212 ズボール誕生の日
―――「さて、今日から郡司さんもボールを打つことになるからね」
練習前に、日置が彼女らに向けてそう言った。
「はい」
和子は小さな声で返事をしたが、その表情は嬉しさで満ちていた。
「おお~!郡司、よかったな」
「こっからやな」
「郡司さぁん~頑張ってなぁ~」
「打てたら楽しくなるでー」
四人がそう言うと、和子は「はい」と嬉しそうに笑った。
「まずは、僕がボールを出すから、きみはそれを確実に返すこと」
「はい」
「きみたちは、基本をやった後、ダブルスね」
日置は阿部らにそう言った。
「はいっ」
「おおっ、ダブルスか。そういや・・天地らは誰と誰が組むってんでぇ・・」
「天地?」
日置が訊いた。
「あっ、なんでもねぇ、こっちのことさね」
「そういえば先生」
阿部が口を開いた。
「なに?」
「なんか、三神より――」
阿部がそこまで言うと、「チビ助!さあ~基本だ、基本!」と中川は慌てて制し、阿部を引っ張ってコートに向かった。
日置はキョトンとして、二人を見ていた。
「天地って誰?」
日置は重富に訊いた。
「なんか、ようわからんのですけど、オスカルとアンドレもいてるんですよ~!」
重富はその名前を口にするだけで、目が輝いていた。
「オスカルとアンドレ・・」
「でも、イカゲルゲとクチビルゲもいてるみたいです」
「あはは、なに、それ」
日置は『ベルサイユのばら』も『超人バロム1』も知らなかった。
「ドルゲ魔人です」
「へぇ・・」
「こらーーー!重富っ。練習しやがれ!」
中川が叫ぶと、重富と森上は苦笑しながら台に着いた。
そして日置と和子も台に着いた。
「ちょっと、中川さん・・」
阿部が小声で呼んだ。
「なんでぇ・・」
「誠愛高校のこと・・なんで先生に言わへんのよ・・」
「おめーよ、ちったぁ考えてみろよ」
「なにをよ・・」
「ズボールは誠愛対策だ・・いや・・三神もそうだが・・やはり本命は天地らさね・・」
「・・・」
「でよ、ズボールのこと、先生知らねぇだろが」
「うん」
「ここはよ・・みなまで言ってしまえばドラマがねぇってもんよ」
「え・・?」
「おめーよ、例えばだぜ?ドラマの最終回を観てから一話を観んのかよ」
「そんなアホな」
「そういうことさね」
「なんか、ようわからんのやけど」
「細けぇことはいいんでぇ。いいな、試合は最終回。それまで言うんじゃねぇぞ」
中川は思った。
練習を休んで三神へ偵察に行ったことがバレようものなら、日置の怒りは半端ないぞ、と。
今までさんざん迷惑かけて、ここで怒らせてはならない、と。
それに中川は、ズボールを試合で出し、日置を驚かせたい意図もあった。
というより、喜ばせたかったのだ。
今でいう「サプライズ」というやつだ。
一方で阿部は、誠愛高校なるものが実在するのか疑っていた。
そもそも中川が言った、「最近、引っ越してきた」などという、わけのわからない理由が不可解であったし、三神より強いチームなら、むしろ日置に報告するはずだ、と。
けれども中川は、何も言わない。
だとするならば、何かを隠しているに違いない、と。
天地をはじめとする、オスカルやアンドレ、果てはイカゲルゲやクチビルゲが何者なのか。
そこを問い質しても、中川は口を割らないであろう。
自分が日置に相談してもいいが、ここでまた問題を起こすとなると、予選に悪影響を及ぼしかねない。
そう考えた阿部は、中川の言いつけ通り、黙っておこうと決めたのだった。
―――そして一週間後。
阿部と中川と重富は、阿部家のガレージにいた。
「くっそ~~、毎日、ズボール完成のために、これだけやってもできねぇのかよ・・」
中川は手首を動かし過ぎて、痛そうに揉んでいた。
「あまり無理せん方がええんちゃう」
阿部が心配して言った。
「そやで。手首を痛めてしもたら、カットもできひんようになるで」
重富は、球拾いをしながらそう言った。
「いや、時間がねぇんだ。泣きごとは言ってらんねぇ。チビ助、出してくんな」
中川は右手首を振って、カットの構えをした。
「ほんまに大丈夫なん?」
「おうよ、やってくんな」
そして阿部はサーブを出し、カット打ちとカットのラリーが続いた。
よし・・次だ・・
中川はボールがフォアへバウンドしたところで、ゆっくり落ちて来るのを待って台の下で素早くラケットを左右に動かした。
すると中川の後ろを通り過ぎようとした重富と、衝突しそうになった。
「ああっ」
中川はカットすると同時に、咄嗟によけた。
重富も「ああっ」と言いながら、慌てて横へ逃げたが、二人はぶつかってしまった。
「重富、大丈夫か!」
「ごめん、邪魔してしもた」
二人がそう言っている間、ボールはフラフラと高く上がり、阿部のコートでバウンドした。
阿部は軽くスマッシュを打とうとした。
だが、その時であった。
なんとボールは右へククッとカーブを描き、曲がったではないか。
えっ!
