168 日曜日の試合
―――ここは、瀬戸内海の、とある島。
「なあ、おかさんよ」
郡司節江は、母親のトミを呼んだ。
トミは、広縁に座って日本茶を飲んでいた。
「なんなら」
「ほら、これ見てくれぇの」
節江は、A4サイズの茶封筒をトミに渡した。
「これ、なんなら」
トミは、湯飲みを置いて中を覗いた。
「和子・・願書取り寄せたんじゃが」
「ほー」
「あんだけ反対したのに、あの子、受験する言うて、聞かんのよ」
「ああ~あの先生を追ってな」
そう、郡司和子は桐花学園を受験すると決めていたのだ。
「受かってみぃ、大阪へ行かな、あかんけに」
「わーが、着いて行きゃあええが」
※ 「わー」とは「あなた」という意味です。
「ほなら、おかさん、一人じゃが」
「わしやこ一人でもええ。年金もあるし、なんなと食べて行ける」
「そがなこと言うてものぉ・・」
無論、節江は年寄りの母を心配した。
「みんな、おんじゃけん、なんも心配することやこ、ありゃせんのよ」
トミは、島の住民のことを言った。
そもそもこの島は、都会人が聞くとうんざりするほど近所付き合いが盛んだった。
互いが互いの家を訪問することなど、日常茶飯事だった。
「ほなけんどのぉ・・生活していくには、私が勤めに出んとのぉ」
「わしが仕送りしちゃるけに、わーは、パートタイマーでもすりゃええのよ」
「まーのぉ、パートタイマーなんて、ハイカラな言葉、知っとんじゃもんのぉ」
「あはは、わしはずっとラジオを聴きょんじゃけに、わーより、国際人よの」
「まーのぉ」
「それより、和子の好きなようにさせてやれ。ええな」
この後、和子は桐花を受験して合格する。
そして四月には、晴れて入学することとなる。
けれども日置は、まさか和子が入学するとは夢にも思わなかったのである。
―――二月も中旬に入った、ある日のこと。
「なあ、文子」
重富の父、昌朗は、今しがた帰宅し、風呂から上がった重富を呼んだ。
「なに?」
重富はタオルで頭を拭きながら、リビングのソファに座った。
「卓球は、どうや」
「うん、頑張ってるよ」
「そうか」
昌朗は、重富がスポーツで汗を流すことに賛成だった。
なにより、自身も会社の草野球部に所属しているくらいだ。
「あのな、実はうちの卓球部やけど、今週末、試合があってな」
「へぇー」
卓球部といっても、いわゆる本気の「実業団」ではない。
弱小チームである『文久薬品』は、経験者も何名かいたが、いわば趣味で寄せ集まった同好会のような存在だった。
弱小とはいえ、曲がりなりにも社名を背負って試合には出る。
よって経費は会社負担だ。
中堅会社である文久薬品は、懐事情に余裕があるわけではない。
今週末の試合で勝てなければ、解散の危機に追い込まれていたのである。
「なんや知らんが、試合に勝たんとあかんらしいねや」
「そうなんや」
重富はタオルをソファに置いた。
「これこれ文子」
母親の素子が、濡れたタオルを手に持った。
「ああ、ごめん」
「ほんで、今の実力やと勝たれへんらしいねや」
昌朗は素子に目をやりながら、話を続けた。
「そうなんや」
「ほんでな、お前、助っ人で出たってくれへんか」
「ええ~私が?」
「そや」
「練習あるしなあ」
「一日だけやねん。試合に勝ったら、とりあえずは命を長らえるんや」
そこで重富は「プッ」と笑った。
そう、命を長らえるという例えが、まるで中川のようだ、と。
「なに笑ろとんねん」
「いや、別に」
「で、どうや。頼まれてくれるか」
「先生に、相談せんとあかんわ」
「うん、是非、そうしたって」
「でも、お父さん」
素子が呼んだ。
「なんや」
「文子はインターハイ目指してるんよ」
素子は、弱小チームとわけが違う、と言いたかった。
「わかっとる」
「ほんなら・・」
「タダで出てくれとは言わん。小遣いやる」
「ええ~~、なんぼくれるん?」
「バイト代として三千円や」
女子高生にとって、臨時収入の三千円は高額だ。
「お父さん・・お金で釣るやなんて・・」
素子は呆れていた。
「わかった。積極的に善処する」
重富は、わざと大人ぶってそう答えた。
