208 母の想い
―――ここは郡司家。
郡司家は、比較的学校から近い天王寺区のマンションを借りて住んでいた。
部屋は六畳の二間と四畳半の、いわゆる3DKだ。
親子二人で住むには十分な広さだった。
「日置先生、わざわざお越しくださって・・」
節江は、日置が訪問したことで恐縮していた。
「いえ、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」
日置は居間のテーブルの前に座っていた。
「まあこの子は・・先生の学校で卓球を続けたい言うて、それはもう、頑固で」
和子は節江の横に座っていた。
「僕も、まさか郡司さんが入学してるとは思いもせずに、驚きました」
「そりゃそうですよ~」
「でも、そこまでして卓球を続けたいという意気込みには感服しました」
「で、この子はどうですか?見込みはありそうですか」
「今日から素振りを始めてまして、それが定着するとボールを打ちます」
「え・・今日から・・?」
節江は不思議に思った。
なぜなら、入部してもう一週間は過ぎている。
なぜ、今日からなのだ、と。
「はい、郡司さんは今日からの参加です」
「和子、どういうことなら」
「ああ・・そのことやけんど・・実は私・・演劇部に入っとったんよ・・」
「なんでなら」
「それは・・その・・」
「あの、お母さん」
日置が呼んだ。
「はい」
「実は――」
そして日置は事情を説明した。
すると節江は、恐れていたことが起こっていたのだと胸が締め付けられた。
「そがなこと・・あんた、なんも言わんと・・」
「でもお母さん、心配いりません」
「どうしてですか・・」
「郡司さんは入学してから、クラスの子たちとあまり話すことがなかったんですが、今日はたくさんの子が話しかけてくれたんですよ」
「・・・」
「それで・・妙なあだ名を付けられてもいましたが、それも今日で解決したんです」
「解決って・・」
「あだ名で呼ぶ子に対して、それをクラスの子が止めてくれたんです」
「そうなんですか・・」
「お母さん」
和子が呼んだ。
「なんなら・・」
「なんも言わんと、ごめん。心配やこ・・かけとうなかったし・・」
「・・・」
「でも、ほんまに大丈夫じゃけに。それにの、卓球部の先輩、みんなええ人ばっかりなんじゃけ」
「そがなこと言うてものぉ・・」
「お母さん」
日置が呼んだ。
「はい」
「ここから学校は近いですし、よければいつでも見学に来てください」
「は・・はあ・・」
「それとですね、桐花卓球部はインターハイ出場が目標です。それで練習のことなんですが、土日はもちろんですが、各学期間の休みも練習は毎日続けます」
「それは・・夏休みとか、ですか・・」
「はい」
「あらら・・こりゃすげぇが・・」
「そこは、よろしいですか」
「あ・・はい・・ええ・・」
「娘さんのことは、僕が責任を持ってお預かりします。どうぞ、今後ともよろしくお願いします」
日置はそう言って頭を下げた。
「いえいえ・・先生。こちらこそ娘をよろしくお願いします」
節江は座り直して、丁寧に応えた。
その横で和子も頭を下げていた。
―――そして翌日。
「頭ボール・・」
中川は頭ボールより、頭ボールの方が音のリズムがいいと感じ、こっちに変更していた。
そして中川は、他の者より一足先に小屋に訪れていた。
中川はボールをラケットにあてて、左右に振ってみた。
「やっぱ・・あれだよな・・手首をもっと柔らかくしねぇとな・・」
そして中川は、何球も続けてボールをコートに送っていた。
「曲がらねぇ・・」
そういや・・浅野先輩は未完成だと言ってたな・・
それほど・・ズボールは難しいってことさね・・
でもよ・・ズボールを完成させれば・・ぜってー三神の野郎に勝てる!
これは間違いねぇんだ・・
なんせ・・この目で見たんだからよ・・
オスカルの空振りをよ・・
オスカルとは山科のことである。
オスカルだけじゃねぇ・・アンドレも、イカゲルゲもクチビルゲも・・
アンドレとは向井のことであり、イカゲルゲは磯部、クチビルゲは仙崎のことである。
そしてエースの天地も・・みんな揃ってクルクルダンスの始まりさね・・
よーーし!やるしかねぇぜ!
