185 日置の戦術
コートに着いた日置と板倉は、軽く3本練習を始めていた。
まだ練習段階だというのに、観客席のおばさん連中は「きゃ~~~きゃ~~~」と叫んでいた。
森上の父、慶三は日置の試合を観るのは初めてである。
いや、そもそも卓球しているところを見るのが初めてである。
そんな素人の慶三にも、堂々とした打ちっぷりに、日置のすごさがわかった。
「なあ~お父さん~」
慶太郎が呼んだ。
「なんや?」
「先生~うまいなあ~」
「そやな。めっちゃうまいな」
「僕も~先生に習いたいなあ~」
「ほんまやな」
慶三は慶太郎の頭を優しく撫でた。
そしてコートではジャンケンも済ませ、勝った板倉はコートを選択した。
「ラブオール」
審判が試合開始を告げた。
二人は互いに一礼して「お願いします」と言った。
阿部も森上も重富も中川も、日置がどんな試合をするのか、固唾を飲んで見守っていた。
そう、彼女たちも日置の試合を初めて観るのである。
日置はまず、バックのロングサーブをミドルへ出した。
とてもスピードの乗ったいいサーブだ。
板倉は、右へ素早く足を動かし、バックカットで返した。
フォアストレートに入ったボールを、日置はドライブではなくミート打ちで返した。
あれ?と思ったのは悦子と相沢だった。
慎吾・・珍しいな・・
日置くん・・ミート打ちか・・うーん・・
ミート打ちといえども、そのスピードは目を見張る速さだ。
そして悦子と相沢が不思議に思ったことが、もう一つあった。
そう、日置はいつもより台から離れていないのだ。
板倉の返球を、日置はもう一度ミート打ちで返した。
これはバッククロスを逃げて行くような、とても深いところでバウンドした。
板倉は懸命にボールを追い、なんとか返した。
ミドルに入ったボールを、また日置は前に着いたままミート打ちで返そうとした。
けれども日置は下がったままの板倉を見て、寸でのところでストップをかけた。
慌てた板倉は全速力で前に走り寄り、なんとか拾った。
それを日置は打ちに出た。
けれども板倉は「二度め」があると予測して、あまり下がらずに構えて待った。
すると日置は、また鋭いミート打ちをバッククロスへ打った。
ボールは板倉がラケットを出す前に、後ろへ抜けていた。
「よし」
日置は小さくガッツポーズをした。
「ナイスボール!」
相沢は手を叩いていた。
「さすが日置さーん!すごいーー!」
「やっぱりうまいわ!」
「ひゃあーー」
吉野と三木と箱崎も手を叩いていた。
日置くん・・この攻撃は・・一体どないしたんや・・
なんでドライブ、打たへんのや・・
相沢は手を叩きながらも、こう思っていた。
そんな中、八代だけは日置の意を汲み取っていた。
慎吾・・阿部さんと重富さんに見せるためだよな・・
ドライブのない彼女たちは・・ミートで下げて前後で揺さぶる・・
そしてコースを狙って打ち抜く・・
そうだよな・・
そう、日置は阿部と重富に、カットマンに対する戦術を見せていたのだ。
無論、日頃の練習では、そのことを何度も指導していた。
けれども実際に「やってみせる」のと、練習では明らかに違う。
ましてや相手は実業団の現役選手である板倉だ。
日置にすれば、まさに「相手にとって不足なし」であり、簡単にミスをしてくれるな、とさえ思っていたのである。
この後も日置は、徹底してミート打ちとストップで板倉を翻弄していた。
そのストップも、台上でツーバウンドすることも一度や二度ではなかった。
阿部と重富は、日置のプレーに釘付けになっていた。
「あんなん・・できるんや・・」
板倉に「してやられた」重富は、ポツリと呟いた。
「ほんまや・・」
「せやけど・・先生、なんでドライブ打たへんのやろ・・」
「わからん・・」
「先生、コースを狙えってなんべんも言うてはったけど・・そうか・・こういうことなんや・・」
一方で板倉は、ドライブを「封印」した日置の戦術を不気味に感じていた。
そこで板倉は攻撃に出ようと試みたが、日置はそれを許さなかった。
そう、板倉が打って来ると読んだ日置は、悉く逆のコースを突き、板倉はその度にボールに触らせてもらえない有様だった。
したがって板倉は、守備に戻らざるを得ないという状態だった。
日置の「新たな」戦術に、相沢も舌を巻いていた―――
「慎吾め・・」
悦子が呟いた。
「どういうことなのかしら」
朝倉は、まだ日置の意図が読めずにいた。
「板倉ーー!」
悦子が叫んだ。
板倉は黙ったまま振り返った。
「あんた、実験台にされてんやで!」
「え・・」