―――そして翌日。
「と、いうことなんですけど、私、今週の日曜、練習休んでもいいですか」
放課後の練習前に、重富は日置に相談した。
「そっか。試合に出るんだ」
「なんか、小さな大会らしいですけど、崖っぷちに追い込まれてるらしいんです」
「おいおい、重富よ」
ここで中川が黙って聞くわけがなかった。
「なに?」
「その試合だが、出るのはおめーだけかよ」
「ああ・・まあ、父は私だけみたいなこと言うてたけど」
「かぁ~~親父さんよ、水臭せぇじゃねぇか」
「え・・」
「先生よ」
「なに」
「ここはいっちょ、私らも助っ人ってことで」
「また、きみ・・」
日置は「はぁ・・」とため息をついた。
「なんでぇ」
「きみたちが出たら、それは文久薬品じゃないから」
「部の存亡がかかった試合だぜ?そりゃおめー、一肌脱ぐってのが人ってもんよ」
「きみ・・おめーって言ったね」
「あっ・・こりゃ済まねぇ。で、私らも助っ人ってことで」
「先生」
阿部が呼んだ。
「なに?」
「どんな試合か知りませんが、見学するのもええんとちゃいますかね」
「まあ、そりゃそうだけど」
「私はぁ、バイトがあるんでぇ、行けませぇん」
「うん、森上さんはそうだよね」
日置は思った。
重富は、まだ外での試合を経験したことがない。
昨年の団体戦には出たものの、あれは試合ではない。
ここは、重富に場慣れさせるいい機会だ、と。
そしてどんなメンツであれ、外で勝つという意味の大きさを実感させる機会でもある、と。
「じゃ、重富さんは試合に参加ってことで、僕と阿部さんと中川さんは見学と応援ね」
「おうよ!」
「中川さん」
日置が呼んだ。
「なんでぇ」
「いいね、見学と応援だから」
「けっ、わかってらぁな」
―――そして練習後。
「おい、チビ助」
小屋を出たところで、中川は歩きながら阿部を呼んだ。
「なに?」
「おめー、わかってんだろうな」
「なにをよ」
「試合さね、試合」
「え・・」
「ラケットと靴、持ってきな」
「でも、先生、見学て言うてはったやん」
「そうさね」
「そうさねて・・」
「いざという時、持ってるもん持ってねぇと、試合もへったくれもありゃしねぇぜ」
「あんた・・出るつもりなん・・?」
「いや、見学、アーンド応援さね」
「嘘や、出るつもりやろ」
「まあ、いいってことよ!あっはっは」
中川は高笑いをしながら、阿部の肩をポーンと叩いた。
その実、今回の試合は、小さな大会どころか、優勝賞品がハワイ旅行というとんでもない大会だったのである。
卓球の知名度を上げるため、協会はこの企画を立てた。
したがって、弱小であろうと強豪であろうと、どんなチームでも参加可能だった。
文久薬品チームは、ハワイ旅行が魅力的に映ったが、まさか優勝できるはずもない。
けれども、一勝すれば部の存続はとりあえず約束されるのだ。
運よく、自分たちより弱小チームと対戦できれば、それが叶うわけだ。
―――ここは、森上家。
帰宅した森上は、遅い晩ご飯を食べていた。
「恵美子」
父親の慶三が呼んだ。
「なにぃ」
森上は口をモゴモゴさせながら返事をした。
「桐花も出るんか?」
「え・・なにがぁ」
「日曜日の試合」
「なんのことぉ・・」
森上は、まさか重富が出る試合だとは思ってもみなかった。
「なんや、うちの工場でも試合に出るいうてはりきっとんねや」
「へぇー・・」
「優勝したら、ハワイ旅行やぞ」
「わあ~すごいなぁ」
「せやけど、卓球なんかほとんどやったことないもんばかりやのに、ハワイ旅行てなあ」
「そうなんやぁ」
「お前、出たったらどうや」
「えぇ・・バイトがあるしぃ」
「休み、貰ろたらええがな」
「せやけどぉ・・」
森上は、休めるなら重富の応援に行きたかった。
「お前、強いんやから、出たってくれよ」
「でもぉ、そんなん、私ぃ工場の人間とちゃうしぃ」
「わしから話とくがな」
「そうなぁん」
なんと、このように森上は工場の代表として出ることになったのである。
森上は、日置や阿部らに気を使い、試合に出ることは伏せていた。
そして、試合当日を迎えるのであった。




