるという期待が持てたことで、職員室へ向かった。
ほどなくして職員室に到着した和子は、扉を開けて中を覗いたが、日置はいなかった。
そして和子は、小走りで席まで行き、机の上に手紙を置いて職員室を後にした。
教室に戻った和子に「どうやった?」と神田が訊いた。
「うん、先生、おらんかったけに、机の上に置いといた」
「わあ~郡司さん、ありがとう~」
「ううん、ええんよ」
和子は嬉しそうに笑った。
けれども市原は、和子を心配していた。
なぜなら、神田はついさっきまで「なにが卓球や」と、和子に嫌味を言っていたからである。
そんなにすぐに、変われるものなのか、と。
そして神田は席に戻り、弁当の続きを食べながら、ほくそ笑んでいたのである。
―――一方、二年六組では。
「ああ~どうすっかな」
中川は、言い出せなかったことで、困り果てていた。
「昨日、言えんかったんが・・あかんかったな・・」
阿部は、自身を反省していた。
「私もぉ、よっぽど言おかなと思てんけどぉ、なんか・・口に出されへんかったぁ・・」
「私もやん・・」
森上も重富も、勇気が出なかったことを後悔していた。
「もうこのまま、言わねぇでおくか」
「え・・」
「だってよ、先生は誠愛のことだと信じてる。もうそれでいいんじゃねぇか?」
「バレたらどうすんのよ・・」
阿部が訊いた。
「誰も喋らなかったら、バレねぇだろ」
「うーん・・」
「もしバレた時にゃあ、全責任は私が負う」
「そんなわけにはいかんで」
「なんでだよ」
「中川さんだけに責任を負わせるわけにはいかん」
「おめー、っんなこたぁいいんでぇ。バレねぇ、バレねぇって」
阿部も重富も森上も、中川の「言わないことにする」という意見に、それしかないか、と思い始めていた。
そして、バレないだろうという、根拠のない希望的観測が働いていたのである。
―――ここは職員室。
日置は菓子パンを持って席に戻った。
あれ・・
机の上に置かれてある、封筒に気が付いた。
日置は、またラブレターかな・・と苦笑しながら席に着いた。
「日置くん」
隣の席に座る、堤が呼んだ。
「はい」
「それな、きみんとこの子が置いていったで」
「卓球部員ですか?」
「うん、一年生の子や」
「そうなんですか・・」
日置は不思議に思い、直ぐに封筒を開けて手紙を読んだ。
すると、信じられないことが書いてあるではないか。
三神に偵察・・?
先輩たちって・・あの子たち四人のことなのか・・
それにしても・・どうして郡司さんが・・
日置は、俄かに信じられなかった。
なぜなら、和子は「チクる」タイプではないと思っていたからだ。
黙ってろって・・そんな脅迫するようなこと・・ほんとにあの子たちが言ったの・・?
「堤先生」
日置が呼んだ。
「ん?」
「ほんとに・・郡司がここに置いて行ったんですか」
「そやで」
「そう・・ですか・・」
ということは・・やっぱりこの手紙は郡司さんからだ・・
でも・・どうして・・
「どないしたんや。ラブレターとちゃうかったんか?」
「ああ・・親御さんからの伝達です」
「そんなこともあるんやな」
堤は、当てが外れたと言わんばかりに、いたずらな笑みを見せた。
―――そして放課後。
彼女らは着替えも済ませて、体操を始めようとしていた。
「おい、郡司」
中川が呼んだ。
「はい」
「あのノートの件だがよ、もう解決したから、おめー気にしなくていいからな」
「そうなんですね。よかったです」
和子はホッとした笑顔を見せた。
「さあ~~インターハイ予選に向けて、おめーも頑張るんだぜ!」
「私・・予選と関係あるんですか」
「かぁ~~郡司よ、リーグに上がったら、おめーも試合に出るんでぇ」
「ええええ~~そうなんですか!」
「あはは、知らなかったのかよ」
「はい、知りませんでした!」
「郡司さん、あんたも選手の一人やねんで」
阿部が言った。
「そうそう、だから、はよ上達せなな」
重富もそう言った。
「一緒に頑張ろうなぁ」
森上は優しく微笑んでいた。
「はいっ!」
「あはは、おめーは、ほんとにかわいいな」
中川は和子の頭をくしゃくしゃと撫でた。
ガラガラ・・
そこで扉が開き、日置が入って来た。
「よーう、先生。遅かったじゃねぇかよ」
呑気にそう言う中川を、日置は睨みつけた。
そして阿部や森上、重富にもその厳しい視線が向けられた。
四人は、尋常ではない日置の様子を、唖然としたまま何も言えずにただ見ているだけだった。
そして日置は中に入り「話がある」と冷たく言い放ったのである―――




