19 教師の素養
―――そして翌日の放課後。
日置は阿部の素振りを見ていた。
「ほらほら、左手が下がってるよ」
「はいっ」
「阿部さん、僕を見て」
「はい」
阿部は素振りを止め、日置を見た。
「いいかい、左手はここ。そして右手はここ。ラケットを振るに合わせて体を捻る」
日置はラケットを持った体で、見本を見せた。
「腰もだるくなるだろうけど、前かがみだよ」
「はい」
「じゃ、やってみて」
そして再び、阿部は振り始めた。
その実、阿部は、一日も早くボールを打ちたかった。
複雑な回転とやらを、自分の手で確かめたかったのだ。
そのためには素振りを克服し、日置の「OK」が出るまで、頑張るつもりでいた。
理由はもう一つあった。
そう、森上である。
森上は既にラリーを続けるレベルに達している。
そのうち1000本ラリーも行うという。
阿部は森上にライバル心など抱いてなかったが、少しでも追いつき、一緒にボールを打ちたいと思っていたのだ。
ガラガラ・・
そこで小屋の扉が開いた。
日置は直ぐに目をやった。
すると顔をのぞかせたのは、早坂出版の植木であった。
「こんばんは」
植木はニコッと微笑んだ。
「おお、植木さん。久しぶりだね。阿部さん、そのまま続けて」
阿部は、日置の指示通り素振りを続けた。
日置は植木の元へ行った。
「よく来てくれたね」
「部員、一人なんですか」
植木はそう言いながら、靴を脱いで中へ入り、扉を閉めた。
「いや、もう一人いるんだけど、事情があって放課後の練習はできないんだよ」
「ありゃ、そうなんですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・今さらなんですけど・・」
植木は言いにくそうにしていた。
「なに?」
「僕ね、インターハイで8ミリ撮ってたやないですか」
「ああ、そうだったね」
「実は・・フィルム・・失くしてしもたんです・・」
「ありゃ・・」
「現像はしたんですよ。で、日置さんとあの子らの記念にと思て、プレゼントするつもりやったんです」
「そうだったんだ・・」
「もう・・どこを探してもないんです。ほんまに、すみません」
「なに言ってるの。特集号では桐花に記事を割いてくれて、あの子たちも、すごく喜んでたよ」
「そうですかあ・・」
「何冊も購入する子もいてね。親戚にあげるってね」
それでも植木は申し訳なさそうに、ショボンとしていた。
日置は、気の毒だな、と思った。
「植木さん」
「はい・・」
「フィルムがなくても、あの子たちの脳裏には、あの日のことが焼き付いているよ。僕もそうだし」
「そうですか・・あっ!」
そこで植木は、何かを思い出したように、突然叫んだ。
「どうしたの?」
「そやそや、忘れとった!あのですね、日置さん」
「ん?」
「本、書きませんか」
「ええっ、本?」
「編集長の提案でね、桐花の子らの初心者からインターハイまでのことを、本にするんです!」
「本・・かあ・・」
「日置さん、以前にも出してますよね」
「ああ・・」
日置は過去に『卓球入門/これで君も強くなれる』という本を出していた。
この本を、杉裏は偶然にも、日置が赴任する前に購入していた。
「そうそう、今日は、これを言いに来たんですよ、僕」
「そうなんだ」
「直ぐにとは言いません。でもね、素人から始めて、たった二年でインターハイ、そしてベスト8という事実は、もはや奇跡の物語りですよ。これ、ええと思うんですけど、どうですか」
「そうだね、考えてみるよ」
「是非っ!お願いします」
植木は深々と頭を下げた。
日置は思った。
確かにあの二年間で得た結果は、まさに奇跡だった。
その「物語り」を本にして残すことに、意味があるのではないか、と。
購入する読者もそうだが、なにより、あの子たちがこれからの人生で壁にあたった時、あの辛く苦しかった日々を、読み返すことで乗り越えられるのではないか、と。
そしてこの後、日置は本を書くことになる。
幸いと言ってはなんだが、森上の練習は朝だけだ。
阿部の練習も、そう遅くまではかからない。
なぜなら、マンツーマンだから、時間はたっぷりあるのだ。
よって執筆にも時間が費やせるようになり、その際、蒲内にも声をかけ、蒲内が二年間書き続けた「卓球日誌」を資料として使わせてもらうことになるのである。
―――それから一週間後、季節は六月を迎えていた。
中尾は突然、ボブヘアの髪を茶色に染めて登校してきた。
鞄もペシャンコになり、スカートも規定よりだいぶ長くなっていた。
いわゆるこの時代の不良の服装である。
ちなみに桐花の制服は、上下とも紺色のセーラー服だ。
リボンは濃い青色だった。
けれども今は衣替えのため、上着は白の半袖のセーラー服で、スカートも夏生地だ。
クラスの者もそうだが、なにより驚愕したのは加賀見である。
加賀見は血相を変えて「中尾さん!」と怒鳴った。
「なんや」
中尾は足を広げて席に座り、言葉遣いも変わっていた。
「なっ・・なんですか!その服装と、言葉遣いは!」
「うるさいんじゃ、先公」
