206 ないしょうあたま
―――そして翌日。
和子は登校したものの、クラスでは一人になるんだと肩を落として教室に入った。
和子は、下を向いたまま自分の席へ急いだ。
そんな中、「郡司さん来たで・・」と、ヒソヒソと囁く声が和子の耳に入った。
和子は思わず足が止まりかけて、そのまま出て行きたい心境に駆られたが、席へ進んだ。
ええんじゃ・・
私は卓球で頑張るんじゃけに・・
教室では・・勉強だけすりゃええんじゃ・・
席に着いた和子は、誰の顔も見ずに教科書とノートを机に置き、意味もなくペラペラとページを捲っていた。
そして早く授業が始まってほしいと願っていた。
「なあなあ、郡司さん」
そこへ数人のクラスメイトが和子の席にやって来た。
和子は一瞬、体が硬直したが、なぜかその声に嫌な印象を受けなかった。
なぜなら、とても好意的な声だったからである。
そこで和子は顔を上げた。
「なに・・」
「郡司さんて、卓球部に入ったんやて?」
「ああ・・うん・・」
「いやあ~~めっちゃ羨ましい~~」
「素振り500回やったん?」
「日置先生に教えてもらえるやなんて、夢のようやん~」
「でもさ、鬼コーチがいてるて言うてたで」
このように、和子が卓球部に入ったことが既に広まっていたのだ。
彼女らは、新入生で和子だけが入部を認められたことで、和子に興味を持ったのだ。
「あの・・参加は今日からじゃけに」
「いやあ~~めっちゃええやん!」
「そ・・そうかの・・」
そこで和子は、なぜ自分が桐花へ来たか、そのきっかけとなった話をした。
すると彼女らは絶叫していた。
「嘘やん!嘘やん!日置先生と二人で卓球~~~?」
「ええええ~~日置先生、島へ行きはったんや~~」
「郡司さんの家で薪割り~~?」
彼女らは、まさに興奮のるつぼと化していた。
「なあなあ、先生、婚前旅行~~?」
「ううん、一人旅じゃったんよ」
「いやあ~~男性の一人旅・・めっちゃロマンチック~~」
和子は、話の内容がどうあれ、こうして席を囲んで楽しく話しかけてくれたことがとても嬉しかった。
この様子を見て、気に入らなかったのが神田だ。
「田舎から出て来た芋ねぇちゃんのくにせ」
神田は、わざと聞こえるように言った。
すると和子を囲んでいた者たちが「ちょっと神田さん」と呼んだ。
「なによ」
「あんた、芋ねゃちゃんて言うん、やめぇや」
「え・・」
「そもそもあんたが言い出したんやん」
「ふん・・」
「言うとくけど、郡司さんをいじめたら、あんた八つ裂きにされるんやで」
「えっ」
「そうやろ?」
この女子は、少し離れたところで見ていた、昨日の三人に訊いた。
すると三人は「うん・・」と頼りなく頷いた。
「もう、めっちゃ怖い人らしいで」
「もうそんな話ええやん。それよりさ~郡司さん、もっと先生の話、聞かせて~」
こうして始業ベルが鳴る直前まで、和子の周りでは話が弾んでいた。
その後、和子は演劇部の田沼にも事情を話し、退部を認められた。
そしてこの日を境に、和子はクラスメイトとも打ち解け、やがて友達もできることとなる。
一方で、神田と友達として付き合っていた者は神田から離れ、やがて彼女は孤立していくのである。
―――放課後。
中川は、昼食前に一人で小屋にいた。
どれどれ・・
中川は部室で日誌を読んでいた。
そう、「ユラユラボール」に繋がるヒントが書かれてないかと探していたのだ。
でもよ・・あんなボール、誰にも出せやしねぇぜ・・
あの日は風でそうなったんでぇ・・
試合中に・・フーッて吹くわけにもいかねぇしよ・・
あっ・・くしゃみするってのはどうでぇ・・
こんな風に考えながら、あるページに書かれていた文面が目に入った。
なにっ・・
魔球だと・・
ないしょうあたま・・?
誰でぇ・・
まあいいさね・・
ないしょうあたまは・・ラケットを台の下で素早く左右に動かし・・相手コートでバウンドするとボールは曲がって変化し、相手は空振りをした・・
おいおい、ほんとかよ!
「ないしょうあたま」とは「内匠頭」、つまり浅野のことだった。
そもそも中川は、浅野内匠頭を知らなかった。
それゆえ、字が読めないのも無理はないのである。
にしてもよ・・ないしょうあたま野郎・・すげぇじゃねぇかよ・・
いや・・待てよ・・
そもそも・・ないしょうたあたまって・・誰なんでぇ・・
少なくとも・・うちの先輩じゃねぇな・・
そうか・・蒲内先輩よ・・
敵の情報もこうやって・・ちゃんと書いてたんだな・・
よーーし!これは使える!
