176 あり得ない選択
「な・・中川さん・・」
大村は蚊の鳴くような声で、中川を呼んだ。
「なんだよ」
中川は、チラリと大村を見た。
「い・・1点取るには・・どうしたらええんかな・・」
「知らねぇよ」
「え・・」
「知らねぇって」
「せ・・せやけど・・このままやと・・0点で負けてしまう・・」
「負けてもいいんだろがよ」
「そ・・そやけど・・」
「ちょっと、なにやってんの」
悦子はしびれを切らし、大村を呼んだ。
「ほらよ、向こうさんは待ちくたびれてんぞ」
「・・・」
「すみません、直ぐに行きます」
中川は悦子にそう答えた。
あれ・・
中川さんて・・慎吾が言うてたんとちゃうやん・・
普通やん・・
「大村・・はよ行った方がええぞ・・」
山内は焦っていた。
「あ・・あの、僕、棄権したいんやけど・・」
なんと大村は、怖気づいているとはいえ、棄権と言い出した。
彼らも重富も、唖然とした。
けれども中川は、特に驚きもしなかった。
「ほんとに棄権すんだな」
「う・・うん・・」
「それでいいんだな」
「せやかて・・足が・・動かへんのや・・」
そこで中川は、審判の元へ行った。
「すみません、大村、ここで棄権します」
「えっ!」
審判の男性は、大村を見ていた。
「棄権て・・それ、ほんまか?」
悦子は、あり得ない大村に呆れを通り越していた。
「はい」
「そうか。わかった」
そして審判は大村を呼んだ。
なぜなら、棄権といえども、きちんとコートに着いて勝敗を告げなければならないからだ。
大村はトボトボとコートに向かった。
「えー、第一試合は文久の途中放棄ということで、クラクラチームの勝ちです」
「ありがとうございました」
悦子はきっちりと、頭を下げた。
けれども大村は、言葉も発さずにぺこりと一礼しただけだった。
館内では、「具合でも悪るなったんか」や「棄権て・・」などの声があちこちから挙がっていた。
「ご・・ごめん・・」
ベンチに戻った大村は、彼らに詫びた。
「大村・・」
彼らは言葉も出なかった。
「しゃあない。相手は強すぎた」
小松が言った。
「そや。気にすることないで」
代田もやっとのことで、そう言った。
「よーーし、重富!」
中川は彼らのことなど無視して、重富を呼んだ。
重富は黙ったまま中川を見た。
「おめー、勝てよ!」
「うん!わかってる」
「クラクラ野郎をぶっ倒して来な!」
「おうよ!」
そして重富は意気揚々とコートに向かった。
―――クラクラベンチでは。
「あはは!クラクラ野郎て」
悦子は中川の言葉に爆笑していた。
「なるほど。日置さんが言ってたのって、こういうことだったのね」
朝倉も笑っていた。
「慎吾、なに言うてたんや。中川さん、おもろいがな」
「でも、おめーって言ってたわよ」
「ええがな。重富さんとはチームメイトなんやし」
「確かにそうね」
「中川さん、審判や私には、ちゃんと話してたで」
「そうね」
「大村より、何百倍もええがな」
悦子は、怯まずに相手に向かってくる中川の姿勢を言った。
「あの子、板やな」
中野が板倉に言った。
「そうやな」
「お前、女子に負けるわけにはいかんぞ」
「あはは、俺が負けると思てんのか」
「まさか」
「ほな、行って来るわ」
「板倉くん、頑張ってね」
朝倉がそう言うと、板倉はニッコリと笑った。
―――コートでは。
3本練習も終えて、いよいよ試合が始まろうとしていた。
サーブは重富からだ。
相手はカットマンで・・私は板・・
おそらく板倉さんは・・私が繋いでくると思ってるはずや・・
ここは・・裏をかいて・・
そう考えた重富は、裏ラバーで、横回転が多めの斜めのロングサーブをバッククロスへ送った。
サーブを出したと同時に、重富はクルッとラケットを回転させた。
この技を見て驚いたのが、悦子らであった。
これは、なかなかだぞ、と。