「人体実験や!」
えっちゃん・・そんな言い方・・
日置は悦子の言いぶりに唖然とした。
「ゼンジー・・人体実験たぁ、どういうこった」
中川が呟いた。
そんな中川は、日置とはこの程度だったのか、とある意味、失望していたのだ。
確かに日置はうまい。
けれどもドライブを打たずに、ちょこまかとミート打ちで攻める日置が「縮こまっている」ように、中川には思えたのだ。
中川は、何度も「ビビってんじゃねぇぞ!」と言いそうになっていたが、プレッシャーを与えては逆効果になると、我慢していたのである。
そう、まるで監督のように。
「しっかりせんか!」
悦子は怒り心頭だった。
「えっちゃん、実験台ってどういうこと?」
「阿部さんと重富さんに、戦い方を見せてるんや」
「えぇ・・」
「あいつ・・舐めとんな・・」
すると朝倉は「おめー!しっかりしないとタダじゃ置かないわよ!」と叫んだ。
板倉は、なんとも情けない表情で、小さく頷いた。
その後も戦況は変わることなく、結局21-7で日置が1セット目を先取した。
「おい、先生よ」
ベンチに下がった日置に、早速中川が口を開いた。
「ん?」
日置はタオルで汗を拭っていた。
「ん、じゃねぇし」
「なに?」
「まあ・・言いたかねぇけどよ・・なんつーか、ちまちまと」
「ちまちま・・」
「緊張するのは仕方がねぇけどよ・・徹底的に叩きのめす根性はどこ行ったんでぇ」
「徹底的に叩きのめしたつもりだったんだけど」
「叩きのめしてねぇよ!」
「そうかな」
日置はニッコリと笑った。
「笑ってんじゃねぇぞ」
「あはは、ごめん」
「次はだな、勝負に出ろ」
「勝負・・」
「ドライブ打ちまくって、叩きのめすんだよ!」
「ドライブ・・」
「失敗してもいい。ミスしたっていいさね。伝家の宝刀を出さずして、勝っても意味なんてねぇさ」
「確かにその通りだね」
「いいな、ベンチには、みんながいるってこと忘れんじゃねぇぞ」
「うん」
「しっかりしろよ、先生!」
中川は日置の胸をバーンと叩いた。
「なあ・・阿部さん」
重富が小声で呼んだ。
「なに・・」
「中川さん・・あんなん言うてるけど・・違うんちゃう・・」
「うん・・私もそう思う・・」
「だってさ・・先生の戦い方・・めっちゃ勉強になったよな・・」
「それやん・・」
「ほんで・・竹林さん、実験台って言うてはったやん・・」
「うん・・」
「ということは・・板倉さんを使って・・私らに教えてくれはったっていうことちゃう・・」
「確かにそうやな・・」
「先生・・めっちゃ余裕ありまくりってことやんな・・」
「うん・・そやのに中川さん・・あんなん言うて・・わかってないんやな・・」
そこで中川は、ヒソヒソと話す二人を見た。
「おめーら、なにコソコソ言ってやがんでぇ」
「なっ・・なんも」
重富は慌ててそう言った。
「おめーらも、先生のケツを叩いてやんな!」
「ケツ・・」
すると森上は「先生ぇ~次も頑張ってくださいぃ~」と励ました。
「うん、頑張るよ」
日置はニッコリと微笑んだ。
―――一方、『クラクラ』では。
「しかし・・日置、相変わらず余裕やな」
中野は感心したように言った。
「せやけど、ミート打ちも、あんなに上手かったんやな」
板倉は、もうお手上げだ、という風に悔しさすらなかった。
「まったく・・もう・・」
悦子も、もう無理だと怒りは収まっていた。
けれども朝倉は違った。
なぜなら、恋人である板倉を「弄ばれた」からだ。
「板倉くん!」
朝倉が怒鳴った。
「なっ・・なに?」
「悔しくないの?」
「あ・・まあ、悔しいというかなんというか・・」
「板倉くんが勝って、私はハワイ旅行を取りたいのよ」
「うん、そうなんやけど・・」
「次のセットは、根性見せて!」
「朝倉さん」
中野が呼んだ。
「なによ」
「日置は別格や。僕ら、誰が行っても勝たれへんで」
「だからなんなのよ」
「なんなのって・・それは・・」
「まったく、なにが実験台よ」
「ひなちゃん、まあまあ」
悦子は朝倉の肩を抱いた。
「ここは女性軍で、撃沈させよ」
「え・・」
「ひなちゃん自身で、ハワイをゲットや」
そこで中野と板倉は思った。
きみらの相手、吉野と三木やないか、と。
それやったら、僕らかて、目ぇ瞑ってても勝てるで、と。
「中野」
悦子が呼んだ。
「なに?」
「肝心なんはダブルスや」
「うん」
「絶対に容赦せんからな」
「わかってる」
「くそっ・・慎吾め・・叩き潰したる」
その日置はというと、メンバーに励まされながら、ゆっくりとコートに向かっていた。