もらったぜ!―――
「みんな、今日から参加することになった、郡司さんです」
日置は練習前に、改めて和子を紹介した。
「郡司和子です・・どうぞよろしくお願いします」
和子は少し照れたように挨拶をした。
「キャプテンの阿部です」
「森上ですぅ」
「重富です」
「中川でございますわよ・・おほほ」
「きみ、今さら、もうバレてるから」
日置がそう言うと、阿部らは爆笑した。
そして和子も楽しそうに笑っていた。
「それで、郡司さんはしばらくの間、素振り500回を毎日続けてもらうからね」
「はい」
「それが定着すると、ボールを打つことになるからね」
「はい」
「それで練習なんだけどね、基本、休みは無し。夏休みも冬休みもずっと練習漬けだけど、いい?」
「はい」
「ここには、おばあさんとお母さんと来たの?」
「いえ、母だけです」
「そうなんだ」
「先生」
阿部が呼んだ。
「なに?」
「郡司さんとは、どこで知り合ったんですか?」
「うん、それなんだけどね、僕、去年、落ち込んでた時があったでしょ」
「ああ・・はい」
「その時、香川に旅行したの」
「へぇー」
「それで偶然、郡司さんが暮らしてる島へ行ったの。その時に知り合ったんだよ」
「そうやったんですか」
「とってもいいところなんだよ。景色が綺麗でね」
「あがなとこやこ・・田舎です・・」
「あはは、きみ、あの日もそう言ってたね」
「はい・・」
「よし、始めようか」
「はいっ!」
「はいぃ」
「おうよ!」
彼女らの弾けた声が、小屋に響いた。
そして日置は、和子につきっきりで素振りを教えた。
和子は、さすがに500回は苦しかったが、やっと日置の下で卓球ができる喜びに満ちていた。
そして先輩たちと一緒にインターハイへ行く、と心に誓っていたのである。
―――練習後。
阿部ら四人は、センターへ向かっていた。
そう、中川が大河と対戦するためである。
「大河くん、来るかな」
阿部が訊いた。
「来なけりゃ逃げたと見做す!」
「でもさ、対戦て、試合するんやろ?」
重富が訊いた。
「ほんとはよ、河原でゴロマキやりてぇが、そう言うわけにもいかねぇやな」
「ゴロマキて、なんなぁん」
「ふふっ・・森上よ、ケンカのことでぇ」
「えぇ~・・ケンカなんてあかんよぉ」
「例えさね、例え」
「河原でケンカ・・愛と誠やな・・」
阿部がポツリと呟いた。
「ところでよ、おめーらも大河とやんな」
「え・・」
「チビ助、え、じゃねぇし。あいつぁ~うめー。だからよ、おめーらのサーブ、試してみる価値はあるぜ」
「ああ、なるほど」
「私はサーブより、カットだ。そこでチビ助、おめーに訊きてぇことがあんだよ」
「なにをよ」
「ユラユラ・・いや、魔球・・いや・・」
「え・・?」
「ないしょうあたまボール・・」
「・・・」
「そうさね・・ないしょうあたまボール・・これだ」
「なに言うてんの・・」
「なげぇな・・」
中川は、阿部に訊きたいと言いながら、勝手に一人で喋っていた。
「略して、頭ボール!」
「頭ボールて、なんなん」
「ふふっ・・おめー、ボールの回転に興味あんだろ」
「うん」
「それをおめーに訊きてぇんだ」
「ええけど、頭ボールて、なんなんよ」
「え・・ちょっと待てよ・・頭は、音読みだと、ず、だな」
「・・・」
「頭球・・いや・・頭ボール・・やっぱ・・頭ボールだな・・」
「頭ボールで決定?」
「おうよ!頭ボール」
「で、その頭ボールがどしたんよ」
「それはあとのお楽しみさね。先に、ジャガイモをぶっ潰す!」
「中川さぁん、またジャガイモてぇ、あかんと思うよぉ」
「かぁ~~、森上には勝てねぇな。わかったぜ」
やがてセンターに到着した四人は、ロビーに足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
樋口が笑顔で迎えた。
「よーう、樋口の旦那」
「あはは、僕、ついに旦那になってしもたんか」
「いいじゃねぇかよ」
「今日は、四人か」
「おうよ、よろしく頼むぜ」
そして阿部らも「こんばんは」と挨拶をしていた。
「ところで樋口さんよ」
「なんや」
「大河は来てっか」
「いや、来てへんで」
そこで中川は、時計に目をやった。
「むっ、八時過ぎてんじゃねぇかよ」
時間は、八時五分だった。
「まだ五分しか過ぎてないやん」
阿部が言った。
「野郎・・ほんとに来ねぇつもりか・・」
「大河くんと約束してるんか?」
「おうよ。決闘さね」
「決闘・・」
樋口はそう言いながら、クスクスと笑っていた。
ほんとに面白い子だ、と。
「樋口さん、すみません」
阿部が詫びた。
「ああ、そうだ。おい、重富」
「なに?」
「おめー、これかけろ」
中川は、鞄から「あの」メガネを取り出した。
「えっ・・これなんなん」
「おめーは、秘密兵器だ・・面が割れちゃあお終いさね」
「いや・・顔は知られてると思うけど」
「念には念をだ。ほれ」
中川はそう言って重富にメガネを渡した。
重富は仕方なく、メガネをかけた。
すると阿部も森上も「とみちゃん~あはは」と爆笑していた。
「それにしても・・大河の野郎・・まじで逃げたんじゃねぇだろうな」
するとそこに、二人の男女が現れた。
そう、それは浅野と三宅だったのだ。