板倉は、バックカットしたものの、回転を見誤りボールはバックコースへ高く返った。
重富は、迷うことなくすぐさま回り込み、渾身の力でスマッシュを放った。
ナックルの、なんとも取りにくいボールは、そのままバッククロスを抜け、床に落ちた。
「サーよしっ!」
重富は力強くガッツポーズをした。
「よーーし!いいぞ~~重富~~!」
中川も右手を高く挙げ、大きな声を発していた。
「ナイスボール!」
日置も後方で声援を送った。
文久の彼らは、重富の姿をまともに見られる状態ではなかった。
特に大村はそうだった。
この様子を見た日置は、同じ男として情けないと思った。
いや、男というより、助っ人として頑張る女子高生に、チームメイトとして応援もしないのか、と。
「あの」
そこで日置は、大村に声をかけた。
大村は黙ったまま日置を見た。
「僕、あの子たちの教師なんですが、ベンチに着いてもいいですか」
「え・・」
「卓球部の監督をしています、日置と申します」
「ああ・・」
「応援したいので、よろしいですか」
「はい、どうぞ、どうぞ」
大村の代わりに山内がそう言った。
「ありがとうございます」
日置はそう言って、中川の横に立った。
「おう、先生じゃねぇか」
「重富さん、出だし、いいね」
「おうよ!クラクラ野郎をぶ倒さねぇとな!」
日置が言った通り、重富は板倉相手に奮闘していた。
重富は、最初の1本は自ら攻撃に出て板倉の出鼻をくじいたが、その後は守りに徹していた。
けれども単に守っているのではない。
同じツッツキでも、プッシュに近い攻撃的なツッッキも取り入れ、どうにかしてチャンスボールを作ろうとしていた。
けれども相手は実業団の現役選手であり、百戦錬磨のプレーヤーだ。
ツッツキとカットで対応していたが、板倉は徐々に攻撃を織り交ぜるようになっていた。
板倉の鋭いバックハンドに、重富は翻弄されていた。
そう、タイミングが合わず、後逸を繰り返していた。
「重富さん」
日置が呼んだ。
重富は黙って振り向いた。
「タイム取って」
「はい」
そして重富はタイムを取ってベンチに下がり、日置の前に立った。
「いいかい。台から下がっちゃダメだよ」
「はいっ」
「きみがバックハンドを返球しても、相手にはカットがあって、必ず立て直してくる」
「はいっ」
「ツッツキだけじゃなくて、カット打ちを混ぜようか」
「はいっ」
「そして前後に揺さぶろう」
「はいっ」
「よし。ここからだよ。徹底的に叩きのめしておいで」
「重富、しっかりな!」
日置と中川は、重富の肩をポンと叩いた。
カウントは現在、9-5で重富はリードを許していた。
「打つと見せかけてからのストップだな」
中川はコートを見たまま、日置にそう言った。
「重富さんのスマッシュは、コースを狙わない限り抜けることはない。必ず返って来る」
「おうよ」
「前後に揺さぶると、必ずチャンスは来る。ボールに威力がなくてもコースさえ良ければ抜けるよ」
「なるほどさね」
―――一方でクラクラベンチでは。
「慎吾よ、とうとう我慢できんとベンチに入りよったな」
悦子がそう言った。
「だって教え子なんだもの。そうするわよ」
「あいつな・・なにをやって来るかわからんやろ。そこが難儀なんや」
「それにしても重富さんも、上手いわよね」
「まあ、確かにな」
それでも悦子は、重富のレベルでは三神の敵ではないと思っていた。
「板倉」
中野が呼んだ。
「なに?」
「バックハンドもええけどな、やっぱりフォアドライブやぞ」
「ああ、そうやな」
「相手は女子や。お前のドライブなんか取られへんぞ」
「うん」
「5点は取られ過ぎやぞ。ここは一気に離すぞ」
「おう、わかっとる」
そして二人はコートに戻った。
重富と日置の様子を見ていた大村たちは、日置のアドバイスに舌を巻いていた。
そして自分たちの不甲斐なさを、今さらながら思い知る始末だった。