「せ・・先公・・って」
加賀見は体をわなわなと震わせていた。
「みなさん、自習しててください!」
加賀見はそう言って、中尾を連れて職員室へ向かった。
クラスでは「どしたんや」「不良みたいやな」などと、囁かれていた。
森上も阿部も、唖然としていたが、自分たちには関係のないことだと思った。
職員室では教師は授業で出払っており、一時間目、授業のない日置は席に座って教材の本を読んでいた。
慌てて職員室へ入って来た加賀見と中尾を見た日置も驚いていた。
「中尾さん!どういうことなの?」
「なにがや」
中尾は加賀見を睨んでいた。
「その服装!その頭!その言葉遣い!」
「お前な、うるさいんじゃ!」
「なんですか!」
「人のこと、なんでも疑いやがってな、それやったら期待に応えたろうと思たんや。それでええやろ!」
「な・・中尾さん!あなたは私を困らせたいの?」
「知るか」
日置は二人の様子を黙って見ていた。
「もう、それなら、学校へ来なくていいです!」
「そうか、わかったわ」
中尾はそう言って、職員室から出て行こうとした。
「中尾さん」
日置は立ち上がって、急いで中尾の元へ行った。
中尾はバツが悪そうに日置を見た。
「帰っちゃダメだよ」
「でもさ!加賀見は来るな、言うたでしょ」
「きみ、加賀見先生となにかあったんじゃないの?」
日置は、突然の中尾の変貌に、きっと理由があるに違いないと思った。
「こいつさ、わざわざ家にまで電話かけてきて、どこへ行くんやとか訊いて、私を監視しとるんです」
「それは、監視してるんじゃなくて、きみを心配してるんだよ」
「あの店へ行ったんも、一回だけやのに、また行ったんやろとか、決めつけるんで、私はこいつの望むようにしたろと思ただけです」
「それで、その髪とその服装なんだね」
「ふんっ」
中尾はソッポを向いた。
「だけどさ、それ似合ってないよ」
日置は少しだけ笑った。
「え・・」
「せっかく髪も綺麗なのに、染めると痛んじゃうし、スカートだって長いと歩きにくくない?」
「そんなん・・」
「とにかく、帰っちゃダメだよ」
「せやかて・・加賀見が」
「加賀見先生」
そこで日置は加賀見を見た。
「なんですか・・」
「生徒に帰れなんて、教師が言う言葉じゃありませんよ」
「・・・」
「引き止めるのが普通ですよ」
「だって、中尾さんは、私に反抗してばかりです!」
「だから何なんですか?」
「え・・」
「反抗するから、中尾が邪魔なんですか」
「ま・・まさかっ・・」
「とにかく、ゆっくり落ち着いて、中尾と話をしなさい」
「・・・」
「そして中尾の気持ちを聞いてやりなさい」
「中尾さんは、本当のことは言いません!」
「いい加減にしろ!」
日置は、たまらず怒鳴った。
加賀見と中尾は、見たことのない怒った日置の顔を唖然として見ていた。
「さっきから聞いてりゃ、一方的に中尾を責めるばかりで、自分の気持ちを押し付けてるだけじゃないか!」
「・・・」
「生徒にも色々いるんだよ。自分の都合の悪い生徒を排除したところで何の問題解決にもならない。教師はね、完璧じゃないんだ。生徒と、時にぶつかり合い仲たがいすることもある。でもね、そんな時は自分を見つめ直すんだよ。自分に非がなかったかってね。非があった場合は素直に認めて生徒に向き合うんだよ。それが教師と生徒の信頼関係を作るんだよ」
加賀見は日置にそう言われ、一言も返せなかった。
「叱ることも大事。教師が生徒を叱ることを恐れちゃいけない。でも、きみの場合は叱ってるんじゃない。自分の感情をぶつけてるだけだ」
「わ・・私・・」
加賀見が小声で呟くように言った。
「失敗するなって・・。失敗したらあかんのです・・」
加賀見は両親の言葉を言った。
「なに言ってるんだよ」
「教師は、失敗したら・・教師やないんです・・」
「きみは、バカか」
「なっ・・」
「失敗しない教師がいたら、教えてほしいもんだね」
「・・・」
「とにかく――」
日置がそこまで言うと、「失敗・・してもええんですか・・」と加賀見は呟いた。
「いいに決まってるだろ」
「でも・・私・・失敗するの・・怖いんです・・」
「いいかっこしようとするなよ」
「え・・」
「失敗を恐れるのは、いいかっこしようとしてるだけ」
「・・・」
「教師としての減点を恐れてるんだよ」
「あのぅ・・」
そこで中尾が口を開いた。
「なに?」
「私、教室に戻りますんで・・」
「うん、そうしなさい」
日置が答える横で、加賀見は中尾を辛そうな表情で見ていた。
「中尾さん・・あの・・」
加賀見が呼んだ。
「なんですか」
「私・・悪かったわ・・」
「先生・・」
「話を聞こうともしないで・・一方的に決めつけて・・」
「いや・・私かて、こんな格好してきて・・」
「その髪と、制服やけど、明日には元に戻してね」
「はい・・」
「日置先生の言うように、似合ってないわ。前の中尾さんの方がずっといいよ」
「わかりました」
「ほな、一緒に戻りましょう」
「はい」
そして加賀見は日置に一礼して、中尾を連れて職員室を後にした。




