180 まだ負けてない
―――一方、クラクラベンチでは。
「慎吾よ、今のあの子らが何をやっても通用せぇへんで」
悦子は独り言のように呟いた。
「なんか、叫んでたわよね」
朝倉が言った。
「あの時も、叫んでたもんなあ」
板倉は、過去のミックスオープン戦のことを思い出していた。
オープン戦で朝倉と板倉は、日置と山崎ペアと対戦した。
その際、日置は素人同然の山崎を率いて、時に作戦タイムでは日置を初め、おばさん連中が叫び声や、意味不明の笑い声を挙げていた。
その結果、自分たちは見事に「作戦」に翻弄された。
板倉はそのことを言った。
「慎吾が相手なら、警戒せんといかんけど、いうても相手はあの子らや」
「さすが、えっちゃん。全く動じないわね」
「ひなちゃん・・頼むわ・・」
悦子は、呆れた表情でそう言った。
「え・・?」
「私を誰やと思てんねや」
「あはは。これは失礼しました」
「よし。中野、行くで」
「おーう」
そして二人はコートに向かった―――
中川と重富は、胸を張って歩き、そのままコートに着いた。
そして重富は「フフフ・・」と、不気味な笑みを浮かべ悦子を見た。
なに笑ろてんねや・・
慎吾め・・私を精神的に攪乱させようとしとんな・・
舐めとったら、あかんで・・
悦子はなんら動じることはなかった。
なぜなら重富の「仕事」は、もうわかっている。
せいぜい、笑いたいだけ笑うがいい、と。
悦子の表情を見た重富は、中川の「作戦」が全く通用しないとわかった。
けれども、まさか裏で返してくるとは考えてもいないはずだ、と。
重富は、絶対にミスをしてなるものか、と覚悟を決めた。
そして試合は再開され、中野はサーブを出す構えをした。
中野は5本目もロングサーブを出した。
来たっ!
その瞬間、重富はラケットを反転させた。
伸びてくるボールに対しての処理は、板と裏では全く異なるが、重富はボールの威力に押されないよう、懸命にコントロールした。
えっ・・
驚いたのが悦子と中野だ。
てっきり、というより、板で返球されると疑う余地などなかった悦子のラケットは、面が板に対応する「それ」になっていた。
重富のボールは、なんとかミドルに入った。
悦子は少し体を詰まらせながら、瞬時にラケットをコントロールし、バックコースへ返球した。
けれども、これは合わせるだけの返球になっていた。
マジシャン竹林さんよ・・
おいしいボールを、ありがとうな・・
食らえ~~クラクラ野郎ども~~!
中川はカットではなく、打ちに出た。
なぜなら、カットで返せば中野は打って来る。
そうなると、せっかくの重富のレシーブが無駄になってしまうと考えたからだ。
すぐさま回り込んだ中川は、思い切り前に踏み込んで渾身の力でバッククロスへスマッシュを打った。
慌てた中野は、ショートで返そうとしたが、ラケットの端にあたってオーバーミスをした。
「サーよしっ!」
やっと二人から、力強い声が挙がった。
「よーーし!ナイスボール!」
日置も大声援を送った。
大村たち四人は「うわああ~~!」という驚きの声を挙げた。
「ええぞ~~中川さーーん!」
観客席で昌朗も大喜びしていた。
「ナイスボール!」
重富は中川の肩をポーンと叩いた。
「おめー、ナイスレシーブじゃねぇか!」
「中川さんの作戦、見事に成功やな」
「よーーし、勝負はここからでぇ!」
―――一方で、悦子と中野は。
「あの子・・裏でも対応できたんか」
そう言ったのは中野だった。
「あほか」
悦子は呆れていた。
「え・・」
「今のレシーブ、やっとこさ、やったやないか」
「・・・」
「よう考えてみぃ。裏も使えるんやったら、とっくにそうしとるっちゅうねん」
「ああ・・確かにそうやな」
「言うとくけどな、あの子はラリー中に反転させることは絶対にない。で、次のレシーブの時も、まず裏はない」
「そうか・・」
「ま、慎吾の指示やったんやろけど、舐めてもろたら困るっちゅう話や」
悦子は「1本やぞ」と中野に言いながら、そのまま構えた。
そして重富は「1本!」と言いながら、サーブの構えに入った。
レシーブは悦子だ。
重富は、悦子に打たせまいと下回転の小さなサーブを出した。
悦子は絶妙のストップで、ネット際にチョコンと落とした。
中川も中野に打たせまいと、ストップで返したが、ほんの少しだけ長くなった。
中野はそれを見逃さず、ドライブをかけに行き、威力抜群のボールがバックへ入った。
重富の頭の中には「台から下がらないこと」という日置の言葉があった。
重富はバウンドしてすぐにラケットにあてた。
するとどうだ。
見事なショートで重富は守った。
バッククロスへ入ったボールに、さすがの悦子でも動きが間に合わず、ショートで対応するしかなかった。
そのボールを中川は丁寧にカットして、またバッククロスへ送った。
