203 中川の入部条件
―――そして翌日。
休み時間、和子と神田は音楽室に向かうため、並んで廊下を歩いていた。
「なあ、郡司さん」
「なに?」
「担任の、松尾先生て、どう思う?」
「どうって・・」
松尾は四十代半ばの社会担当の男性教師で、その話し方に特徴があった。
「きみぃ~席に着きなさぁ~い。なにをやっとるんだねぇぇ」
神田は松尾の真似をした。
和子は少しだけ笑った。
「似てたやろ?」
「うん」
「あのタイプ、嫌いやねん」
「そうなんじゃな」
そこで日置が前から歩いてきた。
あ・・日置先生じゃ・・
話しかけんと・・
でも・・どげに言えばええんじゃ・・
「日置先生」
神田が声をかけた。
「なに?」
「先生て、モテモテですね」
「なに言ってるの」
そこで日置は和子をチラリと見た。
けれども直ぐに目を逸らした。
え・・先生・・憶えとらんのかの・・
「体育、先生が良かったのに~」
日置は二年の体育を担当していた。
「ほらほら、もう次の授業が始まっちゃうよ。早く行きなさい」
日置はそう言ってこの場を去った。
「やっぱり、かっこええなあ」
神田は日置の後姿を見ていた。
「郡司さん、どうしたん?」
和子は呆然としていた。
「いや、どうもせんけに・・」
「ほな、行こか」
そして二人は音楽室へ向かった。
―――昼休み。
和子は、日置が憶えてないことにショックを受けたが、自分から話せば思い出してくれると考え、一人で職員室に向かっていた。
落ち着いて・・
郡司和子です、と言やぁええんじゃ・・
職員室の前に立った和子は、なかなか入る勇気が出なかった。
そして扉の前を行ったり来たりしていた。
するとそこへ、日置が扉を開けて出て来た。
あっ・・
和子は日置を見上げた。
けれども日置は、そのまま通り過ぎようとした。
「あっ・・あの」
和子が呼び止めると、日置は立ち止まって振り向いた。
「なに?」
「あの・・あの・・」
「どうしたの?」
「私・・」
「ん?」
やっぱり先生・・
全く憶えとらんが・・
そんな・・
私は・・なにしにここへ来たんなら・・
「うっ・・ううう」
和子は思わず涙を流した。
「えっ・・きみ、どうしたの」
「ううう・・うう」
そして和子は、逃げるようにして走って行った。
「おーい、先生よ」
中川が後ろから呼んだ。
日置は振り返って「なんだよ」と答えた。
そう、中川は日置の元へ訪れていたのだ。
そして日置が先に職員室から出たところで、今しがたの光景を目にしたというわけだ。
「ったくよー、ほんと先生は、罪な野郎だぜ」
「僕、なにもしてないよ」
「入学早々、女を泣かしてんじゃねぇぜ」
「だから、なにもしてないって」
「まあ、いいさね。んで、入部の条件は素振り500回でいいんだな」
「うん」
「さてさて~何人、弾いてやっかな」
「やっぱり阿部さんに頼んだ方がよかったかな・・」
阿部はクラス委員に選出され、放課後は会議があるのだ。
「なに言ってやがんでぇ。こういう仕事は私がうってつけってもんよ」
「仕事・・」
「にしてもよ、この先、一体何人の女が泣くのかねぇ。ああ、先が思いやられるぜ」
「まったく・・きみって子は」
「んじゃ、先生よ、放課後な」
そう言って中川は教室へ向かった。
日置は、さっきの子は、なぜいきなり泣いたのが不可解だった。
これまで告白されたことは何度もあったが、さすがに泣く子はいなかったぞ、と。
けれども日置は、こればっかりはどうしようもないと思っていた。
なぜ日置が和子を憶えてなかったかというと、あの日の和子の髪は肩まで伸びていた。
けれども、一念発起した和子は、引っ越したと同時にショートヘアに変わっていたのだ。
おまけに和子の顔は、特に印象に残るでもなく、いわゆる普通だっただけに、無理もなかったのである。
―――そして放課後。
「郡司さん」
神田が呼んだ。
和子は黙ったまま、神田を見た。
「クラブ紹介、行くで」
「うん・・」
「どしたん?元気ないやん」
「神田さんって、どこへ入るつもりにしとるん」
「おお、それやん、それそれ」
「ん?」
「私、演劇が好きでな。だから演劇部」
演劇部・・
私・・そがなもんに興味やこ・・ありゃせんが・・
大体・・人前に立つことすら・・苦手じゃが・・
ほなけんど・・
卓球部いうたかて・・
先生は全く憶えとらんかったし・・
「郡司さんも演劇部な」
「えぇ・・」
「ええやん、な?そうしようや」
「うん・・」
和子は仕方なく頷いた。
そして二人は演劇部の部室に向かった―――
一方で、小屋にはたくさんの生徒が訪れていた。
「おらおらあ~~、おめーら、そこで靴を脱げってんだ!」
先を争って中へ入ろうとする彼女たちを、中川は叱りつけた。
「いやあ~日置先生は、まだですかあ~」
「私が先やで!」
「ちょっと、あんた、横入りせんといてよ!」
「この人・・めっちゃ美人やん」
誰も中川のいうことを聞こうとしない。
ったくよーー!