阿部は完全にタイミングを狂わされ、空振りをした。
ま・・曲がった・・
ズボール・・
これが・・ズボールか・・
ボールなど見ていなかった中川と重富は、「危なかったな」と、互いを気遣っていた。
「ズ・・ズボール・・」
阿部はポツリと呟いた。
すると二人は阿部を見た。
「チビ助、なに言ってんでぇ」
「阿部さん・・?」
そう、阿部は放心状態になっていたのだ。
「えっ」
阿部は二人を見た。
「おめー、目が点になってんぞ」
「中川さん・・見てなかったん・・?」
「なにがだよ」
「ズボール・・」
「それがどうしたってんでぇ」
「今、ズボール・・」
「いまズボールってなんでぇ。あっ!新しい呼び名か?それゃあ~いけねぇやな。ゴロが悪いっての」
「ちゃうやん!ズボール!今、あんたのカット、曲がったんやで!」
「え・・」
「私、空振りしてしもたんやで!」
「なっ・・なにいいいいいいーーーー!」
「阿部さん、それほんまなん?」
重富が訊いた。
「とみちゃんも見てなかったん?」
「うん、見てない」
「曲がった!曲がったんよ!」
「中川さん、あたんどんなカットしたん?」
中川は重富に訊かれ、「どんなってよ・・」と戸惑っていた。
「おめーとぶつかりそうになっただろ。その勢いっつーか・・」
中川の、今しがたのカットは意識して返したものではなかった。
けれども中川は、感覚を思い出そうとした。
「えっと・・こうだろ・・」
中川は後ろへ下がり、ぶつかる寸前に、ラケットをどう動かしたのか実際にやってみた。
「おめーがいるってわかっただろ・・それで・・慌てて・・え・・左右に加えて・・なんつーか・・前後・・?いや、違う」
「中川さん、やってみよ!」
阿部が言った。
「お・・おう、出してくれ!」
そして二人のラリーが始まった。
三球ラリーが続いたあと、中川は台の下でラケットを素早く動かした。
ボールはポーンと高く上がり、阿部のミドルに入ったが曲がらなかった。
「ちげー・・これだと今までと同じだ・・なにがちげぇんだ・・」
「何回もやってみよ!」
「チビ助、ちょっと待ってくんな。重富、わりぃが私がカットする時、また後ろを通ってくんな」
「え・・」
「スレスレに通るんだぜ」
「うん、わかった」
そしてラリーが始まった。
重富はいつ後ろを通ろうかと、タイミングを見計らっていた。
ぶつかったらあかんしな・・
でもスレスレで通らなな・・
そして中川が姿勢を低くして、台の下でカットしようとした時だった。
重富は中川のすぐ後ろを通った。
中川は、通るとわかってても、反射的にラケットを重富から遠ざけた。
ボールは高く上がり、阿部のコートでバウンドした。
三人は曲がるのか曲がらないのか、目を皿にしてみていた。
するとボールは左へククッと曲がったのだ。
三人は呆然としたまま、ボールが床に落ちるのを見ていた。
「ほら!曲がったやん!曲がったやん!」
阿部は声を弾ませた。
「まっ・・マジかよ・・」
「確かに・・曲がった・・」
重富も、まだ唖然としていた。
「ズボール・・これが・・ズボールか・・」
「そうやん!ついにズボールの完成やん!」
そこで中川は、阿部をチラリと見た。
「チビ助よ・・」
「なに?」
「まだ完成じゃねぇぜ・・」
「うん、そらそうやけど」
「今のは、たまたまさね。私自身がどっちに曲がるのかわからねぇようじゃ、意味ねぇ」
「いや、曲がるだけでもええと思う。相手は怖いはずやで」
「それじゃあダメだ!ズボールは、私が意図的に曲げてこそ、成功さね」
「意図的?」
「右か左か・・どっちに曲げるのか、偶然じゃなく、意図的にさね」
「それって、かなり難しいと思うで」
「やってみねぇとわかんねぇだろがよ」
「そらそうやけど・・」
「よーーし、感覚を忘れねぇうちに、出してくんな!」
「わかった!」
こうして中川は、ズボールを出すコツを掴み、連日、練習を繰り返すのである。
そして五月に入ると間もなく、ついにズボールを完成させることとなるのであった。