中野はもう一度、ドライブを打ちに出た。
けれども今度はフォアストレートに送った。
重富は打たずに、カットする要領でフォアで対応した。
これもバウンドしてすぐに、だ。
やっぱりこの子は・・守りは相当なもんや・・
中野のドライブを・・こうも簡単に返球するとはな・・
こう思った悦子だったが、板のボールなど屁でもない自身にとって、それはチャンスボールでしかなかった。
悦子はミドルに入ったボールを、瞬時に中川の動きを察知してフォアクロスへ弾丸スマッシュを打ちこんだ。
そう、中川は左へ動こうとしていたのだ。
ボールは無情にも、後方へ転がっていた。
「サーよし!」
悦子と中野は互いを見ながらガッツポーズをした。
「うぬぬ・・やはりマジシャン・・私の動きを見抜いてやがる」
「中川!」
日置が怒鳴った。
中川と重富はそのまま振り向いた。
「なにやってるんだ!ボールを追え!」
「わかってらぁ!」
「必ず返ってくる。逆を突かれても追うんだ!」
「誰に言ってやがんでぇ!」
「いいな、絶対に諦めるな!」
「あたぼうよ!」
中川はそう言って左手を挙げた―――
「あはは、慎吾と中川さん、おもろいなあ」
二人の様子を見た悦子は笑っていた。
「それにしても、あの子、めっちゃ気が強いな」
中野は、中川の気の強さに感心すらしていた。
「そやな」
「普通、監督から怒鳴られたらシュンとするで」
「そうならんところが、中川さんの持ち味やな」
「せっかく綺麗な顔してんのに・・」
「あ?」
悦子は不満げな表情を見せた。
「えっ・・」
「顔で卓球やるんとちゃうで」
「わっ・・わかってる・・」
中野は、いらんことを言うてしもた、と焦った。
「おい、中野!」
「なっ・・なにっ・・」
「あんた、ドライブ止められとるがな」
「うん、ごめん」
「相手は女子やぞ。なにやっとんねや」
「わ・・わかってる・・」
「っんま・・しょーもない!」
その後、中川と重富は奮闘を見せるも、中野は長和のエースであり男性だ。
加えて悦子もいうに及ばず、一流プレーヤーだ。
この二人の前では、中川と重富は翻弄されっ放しで、結局、1セット目は21-7で負けた。
中川と重富はベンチに下がって日置の前に立っていた。
「さて、きみたち」
日置がそう言うと、二人は黙ったまま次の言葉を待っていた。
「まさか、もう負けたと思ってないだろうね」
「え・・」
その実、二人とも成す術がないと思っていた。
さすがの中川でさえ、圧倒的な力の差の前では、僅かながら気持ちが引いていた。
そう、勝てない、と。
「まだ負けてないよ」
「でも先生・・相手は強すぎます・・」
「それは初めからわかってたことでしょ」
「そうですけど・・」
「先生よ」
中川が呼んだ。
「なに?」
「それ、嘘じゃねぇだろうな」
「なにが?」
「負けてねぇってことさね」
「当たり前でしょ」
日置はニッコリと微笑んだ。
「いいかい、よく聞いて」
日置は二人の肩に手を置いた。
「次のセットは重富さんのボールを中野くんが受ける。おそらく彼は板を苦手としている」
「え・・」
「きっとミスが増えると思うよ」
「そう・・なんですか・・」
「そこで、重富さん」
「はい」
「きみは、絶対にえっちゃ・・いや、竹林さんのドライブを守り抜くこと。きみならブロックできるよね」
「はい、全力で阻止します」
「で、中川さん」
「おうよ」
「きみは竹林さんにスマッシュを打たせないこと」
「マジジャン竹林は、打って来るぜ」
「マジシャン・・?」
「そこはいい。で、あやつは打って来るぜ」
「だから、スマッシュじゃなくてドライブを打たせるの。ドライブなら重富さんは返せる。それを中野くんが受ける。打ち慣れてない板なら、対処も甘くなる。きみはそれを打って出る」
「ほーう」
「打てなくても、きみにはカットがある。またそこから立て直せばいい。ラリーが続いたとしても、きみたちは守りが主だ。そこは絶対に根負けしちゃいけない」
「はいっ」
「おうよ!」
「よーし、じゃ、徹底的に叩きのめしておいで」
日置は肩をポンと叩いて送り出した。
―――一方、クラクラベンチでは。
「中野」
悦子が呼んだ。
「なに?」
「あんた、板を気にしたらあかんで」
「うん、そのつもりや」
「序盤、絶対にリードするぞ」
「うん」
「競った試合なんか、絶対に許さへんからな」
その実、悦子は中野の板の対応に不安を抱いていた。
それに中野は競った試合に弱い面がある。
万が一にも後半で競りでもしたら、最悪、2セット目を落とすことになり兼ねない、と。
そうなると、3セット目は今しがたのセットのようなわけにはいかないぞ、と。
悦子は三神出身者としての誇りがある。
セットオールですら、プライドが許さない。
ここは、2-0、しかも10点も取らせてなるものかと、中川と重富を見つめていた。