こいつら、なんだってんでぇ!
「こらあああああーーー!」
中川は大声で叫んだ。
すると騒ぎがピタッと収まった。
「いいか、おめーら。よく耳の穴かっぽじって聞きやがれ!」
「うわあ・・顔は綺麗やのに、ヤクザみたい・・」
「おめー、うるせぇよ!」
「ひぃ~~・・」
「我が卓球部はインターハイ出場が目標でぇ!そこでだ!入部条件は素振り500回であ~るっ!」
すると「えええ~~500回!」と驚きの声があちこちから挙がった。
「それをクリアしないと入部は認めん!」
小屋の外では、掃除当番のため、遅れてやった来た森上と重富は中に入れずにいた。
「はーい、質問です!」
一人の女子が手を挙げた。
「よーし、おめー、言ってみな」
「素振りって、日置先生が教えてくれるんですか!」
「ふっ・・あめぇぜ・・」
「え・・」
「先生はよ、おめーら雑魚に取り合ってる暇なんざねぇのさ」
「ほ・・ほなら、誰が教えてくれるんですか・・」
「ここには・・鬼コーチがいてよ。あれはいつだったか・・」
中川は、なぜかあさっての方を向いた。
「鬼コーチによって・・あいつの骨はバラバラさね・・」
「ええええ~~~!」
「まあ・・俗に言う病院送りさね・・」
「え・・骨がバラバラになったのに・・入院できたんですか」
「おめー、細けぇことはいいんでぇ。さあ、おめーら、その覚悟があるなら、中へ入れてやるぜ!」
すると「病院送りて・・」と口々に話す彼女らは、一人、また一人とこの場を去っていた。
それでもまだ大勢の者が残っていた。
「おめーら、どうすんでぇ」
「疑問なんですけど」
一人が口を開いた。
「おーう、言ってみやがれ」
「そんな殺人事件があったら、そもそも廃部になってるんとちゃいますか」
「けっ、誰が殺人だと言ったよ」
「せやかて・・骨がバラバラにって」
「っんなこたぁいい!とにかく素振り500回でぇ!やるのかやんねぇのか!」
彼女らは顔を見合わせて、困惑していた。
「500回かあ・・」
「日置先生が教えてくれるんやったら、頑張るけどなぁ」
「鬼コーチて・・なあ・・」
そこで中川は、あることに気が付いた。
そういや・・団体戦ってよ・・
五人いねぇとリーグに上がれねぇんだったよな・・
するってぇと・・最低でも一人は確保しなきゃなんねぇってことだ・・
こいつら・・全員弾いちまうと・・
こいつぁいけねぇやな!
「おめーら!聞きやがれ!」
中川がそう言うと、彼女らはまた中川を見た。
「ちなみに、500回出来た者には、先生とキスできる権利が与えられるのであ~る!」
「ぎええええええ~~~!」
当然のように、この場は絶叫に包まれた。
「入る!やります!」
「私、1000回やる!」
「1000回やったら、二回キスできますよね!」
「きゃあ~~~!絶対、頑張る~~!」
「中川!」
生徒の後方から日置の怒鳴り声がした。
「きゃあ~~~日置先生~~!」
こう叫んだのは、中川だった。
「きみは!なにやってるんだ!」
「あはは・・すいやせん・・」
結局、キスが嘘だとわかった彼女らは、素振り500回の前では、誰一人入部する者はいなかったのである。