ガラガラ・・
そこで扉が開いた。
「あ、中川さん、えらい早いやん」
阿部が中に入って来た。
「よーう、チビ助」
「頭ボールの練習なん?」
阿部は靴を履き替えていた。
「チッチ・・ズボールさね・・」
「ズボール・・変更したんか・・」
「おうさね。今日から頭ボールはズボールに生まれ変わったんでぇ」
「それにしても、ないしょうあたまが、まさか浅野先輩やったとはな」
「おめーも知らなかったのかよ」
「いや、私は内匠頭が浅野先輩やと知ってたけど、ないしょうあたまは、さすがにわからんかった」
「まあいいさね。それよりチビ助よ」
「なに?」
阿部は部室に向かっていた。
「ズボールを出すコツなんだがよ、おめーも協力してくんな」
「うん、わかった」
そしてこの日から二人は、ボールに変化を持たせるには、どのタイミングでどう動かせばいいのか、互いに試行錯誤していくこととなる。
それこそ中川は、腱鞘炎になりそうなくらい手首を動かし続け、何度も何度も挑戦し続けるのである。
ほどなくして小屋には、日置も含めた六人が集合していた。
「さて、郡司さんは今日も素振りね」
「はい」
「他の者は基本から。じゃ始めて」
「はいっ!」
「おうよ!」
そして和子はラケットを手にして、日置の前に立った。
「今は素振りだから、そのラケットでいいけど、打つようになれば替えるからね」
「そうなんですか」
「それと、ラバーもね」
「私・・どげなタイプになるんですか」
「きみは、裏ペンの前陣型」
日置は、杉裏タイプに育てるつもりでいた。
「そうですか」
「じゃ、始めようか」
「はい」
和子は経験者だけあって、日置の指導もすぐに吸収していった。
うん・・このままいくと、郡司さんは早めにボールが打てそうだ・・
この子にも・・予選で頑張ってもらわないといけないからね・・
そう、団体戦ではリーグに上がると、五人目の選手として必ず試合に出なければならないのだ。
勝てないまでも、せめて試合として形になるくらいは成長させてやりたいと、日置は思っていた。
「フリーハンドが下がってるよ」
日置はそう言いながら、和子の左手を持って上げた。
「はい」
シュッ・・シュッ・・
「そうそう、その調子ね」
「はい」
シュッ・・シュッ・・
頑張るんじゃけに・・
絶対に・・へこたれんけに・・
ガラガラ・・
突然、小屋の扉が開いた。
日置はそこへ目をやった。
すると節江が、遠慮がちに顔をのぞかせた。
「あっ、お母さんじゃないですか。よく来てくださいましたね」
日置はすぐに節江の元へ行った。
すると彼女らも、ボールを打つのを止めて節江を見ていた。
「誰や・・」
「お母さんて言うてはったで・・」
すると和子は「お母さん・・」と驚いていた。
「お母さん、どうぞ入ってください」
日置がそう言うと、「すみません・・失礼します」と節江は靴を脱いで中に入った。
阿部は急いでスリッパを節江の足元に置いた。
「どうぞ」
「ああ・・ありがとう」
「きみたち」
日置は彼女らに手招きした。
そして彼女らと和子は、日置の元へ行った。
「こちらは郡司さんのお母さんだよ」
「初めまして、阿部と申します」
「重富です」
「森上ですぅ」
「中川でございます」
中川は、とりあえず普通に挨拶をした。
「和子の母です。和子がこれからお世話になりますが、よろしくお願いします」
節江は丁寧に頭を下げた。
「よーう、おっかさんよ。心配ご無用、郡司のことは任せときな!」
中川がそう言うと、節江は仰天していた。
「すみません、この子、こんな喋り方なんです」
阿部がすかさずフォローした。
「ああ・・そうなんですね・・」
「地方から出て来て、なにかと気苦労があるだろうけどよ、こいつのことは心配いらねぇぜ。なー、郡司よ」
中川はそう言って和子の肩を抱いた。
「あらら・・」
節江は圧倒されて、次の言葉が出なかった。
「お母さん」
和子が呼んだ。
「なに?」
「昨日・・話した人、この人なんじゃけに」
和子は日置が帰ったあと、食堂で中川が助けてくれたことを話していた。
「え・・あんたを助けてくれたいうん、この子やったんね」
「うん」
「あらら・・これは。中川さん、和子を助けてくださって、ありがとうございます」
「あいつら、とことん締め上げておきましたんで、二度としないと思いやすぜ。もし!同じことをやりやがったら、八つ裂きにして大阪湾に浮かべてやりやすんで、ご安心を・・」
「え・・」
「中川さん、もうそのくらいで」
日置は呆れながらそう言った。
「あはは、母ちゃんよ、冗談だぜ、冗談。でもま、締めあげたっつーのはほんとだから、安心していいぜ」
「そ・・そうですか・・」
「中川は、こんな話し方ですが、根はとても優しくていい子なので、安心してください」
「はい・・あっ、先生、これを」
節江は手にしていた紙袋を日置に差し出した。
「これは?」
「みなさんで召し上がってください」
袋の中にはシュークリームが入っていた。
「ああ、どうもすみません。ありがたく頂戴します。きみたち、お礼を言いなさい」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございますぅ」
「いいえ、少ないですけど」
「母ちゃんよ、気を使わせてしまったな。今度来る時は手ぶらで来な」
「あ・・ああ、はい」
節江は思った。
中川は男勝りだが、気のいい子だ、と。
それに他の子も、みんな良さそうな子だ、と。
そしてなにより、日置は素晴らしい人だ。
ここでなら、和子を任せられる。
和子、頑張りなさい、と。




